フィリシアはツギハギだらけのドアを開けた。
 情報収集は重要だ。自らの記憶が当てにならない今、未来の王妃の権限を最大限に利用しない手はない。
「ごめんなさい!」
 ごった返す調理場でも、フィリシアの声はよく響いた。
「ああ! フィリシア様!! 動き回ってもよろしいので?」
 いつも食事を運んでくれるふくよかな女性が、エプロンで両手を拭きながら近づいてきた。
「ごめんなさい。ちょっといい?」
「え……ええ、かまいませんが」
 今まで、自分のことにあまり興味がなかった。しかし、昨日の一件で考え方はまったく変わった。
 逃げ出すことはいつでもできる。
 だが、それでは意味がない。
 決定的に抜けている真実を、かみ合っていないパズルのピースを集めなければ、きっと一生後悔する。
 予感ではなく、確信。
「忙しいのに、本当にごめんなさい」
「いえいえ」
 女、フローラははじけるように笑った。
「ようございますよ。何なりとお申し付けくださいまし」
「ん……あのね。その……」
 一瞬言いよどんで、フィリシアは唇をかむ。
「えっと……一年前ね……私、どうして……その……いなくなったのかな、とか」
 フローラは困ったように視線を泳がせた。人差し指で頬を掻き、ついで小さくうなり声をあげる。
「一年前……祝儀の当日、ですか」
「ん」
「……あたしも、詳しくは存じ上げません。ただ……その……ですね。フィリシア様は、アーサー王子と一緒に姿を消したという噂で」
「アーサーと?」
「ええ……で、実は、フィリシア様とアーサー王子が恋仲だったんじゃないかと……」
「え……?」
 だから、王との婚儀の当日に、王子と逃げた。
 流説だ。
 ただの、下世話な噂話。
 だが、当の本人たちに記憶がない。確認するすべがない。
「うわ……なんか泥沼っぽい」
 調理場から離れ、とぼとぼと廊下を歩く。
 情報がほしい。
 少しでも多くの情報を集めて、真実に近付かなければならない。
 フィリシアは顔を上げた。
「次!」
 どこでもいい。誰でもいい。フィリシアのことを少しでも知る人間を探そう。「彼女」にまつわる人間の情報も同時に集めよう。真実は、必ずどこかに隠れている。
「……え? アーサー王子ですか?」
 書類を運んでいた男を廊下で捕まえ、フィリシアは真剣な面持ちで彼に詰め寄った。
「いや、詳しくは知らないんですけど」
 男は言葉を濁す。
「森の中で、王が見つけたとかって……」
「エディウスが?」
「ええ。失踪から……確か、2ヵ月後だったかな。しばらくは、すごい荒れようでしたよ。自分はアーサーじゃないって」
「え?」
「何を言っているのかよくわからなかったんですけど、それがある日ぱたりとやんで。自分はそれがかえって不気味でした」
 そして、散々自分はアーサーじゃないと言い張っていた彼は、急に記憶がないといい始めた。
「確かに記憶はないようでした。王やご自分の名前、最低限のマナーも何もかも、覚えてはいらっしゃらなかったのですから」
 同情するように男はつぶやく。
「何か、よほどつらい目においだったのだろうと思います。まるでそれをごまかすように、今のアーサー様は明るく振舞っておられる。自分はそれが、かえってつらいです」
 一年前の失踪?
 男は首をかしげるように続けた。
 アーサー王子がフィリシア様と共に姿を消したとしか、伺っていません。確かにお二人は仲がよろしかったように見受けられましたが、恋仲だと思ったことはありませんよ。
 自分には、フィリシア様は王を慕っているようにしか見えませんでした。
 アーサー様とは歳も近かったし、ご兄妹のような間柄だと解釈しています。
「……まあ情報は同一じゃないけど」
 さっそく食い違い始めた情報に、フィリシアは溜め息をついた。
 ただ、一年前の失踪はアーサーと関わりがあることに間違いはないようだ。
「あと2、3人、聞いてみようかな」
 と、考え、すぐ近くにいた女性に目をつけた。
 シーツを抱えていた女は、驚いたようにフィリシアを見た。
「フィリシア様のことですか?」
 女は目を丸くしていたが、フィリシアの記憶がないことを思い出し、すぐに口を開いた。
「ご家族はないと聞いておりますよ。旅はいつもお一人とか。どこかで祭りがあるとそれに紛れ込んで踊っていたと。若く美しい娘が見事に舞うんです、すぐに噂にもなりますよ。何でもご自分のことは一切語らなかったとかで、それがまた神秘的だと噂を呼んだようです」
「……へぇ」
 だから帰る家も調べられないのかと、フィリシアは複雑な心境だった。
 大陸一の舞姫なら有名人のはずだ。故郷がわからないなんておかしいと、ちらと思ったが。
(ガードが固いのも考えもんねぇ)
 過去の己の足跡は、意外にきれいに消されているようだ。
「フィリシア様は、そりゃもう、すばらしい舞姫でしたよ。お城に何十人と訪れた踊り手なんて、足元にも及びませんでした」
 うっとりと語る女の言葉に、なんとなくこそばゆく感じてしまう。
「王がフィリシア様を見初めたとき、もう周りは大騒ぎで……そりゃぁお偉方は渋面でしたよ。大国の王が、踊り子を正妻にするなんて、て。でもねえ、本当にお似合いだったんです。あたくしどもは、気位の高い王女様より、気さくで明るいフィリシア様が王妃になってくれたらどんなにいいかと話していたくらいで」
 自分の話は聞くもんじゃない。
 真っ赤になりながら、フィリシアは逃げ出したい気分で足元に視線を落とす。
「……アーサー王子と姿を消したと聞いたとき、王の失望の様が……」
「なに……?」
「……その、様子がおかしかったというか。おかしいのは当然なんですけど……あれから、まるで……」
 まるで幽鬼のようで。
 アーサー王子を見つけてから、それに拍車がかかったようにおかしくなった。
 どこが、とはいえない。
 何かが、決定的に壊れてしまったような――
「私と結婚って、まずくない?」
「……どうでしょか。あたくしはただ、以前の王に戻ってくれればと、それだけで……」
 さびしげに笑う。
 いたたまれない気分になった。
 引き金を引いたのは、フィリシアという一年前の自分。アーサーは、果たして共犯者なのか、まったく別の意味を持ったカードなのか。
「アーサー王子の記憶ですか?」
 女は少し考えるように間を空けた。
「いいえ、戻ったとは伺っておりませんよ。昔はもっと我儘でいたずら好きな、ちょっと手に負えない王子でしたが……そうですね、記憶をなくして帰ってきてから、少し雰囲気が変わりましたね。よく城下町にも行かれるようになりましたし」
 そこまで言って、女が小さく笑い声をあげる。
「でもまあ、記憶がないんですから、まったく以前と同じというわけにはいかないでしょう。フィリシア様だって、やっぱり雰囲気が違いますしね」
「そうなの?」
「ええ、以前はもっと……なんて言うんでしょうかね、たくましかったと言うか」
「……そうなんだ」
 あまり嬉しくない表現に、フィリシアは溜め息をつく。
「フィリシア様?」
「ん……? ああ、大丈夫よ。ちょっと疲れただけ」
 顔色がさえないフィリシアに、女が急にオロオロしだす。
 病み上がりにもかかわらず、昨日あれだけ歩き回ったのだ。一晩寝たとはいえ、まだ全快するには体力が落ちすぎているのだろう。
「医務室が近くです!」
「大丈夫よ……大げさね」
 苦笑したが、女が青ざめている。素直に医務室に行ってやらないと、この女のほうが倒れてしまいそうな雰囲気だ。
「わかったわ。案内して?」
 フィリシアがそう言うと、女は大きくうなずいた。


 そしてこの何気ない行動が、のちに城中、国中を揺るがせるような大事件へと発展する。


 バルト国王の婚約者、舞姫フィリシア。
 わずか17歳の彼女の体は、妊娠5ヶ月目に突入しようとしていた――

Back   Top   第二章

こっそりあとがきスペースへ