水羽が息を切らせて保健室のドアを開けると、そこにはやはり麗二と光晴の姿があった。年寄り臭いこの二人はもともと気が合うらしく、よくこうして談笑しているのだ。
「あったかいお茶でもどうや?」
 愛用の湯飲みを持ち上げて光晴は水羽に笑顔を向けるが、彼はそんな男に目もくれずに奥にひかえている保健医へと視線を投げる。
「神無来てない?」
 定番となりつつある言葉に、二人は同時に眉をひそめた。
「いっしょやないんか?」
「教室に帰ったら、土佐塚と校庭に行ったって聞いて」
「なら、雪像づくりやろ?」
「そう思って移動したら、放送部の緊急ミーティングに呼ばれたって聞いたんだ。昼に話してた男って放送部の部長でさ、当分病院から出られないじゃない」
「ええ、いくら鬼でもすぐには無理です」
 肯定する麗二に水羽は頷く。
「鬼ヶ里祭まで間がないから、放送部も焦ってるんだと思ってた。――ミーティングが二時間の予定で、もう帰ってきてもいいはずなんだ」
 一同の視線が壁にかけてある時計へとそそがれる。時刻は四時をとうにすぎ、長針はあとわずかで垂直になろうとしていた。
 ゆっくりと広がっていく闇の中にたたずむ少年の声はちいさく震えていた。
「部室に行ったら誰もいなかった。使われた形跡もなし」
「なし、とは?」
「暖房、入ってなかった。ここに来る途中、放送部の部員見つけて訊いたら召集の話はないって――他、捜してくる」
「水羽!」
 踵を返した少年の背に鋭い声があたる。
「落ち着け。無闇に動くんは得策やない」
「そうですよ」
「でも……!」
 悲壮な声をあげる水羽を制し、光晴は携帯電話を取り出した。
「とにかく、神無ちゃんを見つけるんが最優先。オレの庇護翼にも連絡を」
 言葉の途中で光晴は息をのむ。瞳は瞬きひとつせずに開けたばかりの携帯の画面を凝視した。
 遠く、水羽の声が響く。
「繋がらないんだ、携帯。校内放送も使えない。……壊されてる、みたいで」
 鬼ヶ里高校は山中にあるため、コスト面や自然保護を考えて太陽光や風力などのクリーンエネルギーを利用する基地局が置かれている。そこは定期的に巡回され過去一度も故障したことのない施設でもある。
 目を疑うように光晴が圏外と表示された画面を見つめている横で、麗二は保健室に設置されている外部連絡用の電話へと手を伸ばした。彼は受話器を持ち上げ耳にあてるなり、何度かフックを押して無言のまま受話器をおろす。
 その動きから状況が切迫していくのがわかった。
「やりおるな」
 一連の出来事が偶然とは思えない光晴はちいさくうめいた。密に情報を交わしたい状況が目の前にあるというのに、交信手段の一切が断たれているのだ。
 暗い蔭が各々の心を埋めていく。
「神無さんの居場所、学園内とは限らないですね」
「外の可能性もあるってこと?」
「……鬼ヶ里祭か」
「ええ。この時期は車両の出入りが激しい。どれかに乗せられていることも充分に考えられます」
「町におりたら見つけるのは至難や」
「でも、学園内にいる可能性だって……」
 水羽は意見しかけ口をつぐむ。主人の印がある花嫁は、感覚的とはいえ庇護翼が比較的見つけやすくなっている。それに、いまの神無には三翼の刻印もあるのだ。学園内にいればおおよその位置くらい見当がつき、彼女に何かあれば空気が一瞬にして変化するだろう。
 鬼は妊婦に血を混ぜ、母体に眠る女児の遺伝子を狂わせ印≠刻む。特殊な遺伝子を持つことにより鬼の花嫁となった少女たちは、それによって印を刻んだ鬼に感知されやすくなる。それは必然的に守りの要となり、窮地の際には彼女たちを救うためのもっとも確実な手段となるはずだった。
 本来なら、自分の印を持つ花嫁を見失うことなどない。現に彼らはずっと神無の気配を探りながら学園にいた。あまりに近すぎれば彼女に負担がかかるからという配慮で一定の距離をおき、それでも、確実にその気配を捉えていたはずだった。
 しかし、意識を集中させると、何か妙な気配が混じっている。さらに注意深くさぐった直後、刻印の気配が不自然に大きく揺らめいた。
「……っ」
 確かであったはずのものが崩れていく。
 あの秀麗な鬼は、神無に己の印を刻んだことによって、三人と同様に基盤となる華鬼の呪縛がどれほど強いのかを正確に把握している。ならば、印を頼りに花嫁を捜すというその能力を撹乱させるための方法を編み出したことも考えられないわけではない。
 この奇妙な気配が囮で、神無が学園の外に連れ出された可能性もあったが、逆に響が華鬼を嬲ることを目的として彼女を捕らえたなら学園から出るとは考えにくくもある。
「どっちや!? 内か外か……っ」
 光晴の声にチャイムが重なった。五時を知らせるためのものだ。その音に反応し、作業をしていた生徒たちが一斉に手を止めて何事かを話し合ってから道具を片付けだす。鬼ヶ里祭まで一週間という差し迫った時期で、作業延長の書類は毎日のように提出されているにもかかわらず、不自然なほどの統一感をもって彼らは作業を終えていた。
「ねえ、これってどういうこと?」
「……やられましたね、完璧に」
 次々と帰路につく生徒の背を見つめ、麗二はドアへと歩き出す。
「あちらはご親切に最高の舞台を用意してくださったんですよ。昨日の招待客は神無さん一人の予定だったのでしょう。今日は、私たちです」
 苦くつぶやく声に光晴は立ち上がるなりコートを手にした。
「三翼舐めくさりよって……!」
「光晴さん、まだ手を出しちゃ駄目ですよ。――部外者が全員帰ってからです」
「待ってよ! 神無どうするの!? 連れ出されてるかもしれないんだろ!?」
 肩を怒らせて歩調を合わせた二人に水羽が慌てて声をかける。直後、彼の背後に人影が現れた。
「水羽? 今日は電気設備の点検で一斉下校って連絡が――」
 瓜二つの顔はいつも通りの笑顔を浮かべたが、瞬時に異変に気づいて引きつった。鬼の一族には珍しい双子は、鏡に映すかのようにぴったり動きをそろえて一歩後退する。
「……いいところに来たね、雷太、風太」
「え? オレたち、たまたま通りがかっただけで……!!」
「もう帰るつもりだったんだ! 水羽も帰るよな!? って、高槻先生に士都麻先輩まで、笑顔コワ……っ!!」
「ええタイミングや。これで一陣できたな」
「そうですね。あと四人集めていただきましょうか」
「なんの話デスカー!?」
「――雷太、風太」
 がっちり手を握り合って悲鳴をあげる双子に水羽は輝くような笑みを向ける。それがろくでもない命令の前触れであることを重々承知している彼らは、逃げ出さんばかりの拒絶反応をみせる体をなんとか理性で押しとどめていた。
「主人として命令する」
 ひたり、と指先が二人をさす。
「雷太は裏門に行き車両を規制、風太は校内にいる麗二と光晴の庇護翼を捉まえ、雷太のサポートに回って」
「サポートって」
「昼から町におりた車両をすべて捜し出して不審なことがなかったか確認。誰か一人、基地局にも行ってほしい」
「水羽? どうかしたのか……?」
「――神無の姿がないんだ」
 双子はたった一言で状況を把握して顔色を変え、なにかを探るように瞳を閉じた。そして、互いの顔を見合わせる。
「え? でも気配はちゃんと……あれ?」
「……なんだろ? なんか変な感じが……朝霧さん、もしかしてここにいないの?」
「いるだろ、気配がする」
「でもこれって花嫁の気配かな。似てるけどなんか違わない?」
「……本当だ、いつもと違うような……」
「場所、特定できる?」
「……おかしいな」
「オレ、できないかも」
「うーん」
「こんなの初めてだ」
 ぼそぼそと話しあい首を傾げる双子に確信を得て、水羽はまっすぐに彼らを見た。
「一刻の猶予もない。だから、助けて。ボクたちは校内を捜す」
 主人である水羽に真剣に見つめられ、彼らはその顔に戸惑いの色を浮かべる。華鬼の力をそのまま反映し、神無は並みの花嫁にはない独特の「芳香」を持つ。それは庇護翼として彼女を守らねばならない立場にある彼らの理性を簡単に揺さぶってしまうほど強烈なものだった。
 鉄壁の守りをもって花嫁に添うはずの者が、危害を加えてはならない。
 だから彼らは、主人の命に反して花嫁のそばには近づかなかった。これもまた、庇護を第一に考えての行動なのだ。
 しかし現状、そんなことを言っている場合でないことは明らかだった。
 雷太と風太はこくりとツバを飲み込んでから頷く。
「わかった。四人に連絡とって――」
 ぱっと携帯を取り出した風太に水羽は首をふった。
「使えないよ」
「え? 本当だ、圏外……って、もう下校はじまってるじゃん! 早く捜さないと帰っちゃうっ」
「風太、オレ先行ってるから」
「うん、あとで合流な」
「早く来いよ」
「わかってるよ」
「じゃ、こっちはオレたちに任せて」
 最後はぴったりと息の合ったところを披露して、双子は廊下を駆け出していった。
 連れ立つように校門を出て行く生徒の影を目で追って、麗二は小さく息を吐く。
「……外に出てないことを祈るしかないですね」
「あの性格なら校内の確率のほうが高い。昨日のこともあるし、オレは校庭のほう見てくる」
「ボクはクラブハウスから潰す。麗二は校内順当に見ていって」
「ええ。本当に、こういう時は迷惑な広さですね」
「意外に普段使ってる部屋におるかもしれんしな。外終わったらオレも校内捜す」
「ボクも。……連絡手段がないのって、痛いね」
「しゃあない、それが狙いや。運よくぶち当たったらやるしかないやろ」
「水羽さんはくれぐれも無茶は避けてくださいよ」
「そんなこと言ってられないよ。やばかったら病院まで連れてってね? 業者出入りしてるから、道は整備されてるんだろ」
 軽く体をさすって水羽は微苦笑する。そしていったん保健室内に向けた視線を廊下にやって、怪訝な顔をした。
 珍しい男が、珍しい表情をして保健室に向かって歩いてくる。
 ドアにたどり着いた男は水羽の上から室内を確認してくるりと踵を返した。
「華鬼!」
 まるで無頓着なその動きに一瞬呆気にとられた水羽は、去っていく男の腕を慌てて掴んだ。
「もしかして、神無、捜してる?」
 期待をこめた問いに華鬼の表情がわずかに動く。ちらりともう一度保健室を見て、
「いないのか」
 と、独り言のようにつぶやいた。
「気配、探れないの?」
「……いや」
「堀川響が動いてるかもしれないんだ。――華鬼、神無が危ない」
 水羽の言葉にふっと華鬼が息をつく。ぴんと空気が張り詰めるような感覚に内心ひどく驚きながらも、水羽は振り払われた手をゆっくりとおろして遠ざかっていく華鬼を見送った。
 そして、自分の手に視線を落としてきつく拳を握った。
「……驚いた」
「なんや、あいつ?」
「あんなに焦ってるとこはじめて見た」
「は?」
「――華鬼も神無を捜してくれるみたい」
 怪訝な顔をする光晴とは対照的に、麗二は呆れ顔で肩をすくめた。
「……ようやく、ですか」
「まだ全然自覚ないみたいだけどね」
「本当に困った坊やですねぇ」
「あれは根深いから。たぶん、物心ついてからずっとなんだと思うよ」
「どうせ神無さんに印を刻んだ理由もわかってないんでしょ」
「うん。神無を傷つけられない理由も、腹が立つ意味も、本当はすごく簡単なことなのにね」
「ちょお待ち」
 早足で廊下を歩きながら交わされる会話についていけない光晴は、力いっぱい二人の肩を掴んで割り込んできた。
「何の話や?」
「なんのって……だから、最高の悪循環の話?」
「ああ、確かに悪循環ですね。本人が毛ほども気づいてないってのがまったく、なんと言っていいのか」
「で、最近大人しい理由も、それでちゃんと説明付いちゃうんだよね」
「……本当に腹立たしいですけどねぇ」
「だからさっぱり意味がわからんっちゅーんや!」
「え? だから」
 ぽんと告げられた次の言葉に、光晴は耳を疑って二人の顔を凝視した。そうして、そんなアホなと低く呻く。彼にとって、それはまったく予想外の意見だったらしい。
「でもほら、それで全部辻褄が合うじゃない。殴りたくなるでしょ?」
「お……おお、ホンマにあいつは……っ」
 片手で顔面を覆ってから光晴は駆け出した。
「せやかて華鬼に神無ちゃんは渡さんー!! 神無ちゃんと別れたんが一時すぎ、空白は約三時間! 絶対見つける!」
 コートをはおって昇降口に突進していく男に残された二人が苦笑する。
「あきらめの悪い人ですね」
「麗二はいいの?」
「……仕方がないでしょう」
 小さく溜め息をついて麗二が瞳を伏せた。
「花嫁が選べば我々に拒否権はありませんよ。もえぎさんに報告したら、もう華鬼に任せても大丈夫だからお疲れ様でしたとか言われちゃうし……私は用無しのようです。ああ、本当に切ないですよねぇ」
 どうやら、慰めてもらえると思って話したもえぎからは期待した言葉が返ってこなかったらしい麗二は一人で勝手にしょげている。それでもたいしたもので、方々に視線を走らせ気配を呼んでいた。
「じゃ、ボクは外のクラブハウスのドア蹴破ってくるから」
「それは器物損壊……」
「物を壊すのって、嫌いじゃないよ?」
 言うなり、水羽はコートを取りに教室へと向かい、残された麗二はすこしだけ頭痛を感じながら長く広がる廊下を見つめた。まだ校舎内に無関係な人間が残っているのだろう、楽しげな声がちいさく廊下を反響して彼の隣を通り過ぎていった。
 その中に、かすかな機械音が混じる。誰も気にとめることのない、些細な音。それは一定の周波に乗って機械から機械へと音を伝える。
 皓皓と光で満たされた部屋にざらつく音が短く鳴った。
「まだ眠らせてある。予想以上に人数が集まったから驚かせたらカワイソウだろ……ん? そうだな、こっちに来てもいい。タイミングがいいから、相性が合えば面白い事になるぞ」
 密やかな笑い声。
「他のヤツにも伝えとけ。獲物は極上で食べごろだってな? こんなチャンス二度とない。鬼頭の花嫁がどういうつもりで来たのか知らないが、お蔭で意外に早く舞台が整ったからな……ああ、またな」
 それは嘲笑に似た、ひどく耳障りな声だった。
 機械音が一度途切れ、また新たにぐぐもった声とともに聞こえてくる。
「ご苦労。そこには誰も近づけるなよ。敵の戦力を散らすのも作戦の内だ。厄介だからな、三翼は」
 不快な機械音とともに遠くで男の声が肯定を告げると、今度は短く会話が切れ、立て続けに新しい機械音がした。
「なんだ? ――そうか、やっと別行動になったか。生徒もだいたい下校したし、いい頃合だ。体力削っていけ。招待状を受け取ったら一気に潰していいぞ」
 幾分楽しげに声が弾む。不穏な会話はそれで終わり、ようやく落ち着いたのか硬い音が遠くから聞こえた。
 そして、溜め息。
「鬼ヶ里も利用するって言ってなかった?」
 少女の声が刺々しく問うと、男は瞬時にまとう空気を変質させた。
「ああ。……鬼ヶ里祭当日までに三老を丸め込んで学園を味方につけるつもりだったが、渡瀬が意外と粘って予定が狂ったからな」
「三老?」
「過去に囚われた亡霊ども」
 自嘲気味な声音がつぶやく。
「なによ、それ……」
「……亡霊のほうが口出ししないぶん可愛げがあるか」
 それ以上の質問を拒絶するかのように冷たく言い放つ。衣擦れの音がして、沈黙を破って少女がふたたび言葉を発した。
「渡瀬って?」
「鬼頭の父親の庇護翼頭」
「それって前に学校に来た?」
「ああ。あんな男によくあそこまでの庇護翼がついたもんだ」
 知った名を、意外な声が言葉にする。
 一つは、華鬼の敵であり彼のアキレスとなるはずの花嫁を狙い続けてきた鬼、堀川響。そしてもう一つは、最近では毎日言葉を交わす、大切な友人だと思っていた少女の――。
 凍てついた、声。
「あんたって口ばっかりなわけ?」
「……結果としては悪くない。三老を使って鬼ヶ里を動かした方が都合がいいってだけで、そっちを失敗しても計画自体に支障はないんだからな」
 いっしょにいた時には一度も感じさせたことのない剣呑とした空気がさらにギスギスしたものへと変わる。わずかな隙さえ見せてはならないとでも言いたげなほどの重圧に、神無は思わず小さな声をあげていた。
「神無? 起きたの?」
「まだ薬が切れるには早い」
 響の声が笑いを含む。眼前が暗くなると、そっと何かが髪に触れた。柔らかく髪をすくような指の動きはどこか繊細で、まるで労わるようで――すぐに、それが桃子のものであると確信した。
「ごめんね? でも、あんたが全部悪いの。――どうしてあたしを信用したの? おかしいと思わなかった?」
 この状況にあってなお不思議と起伏のない、むしろ淡々とした声音で桃子が問いかける。責められているような気持ちになったが、どうしても体が思うように動かず言葉を返すことができなかった。
 訊きたいことが山のようにあった。なぜこんな事になったのか、いまの彼女にはどうしてもその理由がわからなかった。
 神無にとっては何もかもがあまりに唐突すぎたのだ。
 大嫌いだと告げた桃子の声がいまも胸の奥に深く突き刺さる。それがひどく悲しくて寂しくて、涙がこぼれそうになる。
 傷つけられることには慣れているはずなのに、たった一言がこれほど重いのだ。
 不意に桃子の指先が頬に触れた。
「神無?」
 そっと目尻に触れて、指の動きが止まった。戸惑うように息を呑む。
「なんだ? どうかしたのか?」
「……なんでも、ない」
 慌てたように返して桃子の手が離れ、遠ざかっていくのがわかった。呼び止めたいが、やはり体がまったくと言っていいほど反応しなかった。
 警笛はずっと鳴り続けている。
 桃子に声さえかけられない神無は、どことも知れない部屋に寝かされていた。
「響、あの……」
「なんだよ?」
「……」
 息を吸い込むような音を、何かがぶつかる激しい音が打ち消した。いくつもの足音と声が部屋の中に押し寄せてくる。すべてが男であると――すべてが鬼の血族であると瞬時に理解できたのは、身の危険を感じたがゆえであったのかもしれない。
 神無は状況が確認できないにもかかわらず自分の体が緊張していくのを感じていた。うるさいほどの警笛が、緊張と恐怖を極限まで高めていく。
「それが?」
「ああ、鬼頭の花嫁」
「……大した女じゃないな」
「刻印は最高級だ」
「刻印だけかよ」
 あざける声にせせら笑う声が重なる。すでに聞き飽きたと言ってもいい内容だった。神無が何の反応もしないことに気づいたのか、どこか不満そうな声がつづいた。
「薬か?」
「起きてたほうが面白いのにな」
「それより撮影しとく?」
「デジカメなら持って来たけど」
「動画の方が面白いだろ。映研に行って借りてこいよ」
「そうだな。ちょっと待ってろ」
 足音が遠ざかっていくと、別の方角から複数の足音が近づいてきた。
「おいおい。何人呼んだんだ?」
「暇なヤツは全員、かな。こっちで体力使うのが嫌なら、校内うろついてる奴らをしてもいい」
 響が言うと、笑い声がした。
「どっちも面白そうだけど、奥にいるの、鬼頭の花嫁だろ? じゃあオレはこっちだな」
「当然な」
「この人数じゃ死んじゃわない?」
「殺すなよ、勿体ねぇな」
 あらゆる種類の笑いが押し寄せてきて、神無は総毛だっていた。また遠くから足音が近づいてくる。さらに増える音に警笛は限界を超えて鳴り響き、助けを求める彼女は無意識に胸の奥で同じ名を呼び続けていた。
 声に出すことができたなら、それは絶叫に近い呼びかけだったであろう。
 しかし、言葉は喉の奥に絡まったまま吐き出されることはなかった。
 すこし離れた位置で言葉を交わしていた男たちの中から離脱して近づく気配があった。ゆったりとした歩調で神無の元まで向かい、その顔を覗き込むなりぴたりとその頬に手をそえる。
 瞬時に全身に鳥肌がたった。
「……なんだ、意識はあるのか?」
 ささやく声は響のものだった。
「まあどっちでもいいけどさ。……ねえ、あんたがボロボロにされたら鬼頭はショックだと思う? それとも全然平気なのかな。庇護翼さえつけなかった花嫁でも、多少の愛着くらいあると思う?」
 頬を滑った指先がリボンへと触れる。遠くから不快な笑い声が聞こえ、神無は嫌悪で吐き気さえ覚えた。
「でも、残念。この特別棟の部屋は特殊でね、まだ研究段階だけど自分の印がある花嫁でさえ、ここにいれば見つけることができないっていう代物なんだ。だから、障害をかいくぐってどんなに頑張って捜してもここに来た時には手遅れって寸法。――鬼頭にはもっと生き地獄を味わってもらおうかな」
 ふわりと風が胸元を通り過ぎる。そこでようやく、神無は着衣が乱されていることに気づいた。
「別にあんたが悪いって訳じゃない。だから、恨むなら鬼頭を恨め。バカな男に印を刻まれたばっかりに、人生をムチャクチャにされたんだ」
 吐息が頬に触れ、そこから不快感が広がっていく。すぐにでも押しのけたいのに体がどうしても言うことをきかず、冴え渡る神経だけが悲鳴をあげつづける。それは神無にとってまさに拷問とも呼べる状態だった。
 ゆるりと動いた指が布地をひっかけると、冷たい風が肌を撫で、衣擦れの音が間近で聞こえた。
 遠く近く、悪夢のように下卑た笑いが木霊する。
 助けてとどんなに叫んでも、声にさえならない言葉を聞く者はない。聞いたとしても残酷に笑みだけを繰り返す彼らが助けてなどくれるはずもない。
 絶望が胸の奥から押し寄せてくる。
 鬼ヶ里に来て、もう長いこと忘れていた感覚だった。日常のトラブルは絶えなかったが、以前とは比べ物にならないくらい穏やかな日々をおくっていた彼女は、もうあんな生活に戻ることはないだろうと漠然とそう思い、そう願っていた。
 だが、現実は違う。
 ゆっくりと肌に指が滑っていくたび、皮下が腐敗していくような錯覚がした。
 いっそ肉ごとえぐってくれたほうがどんなに楽か――そう、思った直後。
「待って!」
 鋭く桃子が叫んでいた。辺りをつつむ異様な空気がわずかに揺らぐ。
「……さっきからおかしなヤツだな」
 不愉快そうな響の声に苛立ちが混ざる。神無は必死に重い瞼を開いてかすむ目を凝らし、己のおかれた状況を把握して息を呑んだ。
 室内はこれといった設備もないのに異様に広く、それに反して、通常どの部屋にも設置してあるはずの窓がひとつとしてない。記憶に残る光景は、すぐに過去に何度か利用したことがある部屋へと繋がった。
 放送部が他の部活と共有で使用許可を得ている部屋によく似ている。一度だけ、部長である大田原からそこが完全防音の特別な部室だと聞かされた。視線を動かし遠くにいくつかの机と椅子を認め、神無はそこがその部屋であると確信する。
「桃子、いまごろ良心の呵責とか言い出すなよ?」
「ち、違う、けど……! ちょっと! やめてよ!!」
 悲鳴に近い声に、神無の肌をたどる指が離れる。
「うるさいな、萎えるだろ。見たくないなら出て行けよ」
「その子の傷」
「あ?」
「なによ、その傷……!」
 大勢の男たちはまるでひとつの塊のように輪郭を崩してうごめいて見えるのに、桃子の姿だけははっきりと網膜に飛び込んでくる。
 青ざめたその顔は混乱するように歪んでいた。
 桃子がなにを言っているのかわからなかった神無は、すぐに彼女の視線がはだけた胸元にそそがれていることに気づく。ここに来てから自傷によって新しく傷が増えることはなくなったが、それでも、体中に残された痕は消えることなく肌に刻み込まれている。
 見た者を不快に、あるいは残忍にする醜い傷痕を、神無は誰の目からも隠し続けていた。
 桃子が知らないのも無理はない。
 反射的に傷痕を隠そうとしたが、やはり体がうまく動かなかった。きっと気持ちが悪いと思われたに違いない。そう考えると、こんな状況なのにひどく悲しかった。
「どうしてそんな傷があるの? その子は、守られて」
「バカじゃないのか、お前」
 冷ややかな声は心底呆れたように桃子に向けられた。かすむ目で響を見上げると彼は冷笑して桃子をめつけている。空調の管理されている部屋が冷えていくような錯覚に、近づいてきた男たちさえ思わず足を止め息をのんでいた。
「十六年間、庇護翼に守られなかった花嫁が無事なわけないだろ。刻印の呪縛がどれだけ男を呼んだと思う? 生きてるなんて誰も思わないさ」
「そんな……」
「お前が鬼に捨てられても庇護翼はお前を守るためにそばにいただろ? お前程度の花嫁でも鬼はそれだけ気をつかう。鬼頭の花嫁ともなれば守りは鉄壁じゃなきゃいけなかった。それなのに鬼頭の名を持つほどの男が一番心を砕くべきことをないがしろにした。――これがその結果さ」
 手が、強引に衣類を裂く。
「なあ、悲惨だと思わないか? 誰よりも大切に愛されて育つはずの女が、欲望と嫉妬に狂った人間たちの間でどう自分を守ってきたか。それを考えれば、同情こそすれうらやむなんてお門違いもいいところだ」
 はっきりとわかるほど桃子の顔色が変わる。それは、侮蔑した態度をむけられることに対する怒りではなく、告げられた内容に驚愕しての転化であった。
「そんなの、あたし知らない……!」
「頭の悪い女だな」
 響は嘲笑して言葉をつづけた。
「三翼はずっと学園にいただろ? どうして守るべき花嫁のそばにいなかった? お前、一度もおかしいとは思わなかったのか」
 蔑みの言葉はどこか楽しげで、それが余計に不快感を増長させていく。
「だって、それじゃあたし」
「――ひどい女だ。くだらない嫉妬で真実に目をむけず、やっとまともな生活がおくれるようになった友人を裏切るんだからな」
「なにも教えてくれなかったじゃない!」
「当たり前だ。手駒は多いほうがいいに決まってる。使えなきゃ捨てればいいんだからな」
「あ、あんた最低!」
「お前に言われる筋合いはない」
「響!!」
 響の手が明らかな意思をもって神無の肌に触れると桃子は狼狽して足を踏み出す。その腕を周りにいた男たちが掴むと、彼女はいっそう狼狽して周りにいる男たちを睨みつけた。
「放してよ!」
 彼らにとってみれば響は鬼頭に並ぶ実力者で、下手をするなら畏怖の念で接するような相手である。その彼と対等な口をきく桃子の存在は不可思議で、鬼の花嫁としての格を考えればこの光景自体があまりに奇異だった。
「さっきからなんだよ、この女」
「お前の花嫁じゃないよな?」
 確認する男たちに響は肩をすくめた。
「そんなわけないだろ」
「放してったら!! 響、やめてよ!」
「……おい、桃子を――その女、押さえておけ」
 顎をしゃくる響に桃子は信じられない物を見るように目を見開く。ドアの前にたむろしていた男たちは暴れる彼女の動きを封じて要領を得ずに響に疑問の視線を投げかけた。
「なに? こいつも獲物?」
「……そいつはギャラリーだ。手は出すな」
「ふぅん? まあこんな女、こっちから願い下げだけどな」
 沸き起こる嘲笑を無視して響は桃子に微笑みかけた。
「オレはお前を被害者ヅラさせるほど親切じゃないんでね」
「響……!!」
「うるさいから口でも塞いでおけ」
 桃子に向けられた冷酷な笑みは、上手く働かない頭で懸命に現状を整理していた神無へとむけられる。重なり近づいてくる足音に恐怖しながらも、神無は鮮やかな黄金の瞳から視線がはずせずにいた。
 それは過去に何度も目にした残忍な狂気の色。
「泣き叫んでも誰にも届かない。まあ、明日の朝には自由にしてやるけど」
「……、は」
 神無の声を聞き、響は瞳を細めた。
「さあね。よくよく嫌われ者だからな、あの男は。いくら鬼頭でもあれだけの鬼を相手に無傷じゃいられないだろう。……もっとも、殺してもいいって伝えてあるから、軽傷ってこともないだろうけど」
 指先が頬をたどる。告げられた言葉にきゅっと唇を噛むと、それを見た響は苦笑をもらした。
「他人を心配してる暇はないだろ? 悪夢も地獄も人間が作り出すものだ。これだけの人数ですむなんて甘いこと考えるなよ」
 ささやきと同時に再度ドアが開く。増える足音とざわめきに総毛立ちながら神無は抗うように響を見つめた。
 名を、繰り返す。
 胸の奥で、呪文のように同じ言葉を何度も何度も。
 室内を埋める空気が大きく揺らめき押し寄せてくるのを感じると、恐怖で狂ったように鳴り響いていた警笛がふっと音を消した。
 次に目を開けたとき、もう一度笑うことができるだろうか。
 もしかしたら、二度と目を開けないほうが幸せなのかもしれない。
 身を守るために自傷を続けてきた少女は唯一この凶夢から逃れる術を知っていた。
 絶望すら恐怖で凍りついていく中、歯節はぶしに弾力のある肉を挟み、彼女はゆっくりと目を閉じた。

Back  Top  Next

携帯用分割リンク Next(66話前編)