番外編 ひみつ



    2

「で、電気を……」
 部屋が暗いから妙な気分になるのだ。自分にそう言い訳して腰を上げると、
「つけちゃだめ」
 玲奈に拒絶されてしまった。思わずオーギュストは眉をひそめた。
「……今日はだめ。いつもはいいけど、今日は、光に、寄ってくるから」
 なにが、と訊こうとして閃いた。玲奈は悪魔のたぐいを言っているのだ。いもしないものに怯えるなんてよくあることだ。最近は悪魔より、将来のことや病気、人間関係、仕事のことに悩む人間のほうが多く、教会にやって来る者たちの不安の声も多いのだが――どうやら玲奈は、いまだに悪魔に怯えているらしい。
 町中に札が貼られたあの日も、玲奈は悪魔に怯えていた。
 そう、あの日から。
 ――玲奈との関係が変化した。
 いや、兆候は以前からあったのかもしれない。
 玲奈の先輩だという男が現れてから。あるいは、思い切り罵られてから。
 それとも、出会ったときにすでに――。
 オーギュストは慌てて頭をふって危険な思想をふるい落とした。
 一階から話し声が聞こえ、オーギュストはちらりと時計を見る。すでに深夜の三時だ。まだ人がいるのかと驚く反面、これを機に部屋から出られると少しだけほっとした。
「なにか飲み物をもらってくる」
 立ち上がったオーギュストが素早くドアに向かう。だがドアノブに触れる前に上着の袖を掴まれ、強く引かれてバランスを崩した。膝をついたオーギュストは、息を呑むような声にとっさに体を反転させる。すると、玲奈が毛布ごと倒れ込んできた。
 酔った玲奈を寝室に運んだときと逆の状況だ。
 あのときは、足をもつれさせた玲奈の上にオーギュストが倒れ込んだ。彼女を潰さないようにとっさに腕を出したから肘を強打したが、今回は勢いよく倒れてきた彼女に胸を押されたせいで、一瞬、息ができなくなった。
 なにか言おうにも声すら出ない。
 ようやく呼吸できるようになったのは、もつれるように床に倒れてから二分後――彼は、文句の一つも言ってやろうと口を開いた。
 だがその前に、玲奈の顔を見てしまった。
 雲が空一面をおおう夜なのに、不思議と彼女の表情はよく見えた。ぎゅっと唇を噛みしめ目元を赤くする、怒ったときの顔だ。
「な、なんで一緒にいてくれないのよ――っ!!」
 ――どうしてくれよう、この女を。
 上着を掴み訴える玲奈を見てオーギュストは渋面になる。飲み物をもらってくると前もって断ったはずだ。そんなわずかのあいだくらい我慢できないというのが解せない。
「こ、怖いって、言ってるんだから、一緒にいてくれたっていいじゃないっ! 前のときだって! 勝手にいなくなって!」
「前?」
「変な気配がして怖いって言ったとき! 正体がどうとか言っていなくなったでしょ!」
 どうやら彼女は、札が貼られていたあの日のことを言っているらしい。
「――すぐ戻っただろう」
 そういえばあの札は祈祷符≠ニいう、いかにもジャンが好きそうな名前のものだった。本来なら役目を終えたときに勝手に剥がれ落ちるそれを、なかば力任せに剥がして回っていたオーギュストは、ジャンに言われて玲奈のもとに戻ったのである。
 勝手にいなくなったわけではない。あのときだってちゃんと断った。
「すぐ戻ってこなかったじゃない」
「たった一時間だろう」
 しかも、玲奈を怯えさせていたものの正体も掴めなかった。あれから落ち着いていたのに、今も彼女は見えないなにかに――悪魔に、怯えている。
「とにかく離してくれ。動けない」
 触れた場所から伝わってくる熱にオーギュストは内心で狼狽えた。少しずつ速くなる鼓動を知られてしまいそうで、玲奈の体を押し戻そうと肩に触れる。そのとき、彼女の震えが少し収まっていることに気づいた。
 触れているから、恐怖が少しやわらいでいるのだ。
 ――必要とされている。
 言葉でも態度でもそれを示されて、オーギュストの理性が大きく揺らいだ。