【五十】

 城が何度も揺れる。しかし、それに気を払うゆとりもなく、フィリシアは少年を見、少年は支えあう男女を見、そして男は蒼白となった恋人を見た。
「……夢を、見るんだ」
 小さな言葉は、喧騒の合間を縫って室内に響く。
「何度も、何度も、嫌な夢ばかりを繰り返す。眠っているときも、――起きているときでさえこの悪夢は一度も晴れない。それでようやく、オレは気付くんだ。悪夢はこの世界そのものだって。ここを抜け出さなきゃ、永遠にこのままなんだって。でも」
 アーサーが剣の柄に手をかけると、フィリシアはとっさにエディウスを押しのけて銀の鞘に手を伸ばした。
「でも、抜け出す術はなにもない。もし抜け出したとして、そこに待つのは……なんなんだろう。オレにはいったいなにが残っているんだろう」
 フィリシアが掴んだ鞘から剣が抜ける。一瞬彼女に向いた剣先は、すぐに方向を変えた。
「あいつ、なにをしたの? 死ぬことなんてなかったんだ」
 剣の柄を握るアーサーが尋常ではないのに気付き、エディウスはフィリシアを脇へと押しやった。それとほぼ同時、アーサーのささやきがくぐもる。鈍い音と息をのむ声が聞こえた。
「アーサー?」
 残された鞘に視線をやってから顔を上げ、フィリシアは重なる男たちを見て悲鳴をあげた。
 剣身が、布の中に沈んでいくのがわかる。
 ここを抜け出し、偽りの幸せを手に入れて、それですべてうまくいくはずだと彼女は思っていた。そのために、残酷な嘘をつき続けるつもりだった。
「惣平、やめて。私はここにいるじゃない」
 彼には失った恋人がいる。同じ容姿、同じ声、おそらくは同じ血をわけた姉妹から生まれた少女は、苦く笑う少年に悲鳴のような声で訴えていた。
「惣平、私は……!」
「……わかるんだ。どんなに似てても、そう思い込もうとしてもやっぱり駄目なんだよ、シア」
 名を呼ばれ、フィリシアは体を大きく震わせた。
「キミは美奈子じゃないんだ。仕草をまねても、やっぱり別人なんだ」
「聞いて、惣平」
「――もういいんだよ。あれが夢ならよかったのに。ずっと醒めない悪夢なら、オレは――」
 アーサーが身を引くと、エディウスとの間に血のからんだ剣身が現れる。赤いシミがひろがる腹部を押さえ、玉のような汗をかきながら、近付くフィリシアを制してエディウスは少年に向きなおった。
 階段から駆け上がってきた爆風が室内のよどんだ空気を押し出す。まるで混乱をきたす世界とは切り離されたような静寂が舞い降りて、フィリシアは歪む視界を消し去るために瞳を閉ざして言葉をのみこんだ。
 苦痛に顔を歪め、エディウスは間近にいる弟を見おろしている。
「お前は、誰だ? 私が憎いのか」
 はじめて口にされる問いに、少年は皮肉な笑みをこぼす。なにも答えない弟≠ノ、エディウスは瞳を伏せた。
「あれが夢であればよいと願ったのは、私だけではなかったのだな」
「満足だろ? 願ったものが手に入って。オレにはなにも残らなかったけど、あんたは全部手に入れたんだ」
「ああ、そうだな。強欲だった。強欲で臆病ゆえに」
 フィリシアが目を開けるのとエディウスがアーサーに手を伸ばすのはほぼ同時だった。
「ゆえに、望みを手に入れた。己が意に逆らう者など認めず、離れていく者の一切を許さなかった。……これがその報いなら」
 穏やかな声はそうつぶやき、血で濡れた手は剣を握り対峙した少年の肩を掴んだ。
「お前は優しいのだな」
 掴んだ肩を抱き寄せて、そう語る。固定された剣が再びすべての視界から消えると、床が大きく弾むように揺れた。
 苦悶の声がわずかに聞こえ、フィリシアは彷徨う視線を二人に固定する。
 少年の肩が小刻みに揺れている。
「優しい、だと?」
 エディウスの顔が苦痛に歪む。それをまっすぐ見つめながら、少年は腕を動かしながら吐き捨てた。
「お前からなにもかも奪おうとしてるオレに、よくそんなことが言えるな」
 怒りを隠さず憎悪すらにじませ、その手に握られた柄をゆっくりとひねっていく。それに伴って腕が動くのを知って、フィリシアは青ざめた。
 エディウスは逃げるそぶりもなく、激痛に顔を歪めながらもまだ成長途中である少年の肩を抱いている。その瞳が、近付くフィリシアの足を止めさせた。
「もうやめて、惣平。私が悪いの。全部、私のせいなの」
 配慮もなく、ただ混乱し逃げ続けたばかりにこの未来を引き寄せた少女は、舞姫と呼ばれた矜持きょうじをすべてかなぐり捨てて叫んでいた。罪を償うのはエディウスではなく、彼がそう動くよう導いてしまった自分の責任であるとそう訴える。しかし、少年は口元に皮肉な笑みを浮かべるだけで応じようとはしなかった。
 度重なる揺れは壁に多くの亀裂を呼んだ。石壁の一部がずれているのに気付き、フィリシアの背に冷たい汗が流れる。
 死を望んでいるのかもしれない。
 はじめて彼女はそう思う。一切を失った少年と、その絶望を向けられ、ようやくそれを受け入れた男は同様のものを望んでいるのかもしれない。
「これは償いではない。私は……私こそが裁かれねばならなかった。あの少女を殺した時に……いや、アーサーとフィリシアの仲を疑い制裁しようとしたとき――むしろ、ウェスタリア様が懐妊された折に、投獄されるべきだった」
 振動ではずれた剣身を体内に埋め込むように、エディウスはアーサーの肩をきつく抱きしめる。異様な空気は彼にも伝わったのか、驚倒した表情が見えた。それに笑顔を向けて、エディウスは肩をゆっくりと叩く。
「お前はいつでも私を貶めることができた。にもかかわらずここまで待ってくれたのだ。ならば、やはり優しいのだろう」
 剣の柄を伝って床に血溜りができる。石に吸い込まれなかったそれは、少しずつ確実に広がり城内に響く振動にあわせて波紋を作った。
「同じ者を二度殺すことはできない。望むものを与えよう。私のできることならすべて叶える」
「やめろ!」
 鋭く叫んでアーサーの体がエディウスから離れる。崩れそうになるエディウスに駆け寄ってフィリシアはその体を支えた。
 彼女は腹部に深く突き刺さったままの短剣と、そこから広がる血痕に蒼白となった。服はぐっしょりと濡れ、出血の量は彼女の予想をはるかに超えていた。
 この傷でこの城を抜け出すのは不可能だ。気力だけで立つ男は、静かに対峙する少年を見つめていた。
「いまさら!」
 悲痛な声に爆音が重なる。
「いまさら善人面するな! それで許されると思ってるのか!? それで……」
 落ちていた剣を手にして怒鳴り、支えあう二人に向き合った。
「オレに何が残るって言うんだ」
 前進し、剣を大きく振り上げてうめく。
「壊れたものが元に戻るとでも言うのか? 死んだ人間が生き返るのかよ!?」
 剣はエディウスに狙いを定めて振り下ろされ、その途中で止まった。とっさに身を挺して彼を守ったのは、少年が愛した幼なじみに瓜二つの少女だった。
 そのあまりの皮肉さに、剣光の軌道が逸れて床へと落ちる。鈍い音に床が大きく揺れた。
「もうやめて、惣平。お願い、もうこんなことは」
 剣を持ち上げる少年に、少女が悲痛な声をあげる。ぴくりと肩を揺らし、少年は顔を伏せたまま後退して小さく笑い声をあげた。
 爆風が吹き荒れる中、奇妙な笑いをおさめて少年は顔をあげた。
 透明な雫が頬を滑り落ち、床で小さくはじけた。長剣を持ち直し、充分に二人から距離を置いたのちに自らの首へとあてる。
「……ずっとわかってた。本当はどうすべきか。だけど、なにか方法があるんじゃないかって、奇跡は起こせるんじゃないかって、ずっと思ってたんだ」
「惣平……?」
「足掻けば足掻くほど、どうしようもないんだって痛感した。欲しいものは何も手に入らない。とっくに、答えは出てたのに」
 剣を握る手に力が込められるのが見て取れた。
「惣平!」
「これで何もかも終わる」
 さらに手に力が加わる。自害する気なのだとようやく知って、フィリシアが足を踏み出す。直後、今までにないほど王城が大きく揺れた。
 爆音と爆風が同時に訪れ、一瞬視界が失われる。爆音とは異なるものがあたりに響いた。
「惣平……!」
 それは悲鳴のような声。
「こっちに来るんだ、早く」
 崩れ行く少年の足元に気付き、フィリシアとエディウスが同時に手を差し出した。傾く巨石に目を見張りながら、しかし少年は剣を手にしたままただ笑みを浮かべていた。
 ゆっくりと閉じた双眸から大粒の涙が零れ落ちる。

 フィリシアとエディウスは必死で手を伸ばした。けれど、そのふたつの手は少年の体を捉えることなく宙を掻いた。
「惣平――!!」
 フィリシアの口から悲鳴がほとばしったが、それは耳をつんざくような轟音にかき消された。
 粉塵を巻き上げ崩れていく巨石を呆然と見つめていたフィリシアは、自分の体も同じように大きく傾くのを感じた。
 なにもかもが無駄だったのだとようやく知る。彼のために彼を騙し、彼が望んだ未来をともに作っていこうと心に決めた、それすらも、あまりに自分勝手で浅はかな考えだったのだ。
「フィリシア」
 ふいに名を呼ばれ、包み込まれる。
 フィリシアは泣き濡れた瞳で蒼白となったエディウスを見上げた。彼は柳眉を寄せながらもフィリシアの体を抱きこんで、そっと耳元に唇を寄せた。
「お前だけは、生き残れ」
 優しい声がそう告げる。崩れはじめた巨石から分離した石が土煙をあげながら落下し、エディウスの背中を強く打つ。低くこもったような音が、フィリシアの体に振動として伝わってきた。
「……嫌」
 剣を腹部に埋め込んだまま、エディウスは首をふったフィリシアを見た。
「ひとりは、嫌」
「……お前は一人ではない」
 優しい声が苦痛のためにかすれる。父親が誰であるかも知らないのに、彼は苦笑してそっとフィリシアの腹部に手を当てた。彼女にはこれからさき、守っていくべきものがあるのだと、言葉なく告げる。
「駄目……死なないで。一人にしないで」
 荒い呼吸を繰り返す彼はフィリシアの言葉に耳を傾けながらきつく双眸を閉じ、深く、彼女の体を抱きしめる。降りそそぐつぶてをすべてその身に受ける彼は、ただひたすら祈っていた。
 彼女の安否を。そして彼女に宿る小さな命の安否を。
「エディウス、聞いて。この子は――」
 告げられた言葉は優しい嘘だったのかもしれない。それでもそのとき、彼は思ったのだ。
 激しく揺れる大地と、体を襲う激痛に最期を予期しながら、思ったのだ。
 ――もう、なにも思い残すことはない。
 と。


 粉塵が世界を覆った。
 すさまじい痛みが全身を襲う。とっさにフィリシアが守ったのは、唯一愛した人との間にできた、大切な命だった。
 体のあちこちが痛い。ひどくむせるのに、うまく咳をすることもできない。全身にかかる重みをどけて楽になりたかったが、なぜか目を開けることすらできなかった。
 どこか遠くで声がした気がする。
 不意に眼裏が明るくなり、全身にかかる重みが去る。間近に馬の荒々しい息遣いと石が転がり落ちる軽い音、なにかが燃える音が聞こえた。
 熱い、と思った直後、彼女の体がふわりと宙を舞って、体のいたるところに触れていた硬質な痛みが別のものへと摩り替わる。
 フィリシアは瞳を開けた。しかし、すべてが霞んで、何一つまともに見ることができない。状況を確認したくても口を開くことさえできなかった。
 低い音とともに体全体が大きく揺れた。小さな馬のいななきと蹄の音、一定の振動――苦痛を訴える体を横たえながら感じたのは、緊迫した空気が喧騒とともに離れていく、不思議な感覚だった。
 夢を見ているのかもしれない。
 フィリシアは薄れる意識の中でほんの少し、思考をめぐらせた。けれどすぐにそれは闇にのまれる。全身を断続的に襲う痛みが消えたと思った直後、彼女の意識は混濁した。
 そして、次に目を開けたとき。
「……ここは……」
 彼女は馬車の荷台で寝かされていた。痛む体をかばうように起こすと、毛布が肩から滑り落ちた。
「ここは、どこ?」
 深い森はバルト城の背後に広がる密林の一部に違いないと判断できるのだが、すでに日が暮れ始めていて彼女にはよくわからなかった。
 状況が理解できずに呆然と赤く染まった空を見上げていると、鳥の声と木々のざわめきに混じって水のせせらぎが聞こえた。視線をめぐらせ、彼女は川の近くに火と、煮立つ鍋、火からおろされて湯気を立てる鍋を発見し小首を傾げた。現状が把握できない。いったいなにが起きたのか、すぐに判断できずにこめかみを押さえ――そして、大地に寝かされた男と、そこにうずくまって何かをしている男の姿を目にして息をのんだ。
 焚き火の炎で赤く染まった髪が大地にうねっているのが見える。炎が踊るように揺れるたび、陰影も不気味に大きく揺れた。
 湿った音が彼女の耳に届いたとき、動悸が激しくなってフィリシアは知らずに胸を押さえていた。
「ガイゼ……?」
 動揺を反映するように声までもが震える。大きな背がわずかに揺れ、彼は首だけをひねってフィリシアに視線をよこした。
「申し訳ありません、手伝っていただけますか? 湯が、いるので」
「え?」
「いまは手が離せないんです」
 恐縮して頭を下げたとき、彼の手元が見えた。炎よりも赤く、焼ける空よりもなお赤く染まったその場所に、悲鳴がもれた。そこが馬車の荷台であることも忘れ、フィリシアは足にからむ毛布すら気を払えずに立ち上がる。目はガイゼの手元――エディウスの腹部へと釘付けになっていた。
 赤い赤いその場所は、異様な律動を繰り返している。
「エディウス――!!」
「フィリシア様!」
 荷馬車から転がり落ちる手前で叱咤するように名を呼ばれ、彼女は息をのんでガイゼに視線をあわせた。
「落ち着いてください。最善を尽くします。――どうか、気を確かに」
「お願い、助けて。連れて行かないで。もう、一人は嫌……っ」
 あふれる涙をこらえきれずに顔を伏せると、フィリシアは間近に落ちていた銀細工の剣に気づく。いまだ赤く血塗られた剣は鞘に収められたままに台の上に転がっていた。
 これが刺さっていたのだ、と改めて震えた。手をのばしてつかむと、冷たく硬い感触が手の平いっぱいに広がった。処置はきっと困難を極め、それに失敗すれば、エディウスの命はない。いまはガイゼに任せるしかないのだと剣をきつく握りしめながら悟った直後、彼女は顔をあげた。
 エディウスの顔は炎で赤く染まっていたが蒼白であるに違いない。何度か深呼吸してから涙をふき、フィリシアは剣をベルトに挟むと慎重に荷台からおりて先刻ガイゼが指示したとおり火からおろされ時間がたったとおぼしき鍋を手にした。
「次は何をすればいい?」
 なるべく彼の手元は見ないようにして、フィリシアは問う。
「――助かります。では」
 湿った音とともに玉のような汗を服の袖でぬぐって彼は口を開いた。

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