【四十八】

 階段をおりる途中でこもったような音とわずかな振動に気付きフィリシアは足を止めた。巨石を組んで造られた壁に小さな亀裂が走り、欠片が階段に落ちて小さく跳ねる。
「なんだ?」
 背後から聞こえてきた声にフィリシアが振り返って、わからないと言いたげに首を振って見せる。その直後、再び建物が揺れ、二人は慌てて壁に手をついた。
(この揺れ――まさか……でも)
 地下には火薬があるとイリジア兵が言っていた。もしこの巨大な建物が揺れることがあれば、それを使ったと考えるのが妥当だろう。しかし、外に向かって使用したなら、こんな不自然な揺れが起こるだろうか。
(建物の中で使った? なんのために?)
 考え込みながら顔をあげると、ちょうど窓が見えた。この緊迫した状況の中でも森はいつも通りの姿でフィリシアの眼前に広がっている。あの中に飛び込めば、イリジアからの追っ手はまけるだろうと考えたとき、深緑の中を白銀の影が疾走するのが見えた。
 フィリシアは目を見開く。
 いくらバルトが交易で栄え異国の者の出入りが激しくても、銀の髪の人間などそう多いわけではない。それに、あの森は密林とも言うべき深さで人々を混乱させる。慣れない者があの速度で移動するなどどう考えても不可能だ。
 フィリシアはわずかな残像を追って瞬時に駆け出していた。
 階段をおり、窓に駆け寄ろうとし、そこで動きをとめる。慣れた気配を掴むと同時、体は自然と反転して手は二本の剣へとかけられていた。
「貴様、舞姫か!?」
 ほんの数歩離れた位置でイリジア兵は剣をかまえ、信じられないという表情でフィリシアを見つめていた。いったん王城を逃げた女が再び敵兵のあふれる場所に忍び込むなど正気の沙汰ではなく、そう思っているが故の動揺がひしひしと伝わってきた。
 迂闊だ。避けられるかもしれない戦いを混乱のまま招き寄せた失態に、フィリシアは柄をきつく握りしめる。
「やめろ」
 フィリシアがかまえると、ふいに静かな声がかけられて兵士は吃驚きっきょうする。階段をおりた少年はイリジア兵に視線を向けてから、
「これは別人だ、手を出すな」
 短く命じた。
「しかし、アーサー様」
「命令だ。それより何があった?」
「……わかりません。確認中です」
「なにかわかったら至急オレかオルグに」
 再び揺れた王城に、兵士は表情を険しくした。
(タッカート? でも、シャドーと決着をつけたいなら、こんな派手なまねは……)
 するはずがない。むしろ、人のいない場所におびき出すほうがよほど彼の望みに近い。そう考えて、フィリシアは眉根を寄せた。
(敵か、味方か――どちらにしても、この混乱に城を抜け出すチャンスがある)
 誰がなんの目的で動いているかはわからないが、不幸中の幸いだろう。イリジアが混乱しているなら、味方である可能性もある。
 石壁に多くの音が反響する。どれもが敵襲を警戒するものだった。
「惣平、行こう」
 声をかけると、彼ではなくイリジア兵が動いた。まるで進行を妨げるように立ちふさがる姿に不安がよぎる。
「どこに行かれるおつもりです。敵襲かもしれない。部屋にお戻りになられたほうがいい」
「……戦況を確認する」
「それは我ら兵士の役目です、アーサー様」
 硬い声が響く。剣を握ったままの兵士の表情は変わらずに険しい。
「そちらのご婦人は、鍵のかかった部屋に戻っていただきます」
「――貴様、いったいなにが言いたい」
 イリジア兵の剣がアーサーとフィリシアに向けられる。
「ゼノム様は危惧しておられた。記憶のない裏切り者がどこまで信用がおけるのか――いま、その答えが出た。あなたは国賊として拘束する必要がある」
「フィリシアは一度城から出てる。その女がまたここに戻ってきたとでも? 別人だと言ってるだろ」
「自分の目にはその娘が敵国の王妃となる者にしか見えない。いまは確証がありませんが、それは後々わかることです」
「他人だったら、ただでは済まされないぞ」
「覚悟の上です」
 緊迫した空気が空間を埋める。イリジア兵は、目の前の娘がフィリシア本人だと確信して剣をかまえている。他人の空似にしようにも、これほど似ていては嘘を突き通すことは難しい。
 国賊として捕まれば、フィリシアの処刑はもちろん、アーサーすら刑罰を受ける。それは確実に極刑と呼ばれるものだ。
(道がない。他に、なにも)
 フィリシアが剣を鞘に戻すと、イリジア兵が少し緊張を解き手を差し出す。
「その剣を渡せ。ここで姫の剣舞を見るのは御免だからな」
 フィリシアが剣に手を伸ばすと、
「鞘ごとだ。はずして床に置き、さがれ」
 乱闘の記憶がある者かもしれない。慎重なその命令に、フィリシアはちらりと隣を見た。
「言うとおりに」
 彼は頷く。
 けれど、剣を置けば完全に退路が断たれる。イリジアに拘束されれば次に太陽を見上げるのは処刑台に向かう時をおいて他にはない。エディウスばかりかアーサーまで危険にさらしてしまう。
 フィリシアは男と自分の距離を目算する。こなしてきた実戦の数は半端ではない。条件が同じならやれる距離だ。
 イリジア兵から奪った剣が鞘の中で小さく音をたてた――直後、四度目の揺れが来た。
(大きい)
 ふっと姿勢を低くする。向けられた剣先がわずかにそれた隙をつき、フィリシアは剣を手にして男の胸へ飛び込んだ。確かな手ごたえとともに聞こえてきた呻きに一瞬だけ双眸を閉じて身を引く。柄は離さずにいた。
 なにかを言いかけた男は、結局なにも語ることなく床に崩れ落ちた。
 手に残る感触に体が震える。人を斬りつけたことなら何度もある。それこそ数え切れないほど。
 だが、どれもこれほど後味は悪くなかった。
「ミナ」
 小さな呼び声に振り返ると、悲壮な顔を向けられた。床に赤黒い血だまりができ、動かない男を囲っていく。大きく見開かれた目は、恨みがましく二人に向けられたままだった。
「行こう」
 腕を引かれてよろよろと歩き出す。途中、何度も足元が揺れたが、二人は一言も交わすことなく階段をおりた。
 血で湿った剣が鞘の中で鈍い音を放つ。ひどく耳障りな音だ。
「――惣平、ごめん」
 腕を引かれたまま思わずそう口にしていた。
「ごめんね」
「わかってる」
 短い答えが返ってきて、手を痛いほど強く握られそれ以上言葉が出なくなった。
 いくつかの廊下を渡って階段をおり、白煙に気付いて足を止める。すぐに、火薬のにおいに気付いて顔を見合わせた。男たちが騒ぐ声が近くなる。けぶる階下におりて耳をすませていると、白煙の中を駆けてきた人影が、
「こっちもか」
 腹立たしげにつぶやいて舌打ちとともに階段へ消えるのが見えた。硝煙の中に血臭が混じる。フィリシアは彼の手を振り払って白く染められた廊下を進み、床に倒れた老医師の姿に息をのんだ。
(オルグ医師)
 宮廷医師――アーサー≠フ話から考えても、この内乱に手を貸したのは確実だろう。立ち尽くしていると、背後からついてきた彼はその名を呼びながら小さな体を抱き起こした。
 服が赤く染まり、アーサーは青ざめる。
「いったい誰がこんなことを」
 斬りつけたあと心臓を一突きにされている。赤く染まった床とは対照的に、老人の顔は紙のような白さだった。
 言葉を失うアーサーから視線をそらすとその数歩先に別の塊が見え、フィリシアの体が大きく震えた。見覚えのある生地には不自然な隆起があり、そこを中心に赤黒いシミが広がっていた。
 ゆっくりとフィリシアは塊に近づき、それが男であること、さらに長いものに貫かれて倒れていることを知る。床に血痕のあとが幾筋も残っている。どこかに行こうとしていたかのようなその跡を茫然と視界に入れ、フィリシアは瞳を伏せた。
 なぜ、と胸中で問う。
(どうして、彼がここに)
 町で怪我の治療をしているはずの男は、目を見開いたままなにも映さないそれで白煙を見つめていた。痛みのためか絶望のためか、その顔が悲痛なまでに歪んでいる。
(ヒリック、どうして……!?)
 王城にいるはずがない男の無残な姿に言葉を失う。すぐ近くで地下牢へと続くドアが小さく鳴き、フィリシアははっとして顔をあげた。
 物音が聞こえる。ドアとは別、程近い場所でひどく苦しげな呼吸音が短く繰り返されていた。敵か味方かも判別できなかったが、フィリシアはかまわず音に向かって歩き出した。一定のリズムを刻む音が途切れ、激しく咳き込む。ひどい怪我をしているのかもしれない。硝煙を吸い込まないよう気をつけながら、死を招くような音に向かって歩を進め、そしてフィリシアは己の目を疑った。
 投げ出された足が見える。ヒリックと同じ質素な生地のスカートは乱れて赤く濡れ、小さく震える手も同様に赤い。ボロ布が張り付いた体にはおびただしいまでの傷が刻まれ、その一部はぱっくりと割れて血を滴らせていた。
 血で濡れながらも、これだけは傷一つない顔が、その瞳が、ぼうと虚空を見つめている。
「マーサ」
 崩れるように座り込んで、フィリシアは這うように彼女の元にたどり着いた。
「マーサ、どうして……どうして……!」
 伸ばした手でその肩を掴む。生かす気も、楽に死なせる気もなかったのだろうと知れるその傷に目の前が真っ暗になった。激昂し震える声に、マーサは朦朧としたままわずかな反応を見せた。
「すみません……大切な、国王陛下からいただいた大切な剣を」
 切れ切れに言葉を口にし、小刻みに揺れる赤い手でフィリシアの服を掴む。
「あの裏切り者に盗られて……」
 繰り返す呼吸に血臭が濃くなる。そっとマーサの手を握って唇を噛みしめると、止められなかった涙があふれて頬を伝い、大粒の雫となってその手を濡らした。
 人の死に目は何度も立ち会っている。そのたびに胸の奥が暗くなった――けれどこれほど、怒りと無力感を覚えたことはない。戦地に来る必要のない娘が、戦いに巻き込まれて死にゆこうとしている。
 きっと今まで、人など一度も傷つけたことがないだろう娘が。
「大丈夫、ちゃんと取り戻すわ」
 すでに焦点のあわない娘の瞳を覗き込み、震える声で小さく告げた。
「だから心配しないで」
 しっかりと手を握ると、彼女の顔が安堵に崩れる。
「フィリシア様、ここは、とても危険です……早く国王のもとへ……ああ、ヒリックは……」
「……大丈夫よ、少し……怪我をしているの。だから動けないけど、すぐに良くなるから」
 悲しみに歪む男の顔は、きっと彼女になにが起こったのかをつぶさに見ていたためだろう。助けたかったに違いない。どんなに無念だったのか、床に刻まれた血の跡がそれを物語っていた。
 絶命するその瞬間まで、彼は彼女の元に向かおうとしていたのだ。そう気付くと、嗚咽が漏れた。
「フィリシア、様……?」
「大丈夫、大丈夫だから」
(何も、してあげられない。私は、私はなんて――)
 一介の侍女でしかないマーサが、なにを思って恐怖を押し殺してここまで来たのかを考えると後悔の念しか湧いてこなかった。不出来な主人を持ったばかりに、こんな事に巻き込まれてしまったのだ。
(私はなんて、浅はかな生き物なのだろう)
 ただ涙がこぼれた。
「どこか、痛いんですか?」
 声は弱々しくなり掠れていく。マーサは辛いのか目を閉じた。
「痛くないわ。マーサは? 痛い?」
「……いいえ。ひどく寒いですけど……ああ、フィリシア様」
「なに?」
「少し、お暇をいただけますか? 怪我をして、治さなくちゃ……」
「……そうね。でもあまり待てないから早く帰ってきてね」
 耳元でささやくとマーサの唇が小さく笑みの形を作る。手を握る力が抜けた。彼女の唇が動くのに気付き、フィリシアは慌てて耳を寄せ、そして再び嗚咽をもらした。
 ――あなたに仕えることができて幸せでした。
 この状況で、死を予期して、救いの言葉を口にする。その優しさに言葉も出ずに、ゆっくりと重くなった体をただ抱きしめた。
 遠くでいくつもの声が聞こえる。バルト兵襲撃を知らせる声に、フィリシアは伏せていた顔をあげた。まるでそれを待っていたかのように静かな足音が背後から近づいてくる。
「……美奈子」
 そっと涙をふいて、マーサの遺体を横たえさせて立ち上がると、どこか険しい表情の少年と視線があった。
「決着をつけなきゃいけない相手がいる。少し、付き合ってくれ」
 視線は近くにある階段へと向けられる。フィリシアの視線もまた、彼と同じ場所を辿った。
「わかった」
 フィリシアは頷き、腹部を隠すためにゆったり作られていた生地の一部を割いてマーサの体を包み、無言のまま別れを告げると戦いの場に続く道へ足を踏み入れた。
 剣が鈍い音をたてる。
 遠く、鯨波げいはの第一声が響いていた。

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