低い空調機の音を耳にしながら寝返りをうち、神無はもぞもぞとシーツをたぐり寄せる。
「お目覚めですか?」
 柔らかな声にはっと目を見開き、半身を起こしてようやく自分がベッドで横になっていたことを知った。間近にはクリーム色のカーテンが間仕切り用のパイプにそって波打っている。見覚えのある光景だと目を瞬くと、カーテン越しに黒い影が動いて軽い音とともにそれが横に引かれた。
「痛いところはありませんか?」
 秀麗な笑顔とともに保健室の住人はそう問いかけてくる。大きく開かれたカーテンから見える雪景色はついさっきまで彼女自身が身を置いていた場所であった。なにが起こったのか理解できずに思考をとめた神無は、すぐさま麗二に向き直った。
 脳裏に一つの光景が閃いて消える。息が触れるほど近い場所に彼の体があったはずだ。その大きな背にむかって無数の黒い物体が落ちて――。
「華鬼は!?」
 神無は悲鳴のように問いかけていた。
 崩れてきた機材は一つや二つではなく、とっさに抱きくるまれたからよく確認できなかったものの、サイズや重さもまちまちだったに違いない。当たり所が悪ければ大怪我を負うような物も含まれていたはずだ。
「大丈夫ですよ」
 血相を変える神無に麗二は瞳をふせて溜め息をつく。
「落ちてきたものの多くは足場用のパイプでした。中には足場用の板もあって、これはちょっとした重量がありあたるとかなりまずい事になりそうでしたが、幸いずれてくれたようで」
 ベッドから身を乗り出した神無は麗二の言葉に安堵して全身の力を抜いた。治療を拒んだということは充分考えられるが、麗二なら無理やりにでも保健室に同行させて処置してくれるはずだと思い至る。ここに華鬼の気配がないなら、ひとまず歩ける状態だということだ。
「神無さんをここに運んだのは華鬼ですよ」
 聞き逃してしまいそうなほどの小声で麗二はそうつぶやき、驚く神無に頷いて見せた。
「あなたを助けてここまで運んだのは華鬼ですよ。私と水羽さんはとっさに動けませんでした。情けないですね」
「そ、そんな事ないです」
 あの状況なら動けなくても不思議はない。事故にあった当人でさえ立ちすくんで逃げることさえできなかったのだ。
 だから。
「嬉しいですか?」
 不意に聞こえてきた問いに神無ははじかれたように顔を上げた。何気なく口を突いたように聞こえたその質問は、真摯な彼の瞳を見た瞬間、言葉以上に深い意味を持つものであることを彼女に伝えてきた。
 神無は唇を噛んだ。
 どうしても素直に頷くことができなかった。しかし、否定することはそれ以上に困難だった。
 繰り返される日々は単調でも、心は少しずつ変化していく。緊張を余儀なくされる関係なのに気付けばその中で穏やかにすごす自分がいた。そして彼もまた、以前とは明らかに違う態度で彼女に接するようになった。
 それが、嬉しくないはずがない。
 もう少しそばにいてもいいのかと、そう問わずにはいられない。
「ごめんなさい」
 きつくシーツを握りしめながら頭を下げると、ふわりと白い指先が彼女の髪を撫でた。決して恨み言など吐かないだろう男は、優しげな笑みをたたえて瞳を伏せる。
「あなたが選んだのですから」
 そうささやいて身をかがめ、見上げる神無の額に口付けを落とす。あからさまに身を硬くした彼女に苦笑を返し、丸イスを引き寄せて腰かけた。
「ただし、引き続き警護にはまわらせていただきます」
 額に手をあて真っ赤になる神無に麗二は断言する。
「これは水羽さんも同意見です。対の鬼と花嫁が決まったなら本来は必要のない措置ですが、あの状態であの男、納得できない顔をしていたんですよ。ええ、人様の目の前でこれ見よがしに格好良く花嫁を守っておきながら、首を思い切りひねりそうなくらい釈然としない顔でね?」
 般若の笑みで麗二が語っている。あの男とは、おそらく華鬼のことだろう。どんな様子だったのか記憶にない神無だが、いつものごとく煮え切らない表情を浮かべていたに違いなく、その姿は容易に想像できた。
 そして、それが麗二の気に障っているらしい。
「最近、いつも……あんな感じなんです」
 最後は尻すぼみになる神無に麗二の柳眉がピクリと持ち上がる。
「いつも、ですか?」
 ほうっと、含むような声音で顎に手をやる。
「予測はいくつか可能ですが、どれが当てはまっても腹が立ちますねぇ。いつもですかそうですか。まさかとは思いますが、彼は人並みはずれて鈍いんですか? 色事にあれほど慣れているにもかかわらず、まさかよりによって、自分のこととなるとまるで役に立たないと?」
「た、高槻先生?」
「ほほう」
「あの」
「いえ、怒ってませんよ? まるで人様には無頓着な彼のことですから、いまさら腹を立てるなんてそんな大人げのない」
 微笑む彼の瞳は、案の定まったく笑っているようには見えない。硬質な声音に突き刺さるような怒りを忍ばせ、彼はついっと顔を背けた。
「ムカつくから教えるのはやめておきましょうか」
 神無には聞こえないように独りごちて、彼は再び笑顔の張り付く顔を神無にむけた。
「用心に越したことはありませんから、出入り業者は全員洗い出すことにしました」
「洗い出す?」
「経歴から犯歴、交友関係すべてを。……どうにもきな臭いのでね」
 麗二の視線が窓の外にむけられる。雪像づくりに使うための足場が崩れ落ちる瞬間、挑発的に笑む響の顔を麗二はその視界にとどめていた。
 偶然ではないと確信した。あの場にいたのが数日前から鬼ヶ里祭の準備のためにやってきたばかりの鬼であるにもかかわらず、その確信は揺らぐことなく彼の胸の奥に根付いていた。
 はたしてどれだけあの鬼の息がかかった者が入り込んでいるか――そう考えるだけで、彼は薄ら寒くなった。必要とあらば笑みさえ浮かべて迷うことなく手を下すだろう男が、自信に満ちた表情のまま守り続けた沈黙を崩し始めた。
 独自の情報網をもってしても彼の周辺が探れないというのも引っかかる。そしてその中に、神無の唯一の親友である土佐塚桃子も含まれていた。
 その事実から、彼女もすでに取り込まれていると判断せざるを得ない。仲間に情報のすべてを開示できないのは、開示できる段階までいたっていないというのが本当のところだった。
 しかし、彼の不安を読み取れない神無は不思議そうに小首を傾げていた。
「先生、私になにか手伝えることは」
「これといってないのですが、あまり単独行動はひかえていただくのが一番助かります。ああ、中途半端にそばにいるより、土佐塚さんにべったり張り付いてるのが意外と安全かもしれませんね」
 考え込みながら伝えられた言葉に、神無はすこし驚いて麗二の顔を凝視した。なにかの意図があるのだろうが、麗二はそれ以上口を閉ざして語ってくれそうにない。
 溜め息とともに校庭を見ると白く染められた空間に奇妙な骨組みが立っていた。瞬きを繰り返して眺めていると、神無の視線に気付いた麗二が小さく苦笑する。
「水羽さんが光晴さんにかけあって、監視塔の設置許可を出してもらったようです。名目上は事故防止ですが、本当は――」
 組み立てられたパイプの塔は校庭にあるどれよりも高く、寒々しい雪景色の中でひどく目立っていた。それを建てた意味をさとり、神無は動揺を隠せずに麗二を見る。
「誰に対しても安全であるようにとの配慮です。例外はありません。これに関しては、執行部、生徒会、双方ともから正式に許可がおりています」
 さらりと伝えて微笑まれ、神無は恐縮して頭を下げる。一般生徒から見ればあれはミスが引き起こした事故だが、関係者からはそうとは判断されない。
 あれは、故意が引き金となる悪意の形。
 指示を出しているのは堀川響だろう。誰もがそれとわかっていながら対処できないのは、彼が巧妙に動いている証拠なのではないかと神無は思う。
 しかし、ここで怯えた顔をすれば、皆に心配をかけることは目に見えていた。
 深く息を吸い込んで、神無はベッドから降りた。視界に見慣れた影が映るのに勇気付けられ、彼女はスリッパをはいて麗二に頭をさげる。
「ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
「今日くらいここでサボってもいいと思いますが。外は寒いですよ?」
「平気です」
 以前ならその申し出をありがたく受け入れていただろうが、神無ははっきりとそう返した。その姿を麗二はどこかまぶしそうに見つめてから深く頷く。
「あなたがそう判断されるのであれば従いましょう。待ってください、光晴さんか水羽さんを呼びますので」
「一人で大丈夫です」
 デスクの上にある携帯ホルダーに置かれた電話を取ろうと立ち上がった麗二に神無はそう伝え、ハンガーにかけてあったコートとマフラーを手にしドアに向かった。
「土佐塚さんが来てくれたから、行きます」
 窓の外には校舎に向かってくる桃子の姿があった。足の速い彼女のことだから、もう靴を履き替えこちらに向かってきているかもしれない。丁寧に頭を下げて保健室をあとにし、神無は精一杯急ぎ足で廊下を移動した。そして、あれだけ派手にものが落下してきたのにどこも痛まないことにひどく驚いた。
 神無の体をすっぽりと包み込んだあの腕が、落下してきた機材から彼女を守ったのだ。いままでの華鬼の行動と麗二の反応を見れば夜の彼が容易に想像がつくのだが、それでも――足が、体が、軽くなっていくような気がした。
 知らず、笑みがこぼれる。
 神無は廊下を渡り先刻目にした桃子の姿を捜した。独りで長くいることが危険であるのを承知している彼女は廊下の真ん中で足をとめる。
「土佐塚さん?」
 保健室に向かって歩いているならとうに会っているはずの場所だ。神無は昇降口に誰もいないことを確認してぐるりとあたりを見渡し、脱ぎ捨ててある靴に目をとめた。
 雪をかぶった革靴は桃子が通学用に使用しているものに間違いない。雪の溶け具合から見て、さほど時間がたっていないのがわかり、神無はしばらく考えるようにそれを見つめてからあたりを見渡した。
 ここから一番近いのは同じ棟である職員室だが、そこは生徒が用もなく好んで向かう場所ではなく、少なくとも桃子が自主的に行ったとは思えなかった。もし呼び出されたとしても、保健室と職員室の距離を考えれば彼女なら神無の様子を確認したあとでむかうに違いない。
 なんとなく引っかかるものを感じながら神無は警戒を強めて歩き出す。左右にのびた通路のうち、保健室に続く道には桃子の姿がなかった。ならば、残されたのはもう一方向しかない。緊張して突き進むと、その途中で職員室とは別の方角から言い争う声が聞こえ、神無は立ち止まって首をひねった。
 声は階上から流れてきている。それが桃子のものであると判断するやいなや、神無は迷わず階段をのぼりはじめた。
「どうせあんたの仕業でしょ!? もし神無になにかあったらどうする気よ!?」
 怒鳴る声に足がとまった。まさか自分の名が出てくるとは思ってもみなかった神無は呼吸さえ忘れて階上を見上げる。誰と話しているのかと疑問を抱いた直後、響の顔が鮮明に思い浮かんだ。
「なんの話だ?」
 低くからかうような口調で予想通りの声が短く問いかける。直後、鋭い音のあとで桃子の声が続いた。
「もううんざり。――近づかないで。ちょっと、なにするのよ!?」
 罵声が厳しく空気を揺らす。さらに何かがぶつかるような鈍い音が聞こえ、神無は慌てて階段をのぼり、階段の踊り場を駆けて残りをあがる。一瞬眩暈がしたのは慢性的な運動不足のせいかもしれないが、彼女はかまわず息を弾ませて廊下へ出た。
「土佐塚さん!」
 男のものとは思えないほど綺麗な手が桃子の喉にかかっている。じりじりと力が入っていくのが目に見えてわかり、神無は戦慄して手をのばした。
「あんたら、人の邪魔するのが趣味なの?」
 桃子の首に手をかけたままくすりと響が笑い、突き飛ばすように彼女の体を神無にむかって押す。よろめく体を受け止めきれず、神無は桃子ごと固い床に尻餅をついた。
「大丈夫?」
 とっさに喉を押さえた桃子を見おろして声をかけると、彼女は神無の顔を驚いたように見つめてから喉を押さえていた手を離した。
 そして、見たことのない顔で奇妙に笑う。
「神無こそ、怪我してない? あいつ――響、足場が落ちてきたときあたしだけかばって」
「朝霧さんには鬼頭と三翼がいるだろ」
 桃子の言葉に響はほんの少しだけ間をあけてそう返した。その表情がどこか満足げに歪んでいるように見え、神無は戦慄して桃子の肩を強く抱き寄せる。
 ひどい違和感がする。何かが引っかかっている。
 桃子は、なにが誰のせいだと言っていたのだろう。そして続いた内容の中には神無自身の名があった。それがなにを意味するのか。
 神無の体は知らずに危険を察知して緊張していくが、心だけはその事実を否定し、バランスを崩した精神の中で違和感だけが急速に増していった。硬直したまま響を見つめて鈍くなる思考を奮い立たせていた神無は、きつく腕をつかまれようやく正気に戻って桃子を見た。
「ごめんね? あたし、コイツがこんなに常識知らずだとは思わなかった」
 唐突な謝罪。真摯としか思えないまっすぐな瞳。
「行こう。響、あんたの顔しばらく見たくない」
 刺々しい言葉以上にきつい目で響を睨みつけ、桃子は立ち上がって神無の手を引っぱった。
「土佐塚さん、首は……?」
「ああ、ふざけてただけ。あいつ変な趣味があって、急にしてくるから」
「趣味?」
 ぬぐえない違和感の合間から問いかける。小さく笑む鬼の顔が視界に入り立ち止まりかけたが、神無は桃子に引きずられるように歩き出した。
 階段を下りる途中、神無を見つめていた響が微笑みながら手をふる。そしてその手を首元まで運び、まるで首を切断するように立てた親指を真横に引いてみせた。
 それは過去に華鬼にも見せた仕草、標的をしぼったことを相手に知らせるための挑発行為である。
 神無の背にざわりと悪寒が駆け抜ける。
 ただの脅しだとわかっているのに逃げ出したいほど不安になって、神無は桃子の手をきつく握りしめていた。

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