【四十九】

 いくつも重なる咆哮のような声にフィリシアは背後を見た。なにが起こっているのか把握できないが、マーサとヒリックがここに来て、そしてエディウスらしい人影もある。さらに、セタの谷にいるはずのバルト兵もここに到着したらしい。
 途切れ途切れに聞こえてくる喊声かんせいと高い金属音にフィリシアの表情が険しくなる。バルト兵が動いている――それは、緊迫しながらもかろうじて保たれていた均衡が完全に失われたことの現われだった。
(まだ早い。早すぎる)
 準備が整っていない。できる限りバルトに被害が出ないようにイリジアをくだすには内面から大きく揺さぶりをかける必要があり、それにはどうしても首謀者であるアーサーの存在が邪魔なのだ。谷を出たときの状況を考えればバルト兵の装備も万全とは言いがたい。
(すぐにでもここから離れないと)
 焦りに気がく。乱戦となるだろう城で、退路がどれだけ残されているのか考えると冷や汗が流れた。国王の弟であるアーサーと、同じく国王の婚約者であるフィリシアが共に逃避したことが知れ渡れば、それは彼女が失踪した当時の噂の裏づけになる。
 戦渦に巻き込まれて死んだと言われるならいいが、逃避行の現場だけは見られるわけにはいかない。たとえイリジアに勝利したとしても、バルト王家を信じて従ってきた国民は国王の先見のなさに落胆し、王子に失望し、その基盤は大きく揺らぐだろう。見咎められるわけにはいかないのだ。この国の――エディウスのためにも。
 フィリシアは剣を抜いた。
 裏切り者と決着をつけ、それで終わりではない。誰にも知られず安全な場所に逃げたあと、フィリシア自身の戦いはそれから始まるのだ。彼女は心の中で何度もたどる。マーサの死にいまだ零れそうになる涙をこらえ、何度も何度も美奈子の残像をたどり続ける。
「惣平」
 かすかに漂ってきた甘い香りに思考を切り替え、気を付けてと告げようとした矢先、無防備に振り向きながら階段をのぼり切った少年の頭上に白刃が舞った。声を発するよりも早く、フィリシアは手にした剣で振り下ろされた一撃を受け、息をのむ。
 鋭い痛みに手が痺れ肩に激痛が走る。いつもなら平然と流す打撃に剣が弾かれて床に落ちた。
「よく出来ました。……なんだ、あんたか」
 驚いたように目を見張り、
「怪我してるのか、舞姫さま」
 過去に一戦交えた男は、フィリシアの剣舞の腕前をよく知るがゆえにそう口にしながらも後退した。
「お、オレもな? あんたにやられた傷がうずくんだよ。わかるか、舞姫さま」
 体が大きく揺れる。ダリスンがさらに数歩後退って、床に小さく盛られた何かの上で手にした布袋をひっくり返す。大量の枯れ葉が音を立てて落ちると、白い煙が勢い良く立ちのぼった。
 ただよってきた甘い香りに、フィリシアは言葉をのみこんだ。
(クカ……!!)
 麻薬の一種であるそれは、使う人間によって微妙に効果が違う。ダリスンはフィリシアにつけられた傷をゆっくりと揉み、にじんできた血に楽しげな笑い声をあげた。
「いい匂いだろ、病み付きになる。火が欲しくて下でいろいろ探したら、出られなくなっちまってよぉ。クカ……ああ、残りはどこに隠したっけ?」
 鈍く痺れる腕に苛立ちながらダリスンを睨むと、まっすぐ剣を向けてきた。剣に残ったわずかな血に、フィリシアの体は怒りに震える。
(マーサは)
「……下にいた子は、お前が殺したの?」
 感情を押し殺して問いかけ、横からの視線に気付いてフィリシアは剣の柄をきつく握った。
(疑われている……?)
 美奈子は彼の目の前で死んでいるのだとしたら疑っても仕方ない。いや、むしろ疑うべきだ。だが強く否定しない現状から、迷っている可能性も高い。
 ここでしくじるわけにはいかないと、フィリシアは自分自身に言い聞かせた。
「こ、答えて」
 床に落ちたままの剣との距離を測る。負傷した腕に妙な力が加わってしまったのか、鋭く刺すような痛みは断続的に続いて治まる気配がなく、打撃にどれだけ耐えられるか不安だった。
 戦いが長引けば長引くほど不利になる。計算高い男は、フィリシアの負傷をとっさに見抜いて楽しげな笑みを浮かべて窓辺により、外の様子をうかがって小さく声をあげた。
「バルト兵だ。やるじゃねぇか、イリジアはまだ兵を整えてねぇ。これで鏖戦おうせん決定だ。……最後に勝つのはオレだけどよ?」
「どういう事だ」
「……アーサー様、ひどいじゃないですかぁ。オレは言われた通りにしたんですよぉ。そりゃあ少しは命令に背きましたけど、だからって始末することないじゃないですかぁ」
 アーサーの質問には答えず、ダリスンは大げさに肩をすくめて溜め息をついた。
「オルグを殺したのはお前か」
 アーサーの問いにダリスンは動きを止める。そして、主人であるはずの少年を見下すようにふてぶてしく見つめて口を開いた。
「この世には二種類しかいない。死ぬ人間と、生きる人間。てめぇらがどうやって死のうが関係ねぇが、オレはどんな手を使ってでも生き残る」
 真っ当な思考とは思えないどこか虚ろな男は、気味の悪い笑顔を浮かべて手を背後に回し、それをゆっくり突き出した。
 赤く赤く血塗られた短剣を。
 窓の外に落としたはずの銀細工の剣についたのが誰の血なのかなどいまさら尋ねる必要もない。苦しげに服を掴んだマーサの顔が脳裏に浮かぶ。
「いい金になるぜ、この剣。ばらして売るかこのまま売るか――バルトの遺品とでも言えばいい値がつく。こんなに働いたんだから王様の工房から金になる銀細工をいただいていかなきゃワリに合わねぇ。ちゃんとオルグ先生の息の根、止めてやったしよ? あの兵士も胸くそ悪い侍女も殺してやったんだ。いい働きだろ?」
 おどけて一礼する。死にゆく者を哀れむことも、殺すことへの罪悪もなにも感じていないのが伝わってくる。むしろこれは、快楽なのだろう。笑顔が醜く歪んでいた。
「……もっと早く始末しておくべきだったな」
 苦く吐き捨てたアーサーを見て、フィリシアはいったん剣を利き手で持ち、違和感を覚えてさらに剣を持ち直してしっかりと握った。
 師匠が剣を二本使っていたため、フィリシアもそれで慣れている。主に使うのは利き手である右で、左はそれを補う形での戦闘になる。ゆえに、利き手が使えないとなるとかなり条件が悪い。クカの煙を避けるように身を低くして、フィリシアは唇を噛んだ。
 それでも、この状況でも戦わなければならない。戦って、そして――。
「惣平、どいて」
「ミナ?」
「私がやる。失敗したら、あとはお願い」
 止める声を無視してフィリシアは足を踏み出す。力では圧倒的に不利だ。剣を拾うそぶりを見せないフィリシアに、ダリスンは肩を大きく揺らして嘲笑した。
「お前切り刻むのが夢だったんだよ。舞姫さま」
 器用に剣を操ってダリスンは慎重に間合いを計っている。クカで乱れがちな足元は、よくよく見れば真実乱れていないことが知れる。
(――この男)
 常用者だ。依存し溺れる男は、痛みも罪悪も持ち合わせず、残虐な行為にただ酔いしれる。しかしそれは勢いに任せたばかりの感情ではない。表情とは真逆に、動きの一つ一つが冴えていくのがわかる。
 まるで獲物を狙う獣のようだ。小さな音とともに足元が揺れた瞬間、ほぼ同時に床を蹴って互いの剣が激しくぶつかった。
(駄目だ、力では負ける)
 とっさに右手で支えて剣を流して身を引くと、男は短剣をちらつかせて笑みを浮かべた。
「これが欲しいだろ。大事な侍女の血をたっぷり吸ったこの剣がよ?」
 挑発の言葉に怒りが増したが、フィリシアはそれを表に出すことなく静かに剣をかまえた。しかし、ダリスンが引きつった笑い声をあげながら短剣の鞘に付着した血をねっとりと舐め取ると、平静を装っていたフィリシアの体が小さく震えた。
 再び足を踏み出すと城外の乱戦を報せる音がひときわ大きく響き、一瞬気を取られた男の剣をかわしてフィリシアは床に落ちていた剣を拾い上げ、低くかまえなおした。鈍痛に痺れる手で柄をきつく握ると、ダリスンは明らかに落胆して舌打ちする。
 剣すらまともに使えないのだと思っていたに違いない。事実その通りなのだが、フィリシアは平然と笑顔を見せた。
 己の色香で惑わせるのも戦術なら、敵を挑発し、逆上させるのも戦術だ。内にくすぶる怒りを押し隠し、フィリシアは剣を軽く重ねてにっと口元を引き上げた。
 クカの芳香がきつくなる。
 よろめきそうになる足をしっかりと固定させ、それからじりじりと移動させる。ダリスンの顔には相変わらず人を小馬鹿にしたような笑みがあるが、まとう空気が大きく変化した。
「クカ、いい具合に回ってるな」
 小さく満足げな声が聞こえたときには、再び右手の剣が払い落とされていた。
 激しい痛みにフィリシアの口から小さく悲鳴が漏れる。この麻薬は人によって微妙に効果が違うのが特徴だが、どうやらかなりの質が悪いらしい。大きく揺れはじめた視界に思わず膝をつくと、目の前に立つ男の姿がぐにゃりと形を崩した。
「やめろ……!」
 アーサーの声が聞こえる。彼は壁に預けた体を引き剥がし、よろめきながら数歩進んでフィリシアと同じようにその場に座り込んでこめかみを押さえた。
「王子様は順番待ち。姫君をないがしろにしたら、騎士の名折れだ」
 不快な笑みを口元に刻み、長剣を鞘に戻して秀麗な短剣を手にする。
「さっき試したが意外とよく斬れるぜ、この剣」
 見せ付けるように短剣を抜いてゆくと、剣身に拭き取りきれなかった血のあとがあった。
「許さない……!」
「動けないだろ? 火は消えちまったようだが、これさえあればオレは逃げられる。ああ、残りのクカの場所、どこだったかなぁ」
 考えるように首をひねるとその体が傾いて床に崩れ、すぐにダリスンの罵声が続いた。力なく座り込んだフィリシアの目にダリスンを突き飛ばしたアーサーの姿が映る。彼は渾身の力を振り絞って立ち上がり、凶器となる短剣へと手を伸ばしていた。
 しかし、それより早く血塗られえた手が短剣へ伸び――。
 そして。
「その剣に触れるな。下賎者に所持の許可を出した覚えはない」
 甘くよどんだこの空気に不釣合いな凛とした声が耳に届き、フィリシアはもつれる二つの影から視線をはずし、声のする方向を見た。
 澄んだ剣先がバルトを裏切った男に向けられている。
「あれは貴様の仕業か?」
 さらりと銀の髪を揺らし、彼は視線だけを階段へと向けた。階下を思い出し、そして目の前の男を見て、不覚にも涙があふれた。
(エディウス)
 胸の奥で呼びかけると、それが聞こえたかのように彼の厳しい視線がフィリシアに向き、ほんの少し優しくなる。胸の奥が痛くなる。もうすでに歩む未来は決まっていて、いっしょには生きられない人なのだとわかっているのに未練が残る。
「無事でよかった、アーサー」
 なにも知らないエディウスは短剣を奪い合っていた弟≠ノ声をかけながら、過去に忠誠を誓い仕えてきたはずの男に剣を向ける。ダリスンは飛び跳ね体勢を立て直すと、口惜しいのか剣を手にしたアーサーを睨んでから己の剣を抜いた。
 悪鬼のごとき表情は、すぐに余裕の笑みの中に消える。剣をかまえるエディウスを遠巻きに眺め、窓の外をちらりと確認して改めて剣を君主へと向けた。
「……無礼だろう」
「いまから死ぬヤツに礼を尽くしてなんになるんだよ? へへ、バルト王の首を取ったら、オレも箔がつくぜ」
 フィリシアはゆっくりと歩く男に疑問を抱く。この城から逃げなければならないはずの男にしてはやけに余裕があるのが気になる。理由を考え、しかし上手く思考が働かずに苛立ってから、彼女はようやく室内を埋める芳香を思い出す。
 クカはエディウスも愛用していた麻薬だ。人を狂わせ、常用し続ければ人格を破綻に追い込むこともある危険なもの。ダリスンはそれがエディウスの体から自由を奪うまでの時間をかせいでいるに違いない。
 そこまで思い至り、フィリシアは顔をあげた。彼女がそれを伝えようと口を開くよりも早く、ダリスンはゆらゆらと歩きながらエディウスに向けて言葉を投げた。
「いい匂いだろ、国王陛下。頭の奥が痺れるような――」
「粗悪品だな」
 ぽつりとエディウスは小さく口にした。
「カリナ地方原産か。残念だが一番嫌いなものだ」
「あ?」
「……言い忘れていた。昔からクカは不思議と効果がない。どれほど甘い幻想ゆめを望んでも、私には現実しか見せてくれなかった」
 淡々と告げられる言葉の意味がダリスンにはわからなかったのだろう。エディウスが踏み込んだのを見て、慌てて応戦するために片手を剣へそえた。
 その直後、鈍い音とともにダリスンの体がよろめく。
「この中で溺れて死ねるなら貴様も本望だろう。闇が貴様にも等しく優しいのであればよいが」
 内容とは裏腹に冷ややかな一瞥をくれてエディウスの体がダリスンから離れる。おぼつかない足取りで後退し、ダリスンの体が壁にぶつかり、そこに真紅の跡をつけながらずり落ちていった。
 痛みは感じていないのか、引きつるような笑みを浮かべる。
「畜生、こんな所でくたばってたまるか……火は、どうなったんだ……せっかく、導火線に……」
 うわ言のようにダリスンがつぶやくと、治まっていたはずの揺れが爆音とともに城内に広がり、立ち上がろうとしたフィリシアは再び膝をついた。
(いま、なんて……導火線……?)
 エディウスが伸ばしてきた手に無意識に掴まりながら、フィリシアは異様な笑みを刻む男を見つめる。
「長すぎただけか」
 くっと肩を揺らし、瞳を細める。
「何をしたの?」
 再度揺れる城を見渡し、フィリシアは死の影をこびりつかせるダリスンに近づいた。
「いったい、なにを」
「道連れにしてやる。こんな、こんな……」
 かすれる声が途切れ体から力が抜けるのがわかる。手が床にぶつかり、ことりと小さく音をたてると、フィリシアは踵を返した。
「ここを離れなきゃ」
「フィリシア?」
「離れなきゃ、早く……!」
「どうしたんだ?」
 クカのせいで体が上手く動かないことに焦る。フィリシアは肩越しにもう一度ダリスンを見た。決して負け惜しみの笑みではないだろう表情、さらに断続的に続く揺れがフィリシアの疑問を確信に変えた。
 地下には火薬庫がある。一つなのか複数なのか、どれほど威力があるのか、どう置かれていたのか――そんな疑問よりも、あの男が最期に残した笑みのほうが現状を物語っている。
 爆音が城を大きく揺らした。ダリスンがこの階下を中心に動いていたことから考え、ここは火薬庫に近いに違いない。下におりて最短距離で城外に出るか、違う通路から城内を移動するか、道は二つに一つ。しかし、前者はあまりに危険が大きい。刻々と大きくなる揺れが仕掛けなのか誘爆の前兆なのか、混乱したフィリシアには判断ができなかった。
「ここから、離れないと」
 大きな揺れに驚いてエディウスにしがみつく。
 その瞬間、短剣を握り立ち尽くす少年の姿が網膜に飛び込んできた。

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