番外編 ひみつ



    3

 オーギュストは神父だ。洗礼を受けたのは子どもの頃である。以来、神の言葉を人々に伝え広めるためにいる。洗礼を受けたときからその身を神に捧げ、生涯を独身で過ごすはずだった。
 それなのに、たった一人に求められることがどれほど嬉しいか気づいてしまった。
 意地を張るといじめたくなるのに、素直でいると甘やかしたくなる。
 まずい。
 直感した。
 これはとてもまずい状況だ。ジャンのことをとやかく言えなくなってしまう。
 ジャンをヴァチカンに連れ戻すために日本にやってきたオーギュストが、こんなところで足止めされるわけにはいかないのに――。
「玲奈」
 気の強い彼女が、こうして弱いところを見せるのは特別なのだと知っている。家族にすら意地を張る彼女が、自分だけにさらす姿に鼓動が乱れる。
 恋は病だ。
 世界中を探しても、いまだ完治できる薬のない難病だ。
 オーギュストは玲奈の肩から手を放し、その体を両腕でくるむ。すると、硬くこわばった体から嘘のように緊張が取れていった。
 腕の中、彼女が安堵したようにほっと小さく息をつく。
 知れば知るほど反感を覚えていた彼女のことが気になるようになったのはいつからだっただろう。
 彼女自身のことを心配してあれこれと世話を焼くようになったのは。
 オーギュストは両腕に力を込める。
「今度……なにか甘いものでも食べに行くか?」
 尋ねると、玲奈がぱっと顔を上げた。
 ここ一週間、彼女のことが心配で、買い物に行くと言えば荷物持ちをしてやるとくっついていき、さんぽすると言い出せば物騒だからと同行、映画に行くと言えばちょうど見たかった作品だとちゃっかり横の席に陣取ったオーギュストは、彼女が無類のスイーツ好きであることを知った。嫌なことがあればやけ酒を飲んだりもするが、それはとても稀で、本来の彼女は意外なほど倹約家だ。大好きなスイーツだって我慢する。そのうえ、ほしいものがあれば吟味し、コツコツお金を貯めていく。ウインドショッピングをするのは、目をつけていた商品が売れてしまっていないか確認するためだったりする。自分になにができるか、自分がなにをしたいか、不器用ながらも前向きに考える彼女は、働く人々に敬意を持って接していた。
 こういった姿は、オーギュストにはとても好ましいものだった。
「あ、甘いもの?」
 現金なことに、怯えていたはずの彼女がそわそわと問いかけてきた。
「パンケーキでも、あんみつでも、クレープでも、なんでも好きなものを」
「おごり?」
 口調がちょっと警戒気味になる。ここでワリカンなんて格好悪い言葉を口にできるわけがない。
「当たり前だ」
「やった!」
 笑顔が花のようだと思った。
 そう思ったら、自然と口づけていた。
 驚く彼女以上に驚いて、オーギュストは慌てて彼女を抱きしめ直した。
 この体勢がそもそもの間違いだ。接地面が広すぎるせいで、キスするつもりもなかったのにしてしまった。部屋が暗いのだってムードが出てしまって都合が悪い。部屋が寒いのも、もしかしたら少しは彼の暴走が止まらない原因になっていたのかもしれない。人肌というのはいつだって心地いいものだ。だから、つい――。
 不毛な言い訳に動揺を誤魔化していると、背中にそっと彼女の腕が回る気配があった。
 ――だめだと思った。
 こんなもの、誤魔化しきれるわけがない。
 はやる鼓動も、熱くなる体も、彼女のことばかり考えてしまう気持ちも。
 動揺して玲奈を突き放そうとしたオーギュストは、離れまいとしがみついてくる彼女に動きを止めた。
「……っ……」
 こんな初恋があってたまるか。
 苦悩するオーギュストは、懸命に自分の気持ちを否定しながらも、腕の中の女を深く深く抱きしめるのだった。


                                         =了=