目を開けたとき、部屋をつつむ闇が理解できずすぐには動けなかった。異様なほど喉の渇きをおぼえ、緩慢な動作で身を起こしてから、ようやく彼は居間のソファーで横になっていたことを思い出す。
 嫌な夢を見た気がする。せっかく入浴をすませたのに意味がないなとぼんやり考えながら水で喉を潤していると、雪の上に灰色に浮かびあがる校舎が見えた。
 どくりと心臓が跳ねる。訳のわからない動悸に混乱しながら、彼はとっさに時計を振り仰ぐ。
 九時五十分――ほんの数分横になるつもりだったのに、すっかり眠りに落ちていたらしいことを知る。手をのばし、明かりをつけてから彼は室内を見渡した。鬼ヶ里祭でどんなに遅くなっても、いままでの神無なら七時ごろには帰宅して台所に立っていた。
 しかし今日に限って、室内に彼女の姿がない。姿がないどころか気配すら掴むことができず、華鬼はひどく狼狽えて廊下へ出た。明かりさえともっていない彼女の部屋、寝室、風呂場と次々に確認して歩いたが、やはり神無の姿がない。この時間、この雪の中では行ける場所が限られているし、彼女なら用事ができて出かけることになれば何かしら一言断っていくはずだ。
 確か、前にも一度こんなことがあった。
 華鬼は柳眉を寄せて考える。帰宅しても神無の姿がなく、その時はあまり気にもとめなかったが、どうやらその晩、彼女は寝室ではなく私室で眠ったらしかった。ベッドも、毛布さえない寒々とした部屋で、それでも彼女は一晩そこですごしたのだ。
 過去の再現のような状況に少なからず動揺しているうちに、神無が学校から帰った形跡さえないことに気付く。華鬼は玄関に向かって歩き出していた。
 職棟内にはいないのかもしれない。
 ふと、そんなことを考える。意外な話だが、職員宿舎の別棟を切り盛りするもえぎは、ここ最近、妙に機嫌がよくて以前ほどのよそよそしさがなかった。それは華鬼が神無に対する態度を変えたことによって起こった変化なのだが、そうとは気付かない男は、もえぎから連絡がないのは神無が職棟にいないからなのだと判断し、残る可能性を思考する。
 鬼ヶ里で神無がいそうな場所といえば女子寮か学校の二つしかない。防寒具を着ることも忘れて考え込みながら靴を履いている途中、前触れなくドアが開いた。弾かれたように顔をあげると、ドアの奥にひそむ闇に溶け込むようにして、捜していた少女が生気のない顔で立っていた。
 なぜかぎくりとする。
 神無はドアを閉め、靴を脱いで華鬼を見た。
「ご飯は……?」
「まだだ」
 素直に答えると神無は頷いてひどく疲れた顔で台所に歩いて行った。すれ違うときに華鬼の鼻をかすめたのは消毒液のにおいと、どこか甘美とさえ感じる血のにおいだった。
 華鬼は慌てて靴を脱ぎ、神無のあとを追ってキッチンに入る。彼女はすでに冷蔵庫を開け、食材を取り出して調理をはじめていた。普段からめったに口を開かない女だが、今日はそれに輪をかけて静かで、それが妙に気になって華鬼は彼女から目がはなせない。
 つぶさに観察していると、やがて目の前に鍋が置かれた。引っかかるものを感じながらも食事をすませ、いつもどおり寝室にひっこむ。以前なら決してこだわることのなかった神無の動きが気がかりで仕方なく、先刻の惰眠も手伝ってか睡魔はいっこうに訪れる気配がなかった。
 空白の時間に彼女に何があったのか――問いかけたいがどう訊いても神無を傷つけつけてしまいそうで、質問するのが躊躇われる。なにより彼女が気落ちしているのがわかり、言葉をかけるタイミングさえつかめなかった。
 状況が理解できない華鬼は、穏やかなはずのこの場所には似つかわしくない空気にただひたすら困惑して双眸を閉じ息をひそめる。これ以上彼女を追い詰めないようにと無意識にとった行動の意味も理解できずに押し黙っていると、それから一時間ほどすぎたころ、ようやく彼女が寝室へとやってきた。
 薄暗い中、室内灯のあかりだけを頼りに神無がベッドへと近づいてくる。いったん立ちどまり、小さく息を吐き出してもぞもぞと布団の中に入ってきた。そのまま華鬼の腕を持ち上げて自分から抱きつくように身を寄せて、今度はすこし違った意味合いの息をはく。
 ちなみにこの間、華鬼はあまりに予想外の彼女の行動に茫然としていた。以前は確実に彼が彼女を抱き寄せて眠っていたし、実際に彼も自分の体がそう動くことを知っていた。しかし、今日は明らかに違う。彼女が自分の意思で抱きついてきているのだ。
 疑問符を浮かべながらもほとんど条件反射で力を込めると、腕の中の少女は抵抗もなくされるがままになっている。しかも、華鬼の耳に寝息まで届いてくる始末だ。
「……お前、危機感はないのか?」
 過去にさんざん警戒されたことなどすっかり忘れ、華鬼はあっという間に眠りに落ちた少女の顔を覗き込んだ。
 暗いかげの付きまとっていた顔に安らかな表情が浮かんでいる。どうやら眠っているときは嫌なことを考えずにすんでいるらしい――そう気付いてすこしだけ安心する。彼女が沈んでいると家の中まで暗くなった気がして、なんとなく息がつまるようで落ち着かなかった。やはり居心地の悪い家というのは好ましくないと考えて華鬼は瞳を細めた。
 ふと甘い血のにおいがただよってくる。華鬼は神無の首元に顔をよせ、匂いをかいで彼女を見つめる。
 無防備に眠る彼女の頬に手をそえ、起きないことを確認して体をずらし、慎重にベッドから滑り出て居間へと向かう。彼は奥の棚から木箱を手にして寝室へ戻った。
 わずかな明かりをたよりに箱の中身をチェックし、空調を確認してから布団をそっとはぐ。横になっている彼女を仰向けにしてパジャマのボタンをはずしている途中で手をとめ、華鬼は暖房が弱いのかと眉をひそめた。彼女はしっかりとインナーを身につけ防寒にそなえていたのだ。
 もともとの体温差があり、これでも彼女にしてみれば充分に薄着なのだが、そうとは知らない彼は考え込みながらパジャマをずらした。そしてすぐに腕の怪我に目をとめる。
 白く華奢な腕には、まだ血もうまく凝固していない傷が鮮やかに走っていた。一目で刃物による傷だとわかるその痕に一瞬だけ息をのんで、華鬼はもう一度神無の寝顔を確認した。寝顔は幸いにして穏やかだっが、自分が惰眠をむさぼっている間に何かがあり、そして残ったものだろうと直感すると夢の中で感じた焦りが彼の胸の奥で瞬時に広がった。
 傷口にそっと指をのばし、双眸を閉じる。
 一体誰が――そう思ってすぐに閃いたのは、堀川響の名だった。ようやく見つけた安らげる場所をあんな根性ごと性格の捻じ曲がった男に奪われるのはあまりに不愉快だ。沸々と怒りをたぎらせながらも華鬼は救急箱を引き寄せて彼女の腕を消毒し、血のにおいがもれないように頑丈≠ノ治療してパジャマと布団を元通りにしてから箱を定位置に戻す。
「また仕掛けてくるだろうな」
 寝室に向かう途中で窓の外に視線をやって、彼は男子寮を眺めた。
 向こうから仕掛けてこない限りは無視し続けていたが、すでにあの男の行動は鬱陶しいというには度が過ぎている。いずれは決着をつけなければならない相手だと、華鬼自身も身に沁みてわかっていた。
 その時期は目前なのかもしれない。どちらかが沈黙すれば、くだらない嫌がらせもなくなるだろう。
 ふっと息を吐き出し、華鬼は寝室へと向かう。
 ドアをくぐって室内に入り、小さく聞こえてきた寝息に険しかった表情を緩めてそのままベッドに潜り込んだが、やはり冴えた脳はいっこうに眠りを呼び寄せる気配がない。さほど興味はないがテレビでも見て時間を潰そうかともう一度身を起こすと、かたわらの神無がもぞもぞと身じろいで華鬼は慌てて動きをとめた。
 神無を起こしたかと思ってしばらくじっとしていたが、幸い目を開ける兆しはない。
 ほっと吐息をついた華鬼は、腕に髪が触れているのに気付き、見事な黒髪を指で梳く。しなやかでまっすぐな髪は意外なくらいに柔らかくて指通りがよく、ひそかに彼が気に入っているものでもある。サラサラと流れるのを見つめながら、なんとなく彼は彼女の名を口にしていた。
 ――神は、いないという意味の名前。
 事実、そんな都合のいい物がこの世にいるわけがない。誰もがそうとわかっているだろうに、それでも彼女に与えられた名前。
 呼ぶことさえ不愉快だと思っていたはずの、己が花嫁の、名。
「神無」
 幾度目かの静かな呼び声に彼女はようやくわずかな反応をみせるが、まるで幼子がぐずるように彼の胸に顔をうずめて隠れてしまう。
 その仕草が不意をついて可愛らしく華鬼は動きといっしょに思考もとめた。どうやら神無は完全に眠っているわけではなく、けれど覚醒とまではいかない状態で微睡んでいるようだった。このまま素直に寝かせてやろうと、華鬼は神無が起きないように気を遣いながら指にからんだ長い黒髪から静かにそれを抜き取る。
 その直後、身じろいだ彼女はうっすらと瞳を開けた。
「華鬼……?」
 頼りない声で呼ばれると返事をしないわけにはいかないような気がして短く応えた。すると神無の表情が柔らかくなる。
 惹かれるように顔をよせ、不思議そうに見つめてくる彼女に優しく口付ける。これといった拒絶を感じることなく、そして彼女からの拒絶もなく、華鬼はもう一度彼女に柔らかく口付けを贈る。
「華鬼?」
 状況が呑み込めていないのか、華鬼の名を呼びつづける彼女の表情に変化はない。不思議そうな――けれど、どこか幸せそうな笑みがふわりとその顔に広がってゆく。
「……寝ろ」
 さらにもう一度、手触りのいい髪を撫でながら口付けて包み込むように抱きしめる。いったい何が見えているのか、神無はとろとろと目を伏せながらも微笑していた。これ以上眠りをさまたげないようにゆるく抱き寄せ、華鬼も目を閉じる。
 心地よい静寂につつまれた室内には、穏やかな寝息が一つ響いていた。それを子守唄がわりにし、彼もいつしか深い眠りへといざなわれていった。

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