「骨の一本や二本くらい気にするな、すぐに付く――だ、そうです」
 昼の休み時間になってようやく保健室におもむき、救急車で搬送された大田原の容態を一晩中付き添っていた麗二に尋ねると、彼は苦笑とともにそう答えた。
 麗二はそれ以上の言及は避けたが、大田原がおった傷がそんなに軽いものでないことくらい神無にもわかった。いくら普通と違っても、一人で立ちむかってどうにかできる人数でも、ましてや簡単に決着のつく相手でもなかった。その乱闘は、おそらく死闘と呼ばれる種のものであったに違いない。
 麗二たちが駆けつけた直後に蜘蛛の子をちらしたように鬼たちが姿を消し、そこに残された大田原を見たとき、神無は寒さではなく後悔と恐怖に震えていた。身動き一つしないその男は、まるで死んだかのように踏みにじられた灰色の雪の上に倒れていたのだ。この場を離れなければ、あるいは彼があれほどの怪我をおうことはなかったのではないのかと、そう自問自答せずにはいられない。
 本来なら、それは神無自身がおうべき傷だった。それを、たかが先輩後輩という関係だった大田原が、当然のようにすべて肩代わりしてくれたのだ。どう謝罪しても謝罪しきれるものではない。それなのに彼は、朦朧とした意識のまま神無に笑って見せた。
 そして一言、問いかけた。怪我はないかと、とても他人を気遣える状態でないことは誰の目にも明らかだったのに、かすれる声を振り絞ってそう問いかけた。
 返す言葉もなかった。ただ神無は彼に頷いて、謝罪と感謝の言葉を飲み込んだ。逃げてばかりいた結果があれならば、もうなにがあっても決して逃げるべきではないのだと、凍てつく風の中で彼女はあらためて痛感した。
 乱闘があったあの場所の雪は新雪に取り替えられ、血痕はすべて拭われ、血臭は風が跡形もなくさらっていった。そして、翌日にはどこにも乱闘の証拠となるものは残っていなかった。
 大田原があの状態で、神無自身も薄闇の中であったために襲った者たちの顔などまともに覚えていない。現段階で、奇襲の証拠となるのは大田原の怪我だけという状況下だが形式的な被害届を学校に提出した。しかし、もともとが血の気の多い一族の末裔のためにこういったトラブルは日常的なので取り合ってもらえるかは怪しい限りだった。
 周到に準備され実行された奇襲は、それぞれの胸に確実な不安を植え付ける。
「学園側に交渉できないのかな」
「それで収集がつけば苦労はせん。鬼と花嫁間の痴話喧嘩は昔から口出しせんのが鬼ヶ里や。花嫁がより強い鬼を選んで、その鬼とのあいだに子ができたら万々歳ってゆーてな?」
「それはわかってるけどさ」
 丸椅子をきしませて水羽が唇を尖らせる。体を動かすたびに流動を忘れた大気が動き、保健室独特の消毒液のにおいがゆらめく。
 昼食をとりおえた水羽は、大田原の容態を気にして朝からずっと落ち着きのない神無を誘って保健室へおもむいた。そこにはすでに光晴がいて、そして現在に至る。
「痴話喧嘩とか言ってるレベルじゃないでしょ。だいたい、これって痴話喧嘩じゃなくて鬼頭に対して個人的な宣戦布告だし」
「鬼ヶ里は死人が出ても関与しませんよ。花嫁に危害が加われば別ですが、現状、被害が出てるのは鬼にだけで……かといって、鬼ヶ里を動かすために神無さんが傷つくのは避けたいですし」
「だったら、堀川響、こっちから潰しちゃえばいいじゃん」
 物騒な水羽の言葉に麗二は溜め息をもらした。
「それはやめたほうがよさそうです」
「……なんで」
「よくよく調べたんですが、裏で手をまわしてまして」
「そんなことくらい予想できるよ」
「それが、ちょっと半端な数じゃないらしくて。末端から順に消していくか、できるなら本人を完膚なきまでに叩き潰すか――しかし、勢いがついた今、向こうもそれは計算してると思うんですよね。それに、頭を潰すなら後発のトラブルを防ぐための見せしめもかねて一息に息の根を止めたほうがいいんですが」
「それも難しいやろうな。強いんやろ、堀川は?」
 麗二の言葉をついだ光晴に尋ねられ、水羽はぐっと押し黙る。過去に一戦交えた彼は、当然のことながら相手の強さも知っている。簡単に負けてくれるような相手ではない。
「三人でかかれば勝てると思うけど」
「素直に襲われてくれればいいんですけどねぇ」
「オレの庇護翼に探らせたら、めっちゃガードきついねん。絶えずまわりに鬼がおる。おそらく、打倒鬼頭ののろしに賛同しとるヤツらやろ」
「堀川が私怨で華鬼を付け狙ってるって言えば、呆れて離れるんじゃないの?」
「やー、根本的に嫌われモンやからな、華鬼は。どういう理由であれ堀川みたいな強い鬼が動くなら、便乗して目に物見せてやろうっちゅう輩は多いんちゃうか? 目の上のこぶみたいに思っとる鬼も、正直かなり多いんやから。あとはもう、共犯者が芋づる式に増える光景が目に浮かぶわ」
「嫌な光景ですねぇ」
「迷惑だね!」
「しゃあないやん。今までがそういう行動とってきとたんやから。ホンマいまさらやけど、あのクソ餓鬼には頭が痛いわ」
「……一応言っておきますが、堀川響が主犯とは決まっていないんですけど」
「絶対あいつ!」
「間違いないやん! 三翼以外に堂々と鬼頭に噛み付く阿呆がどこにおるんや!?」
 きっぱりと言い切る光晴と水羽に麗二は微妙な笑顔を返す。彼もそれには異論がないようで、それ以上の意見はなかった。
 話にひと段落着いたのか、麗二がポットの温度を確認して茶を淹れはじめる。淹れたてのお茶を一番に手渡され、昨夜の一件から顔色のさえない神無は礼を言ってそれを受け取った。
 気にするなというほうが無理であることをよく知る三人は、あえて慰めの言葉をかけることなく労わりの瞳だけを向ける。しかし、それにも気付かない神無は、じっと湯飲みに視線を落としていた。
 ふと水羽が息をつく。湯飲みを両手で包んで、沈黙を破るように口を開いた。
「雷太と風太に庇護翼の再通達したんだけど、見事に蹴られた」
 どこか呆れたよな声音に光晴が苦笑した。
「そら蹴るやろ。下手な守りが危険なんは、庇護翼自身がようわかっとる」
「そうなんだけどさ」
「それより」
 光晴と水羽の会話に割り込むように麗二が口を開く。
「水羽さん、怪我は?」
「ボクは平気。ボディに数発喰らって痣が残ってるだけ」
「……あの、一応骨にヒビが入ってるんですが?」
「それ内緒ね。舐められる。本当、油断した。足場の上じゃ防戦一方になってさぁ……でも、次はやられないよ」
 驚いて顔を上げる神無に、水羽はおどけてウインクして見せた。
「どっちかってゆーと気絶させて放置ってのがムカつくな。いくら鬼でも凍死するって。見つけてくれてありがと、神無」
 さらりと礼を言われ、その内容に混乱しながらも頭をさげた。これもまた、神無が謝罪と礼を述べなければならない場面であるはずなのに、まるで当然のように笑顔をむけられた。
 いつも、守られてばかりいる。脆弱で逃げる術さえ持たず、周りに迷惑をかけ、そして怪我人まで出しているにもかかわらず自分だけがのうのうと――。
「神無ちゃん」
 思考の波にさらわれる直前、ひたりと頬にあたたかい手が触れた。
「一回、自分の意思で守られてみんか? そうすれば、鬼がどれだけ花嫁を大切にする生き物なんかわかる。その上で感情がついてきたら鬼は最強や。惚れた女を全身全霊で守ることができたら鬼はいっぱしやから」
 間近で微笑み、真摯な瞳でまっすぐに顔を覗き込まれて神無はたじろいだ。当たり前のように口にする言葉がどれほどの重みを持っているのか理解した直後、カマクラの中ですっぽりとその腕に包まれて守られていたことを思い出して頬が熱くなる。
「な? だから今度は、ちゃんとオレの名を呼び。一等早く駆けつける」
 ずいっと光晴が顔をよせた瞬間、鈍い音がしてその体が前のめりになる。すかさず水羽が手をのばして光晴の襟首を掴んで体勢を整えさせると、唖然とした神無の目の前で顔を引きつらせていた。
「ってゆーか、足ならボクのほうが絶対早いし」
「ああ光晴さんはお茶がまだでしたね?」
 連係プレーよろしく、水羽に襟首をつかまれたままの光晴の顎を麗二が優美な指先で上に向かせ、ごぼごぼとこもるような音と水蒸気を上げるポットを引き寄せた。熱湯と書かれたボタンには水羽の指が伸びている。
「ちょ……! それ煮え湯!! お茶とちゃうやん!」
「遠慮なさらずに、ささ。水羽さん、ロックはずして」
「あ、これ? どーりで出ないと思った」
「って、マジであかんって!!」
「昨日のあれはやむを得ないと思って大目に見ましたが、今日も黙認されると思ってらっしゃるなんて光晴さんも考えが甘いですね」
「昨日の?」
 水羽が首を傾げると、光晴はぎょっとして麗二を見上げた。
「あれはしゃあないんや! 血のにおいはホンマにまずくて、麗ちゃん来るまでに見つかったら神無ちゃん守りきれんと思って!」
「わかってるから大目に見ると言ってるんですよ」
 凄みのある顔で麗二に微笑まれ、光晴が奇妙な悲鳴をあげる。じたばたと暴れるうちになんとか二人の手から逃れた光晴は、唖然と見守る神無の視線に気づいて顔を引きつらせた。
 そして神無の後ろに隠れ、ほっと安堵の息をつく。
「姑息な……」
 ポット片手に呆れる麗二を無視し、光晴は小さな声をあげて神無の体に顔を近づけた。くんくんとにおいを嗅ぎ、少し驚いたように神無を見る。その姿を見て水羽は麗二からポットをむしりとって前進した。
「まだやるんだ、光晴は?」
「違う! 神無ちゃん、今日はうまく治療できとると思って! こんなに近づいても血のにおいが全然わからんからっ」
 光晴はとっさに首を振ってそう返す。神無は、腕の傷を放置するのが危険だとわかっていたにもかかわらず、どうしても治療する気になれなくて何の手当てもせずにいた。
 ぴくりと硬直した神無はいきなり立ち上がるとあわただしく保健室のドアに向かった。真っ赤になった顔を隠すように深く頭をさげ、
「教室に戻ります」
 と、蚊の鳴くような声で告げる。
「あ、じゃあボクも」
「一人で平気です」
 思いのほかきつく返され、ドアに足を向けた水羽は呆気にとられて立ち止まる。多くの人々が行き交う廊下なら確かにさほど危険が多いわけではないだろうが、しかし、あそこまであからさまに避けられる理由が思い当たらず、三人は仲良く首をひねっていた。
「なんかあったんか?」
「……うーん、華鬼かなぁ」
「なんでそうなるんや」
「朝っぱらからあっちもなんかおかしかったから。まあ最近の華鬼ってだいたいが変だけど」
「ひどい言いようですが一理ありますね。……それじゃ、神無さんが赤くなって逃げるようなことがあったと?」
「華鬼しばき上げて訊いたほうが確実やな」
 穏やかでないことを口にして、光晴はじっとドアを見つめる。やがて耳をすますように目を閉じた。
「神無ちゃんの気配、探れるか?」
「刻印があるから多少はわかるよ。手分けして警護する?」
「なるべく負担がかからないように離れたほうがいいでしょうね。昨日の一件でだいぶ参ってるようですから。あ、水羽さんはくれぐれも無茶をしないように」
「わかってるよ。いざって時は別だけど、それ以外は大人しくしてる」
 水羽は少しだけ眉をしかめ、あてにならないことを言って丸椅子に腰掛け湯飲みに手を伸ばす。三対の視線は閉ざされたドアにそそがれていた。
 そして、同時刻。
 保健室を飛び出した神無は足早に人気ひとけのない廊下を渡り、生徒たちがあふれる教室の前へとたどり着く。そこにはあちこちから明るい音楽が流れていたが、同時にそれとは不釣合いなくらい騒がしい足音も響いていた。
 ダンスパーティーの練習をしているのだと気づいたときさすがに神無は焦った。雪像づくりと放送部の打ち合わせで時間がつぶれ、彼女はまともにダンスの練習ができずにいたのだ。残りの一週間でダンスを覚え、衣装班が作成したドレスを試着して微調整をし、さらにリハーサルもこなさねばならない。余裕だとばかり思っていた行事は予想以上に切羽詰っている。
 だが、焦る気持ちとは別のものが胸をずっと占拠し続けている。
 ざわめく廊下の途中で足をとめ、そして彼女は自分の腕を見た。朝起きたとき、治療を放棄していたはずの腕は彼女が驚くほど丁寧に手当てがほどこされていた。制服に着替える途中で放心してそれを凝視していた彼女は、夢だとばかり思っていた昨夜の記憶が現実であることを知る。
 まるで愛撫のように触れてくる指先と、すっぽり包み込む腕、そしてはじめて目の当たりにする優しい眼差し、さらに、柔らかな唇の――。
 神無はとっさに自分の唇を押さえた。
 いくらなんでも、あれは夢だ。夢に違いない――と、彼女は何度も自分に言い聞かせる。現に朝食をとっている間、華鬼はまったくいつもどおりだった。お蔭で神無だけが赤くなったり青くなったりを繰り返している。
 しかし、怪我の手当て自体は夢ではない。となると、あの口づけだけが夢というのはどうにも考えにくい。
 そこまで考えると、彼女は何がなんだかわからなくなってしまうのだ。いろいろ心痛もあるが、いまはそれに華鬼のことまで加わって彼女を混乱させている。こんな内容だから本人に確認する事もできず、不意をついて思い出すたび、唇に残った感触にひたすら狼狽えた。
 ざわめきをぬうようにチャイムが聞こえた。
 とっさに顔をあげ、水羽といっしょに教室を出る際に桃子がひどく心配していたのを思い出し、紅潮した顔を冷やすように両手でつつんで神無は何度も大きく深呼吸する。
 軽く叩いて気を落ち着け、足を踏み出した。
 ――今朝、神無は桃子に自分の知っている情報をすべて話した。そして、響が危険な男であることも伝えた。犠牲を最小限にとどめるために取った行動は同時に桃子を傷つける可能性があるのだとわかっていたが、危険を回避するための最後の手段であると身を切るような思いで口にした。
 驚きに表情を変え、目を見開いた彼女の顔が脳裏に焼きついている。恋人だと思っていた男に利用されたのだと聞かされたのだから落ち込んでいるだろう。
 そう思うといたたまれない。
 小さく息を吐き出して神無は教室のドアに手をかけた。
「朝霧さん?」
 意外な相手に名を呼ばれ、神無は動きをとめて首をひねる。喧騒が一瞬だけ遠のいていくような錯覚に驚いていると、目の前の少女はうつむいていた顔をまっすぐ神無に向けた。
「土佐塚さんなら教室にいないよ」
 すらりとした長身の少女はそこでいったん言葉を切った。日本人形を思わせる美少女、江島四季子と行動をともにしていた関根ユナは、いまは誰とも口を聞かずに教室で孤立していた。すでにむき出しの敵意もなく、憔悴しきった顔で神経質にあたりを見渡して神無に近づく。
 ほとんど条件反射のように身を引いた神無に息をのみ、彼女はその場に立ち止まった。
「ごめん、そういうつもりじゃない。ただ……その……」
 戸惑うように言葉を途切れさせ、彼女はもう一度警戒するようにあたりを見渡した。
「四季子を襲ったヤツ、あの子をあんなにしたヤツ、わかった気がする。復讐なんてするつもりないけど、あんな思いはもう嫌だ。だから朝霧さんも気をつけてって、そう、言いたかっただけ」
 襲ったという意味がよくわからなかった。四季子は個人の都合で転校したことになっていたのだ。詳細を尋ねようとしたが、どこか拒絶にも似た空気をまとうユナには質問することができず、神無は押し黙ってから丁寧に頭をさげた。
「あ、ありがとう」
「……お礼、言われることじゃない。馬鹿なことしたって、あの時ちゃんと四季子をとめればよかったって、いまはそう思ってる。……土佐塚さん、特別教室のあるほうに歩いていった。もし捜すなら――気をつけて。誰にも見付からないように行ったほうがいい」
 あとは神無の返事を待たず、彼女は廊下を駆けだしていった。切迫した空気は神無にまで伝染し、異様なほどの緊張を呼んだ。
 神無はユナが消えた廊下をしばらく見つめてからゆっくりと歩き出す。
「……特別教室……」
 そこは普段、生徒が使用しない場所だ。とくに鬼ヶ里祭の準備に取り掛かってからはまともな授業もなく、その一画はまったくといっていいほど人の出入りがなくなっている。そんな場所になぜ桃子がいるのか疑問に思いながら、神無はユナに言われたとおり息を殺すように廊下を進み、階段をのぼって目的の棟まで歩いていく。
 ひやりとした冷気が頬を撫でた。
 利用頻度の低い場所は空調も管理されていない。神無は壁伝いに進み、冷気と緊張に全身を硬くしながらも静寂に足をとめて息を殺した。
 人の気配がないかを慎重にさぐり、廊下の角を折れて足音を忍ばせる。友人を捜すのにどうしてこれほど気を配らなければならないのかという思いもあるが、それ以上にユナの真摯な瞳が彼女にその行動を取らせていた。
 階段をのぼるとちいさな話し声が聞こえてきた。
 単独で行動することの危険性を熟知している少女は、細心の注意を払って前進する。鬼の鼻がどれほど優秀でも動物並みとまではいかないだろうと判断し、近づき過ぎないように歩を進め――そして、鮮明になる声に足をとめた。
「心配されちゃった」
 明るい声は、桃子のものだった。
「バッカみたい。私のせいでって……なにあれ、悲劇のヒロインのつもり? これだから幸せな女って嫌い」
「そう言うなよ。大事な親友なんだから」
「誰が親友よ? そういう冗談やめて。ムカつく」
 嘲笑交じりの声に血が逆流するかと思うほど動揺した。主語がないにもかかわらず、それが誰に向けられた言葉なのかがわかって言葉にならなかった。
 響が華鬼と対立する鬼であることを伝えた時、桃子は混乱するように顔を伏せ、そして神無に言ったのだ。
「だよねぇ。あたしがもてるわけないもん」
 それは違うと否定したが、桃子は苦笑を消すことはなかった。かわりに、よく話してくれたと、礼まで言われた。
 平気そうな顔をしていても、傷ついているに違いない。響は桃子を大切にしているように見えたから、周りが思っている以上に彼女もそれを感じていたなら、きっと気分を害しただろう。
 それでも必死で笑顔をむけてくれたのだと、そう思っていた。
「昨日は急に響に引っ張られて、なんか変だなって思ったんだ。気付いたら部屋だったし。……一人にしてごめんね? 怖かったでしょ」
 耳に残るのは、友人を気遣うような優しい声音。
 けれど耳朶を打つのは、冷ややかな冷笑。
 急激に現実に引き戻され体が震えた。神無は震える体をなだめるために両手で己の体をきつく抱きしめた。
「ひどい女だな、お前は」
「あんたに言われたくない。それに、もともとそのつもりであたしはあの子に近づいたの。なかなかの名演技でしょ? 友達のふりも疲れるんだから」
「オレもときどき騙されそうになる」
「――バカじゃないの? それより、いつやるの? もう準備は整ってるって昨日言ったじゃない。あの子、ボロボロにしてくれるんでしょ?」
 嬉々とする声音に思考がついていかなかった。もしかしたら、声がよく似ているだけの別人が話しているのかもしれない。
 それともただの悪ふざけなのではないのか。
 混乱しながら神無はふらりと歩き出す。この学園に来て、いつものように孤独ととなり合わせだった彼女に唯一声をかけてくれた少女――絶えず気遣い、親身になって体をはって守ってくれたことさえあった友≠ェ。
「いいのか?」
「いいに決まってるじゃない。あたし、神無なんて大嫌い」
 その一言に思考すら停止する。わずかに開いたドアの隙間から室内が見えた。
 そこには見知った少女の後ろ姿と、冷ややかな笑みを浮かべる鬼がいた。視線は少女ではなく、まるですべてを見透かしていたかのようにまっすぐドアの奥にいる神無を射抜く。
 ふっと背後で空気が動いた。肌を刺すように張り詰めた空間で、神無は逃げる事も忘れて嘲笑する響を凝視していた。
 その時になってようやく神無は気付いた。
 いつも狂ったように鳴り響く警笛が沈黙をつづける理由を。
「チェック・メイト」
 耳元で聞こえたささやきに、急速に意識が薄れていく。
 限界を超えた緊張と恐怖から精神を守るために沈黙していた警笛が、その時になってようやく激しく打ち鳴らされる。
 視界が一瞬にして暗転した。

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