『六十一 前編』

 メールで呼び出した男は、彼女の中でおさまりかけていた苛立ちを増大させるほどふてぶてしい態度で教室のドアを開けた。昼間しめつけられた喉にはいまだに違和感が残って神経を逆撫でしつづけ、彼女の怒りはすでに頂点に達している。
 確かに不用意に廊下で大声を出していた自分も悪い、と桃子は己の非を認めていた。いくら響が神無の所在がわかるようになったと言っても、それはあくまで感覚的なものであって確実性には欠ける。あの内容では悟られないだろうが、声高に不満を訴えていたことは桃子の失態だ。計画はできる限り気取られないようにしなければならない。だが、それを誤魔化すのに首を絞めるなんて行き過ぎもいいところだ。
 苛立ちが増していく。キリキリと胃の奥が痛んでくる。すぐに謝罪しても許す気など毛頭なかったが少しはこの痛みも治まるだろう。あれだけやったのだから謝罪するのは当然だとそう思って彼を見た。しかし、こともあろうかこの男は、悪びれる様子もなく鼻歌でも歌いだしかねない表情で彼女の隣に並んだ。
「さすがの三翼も顔色が変わったな。楽しくなりそうだ。朝霧神無に鬼頭の守護がついたことも証明できたし、これで誰も異論を唱えたりしないだろう。欲を言えば、もう少し積極的なほうが好みなんだけどな」
 いつになく饒舌に響が語る。どうやら望む結果を得られたことで機嫌がいいらしい。
 胃の痛みがひどくなる。
 桃子と響は目的を同じくするだけのただの共犯者だ。彼女が彼を都合よく利用しているように、彼も彼女を利用している。ここに相手を気遣う配慮など存在しない。通常は生まれるだろう仲間意識も、桃子がまったく感じないように、おそらく響も感じてはいないだろう。
 そんなことはわかっていたし、もともとそれを望む気はなかった。
 けれど、だからといって物あつかいされるいわれなどない。欲しい情報も得られずいいように利用され、必要がなくなればあっさり捨てるような、そんな屈辱は絶対に御免だった。
「昼間の質問、答えてもらってないんだけど」
 怒りで震えそうになる声を必死でおさえて彼を見ると、彼は怪訝な顔で彼女を見つめ返した。
「神無の上に機材を落としたの」
「ああ、ああでもしないと信用しないだろ?」
「……誰が?」
「鬼頭が邪魔だと思ってるヤツらだよ。女とくれば誰彼かまわず手を出す男が鬼の花嫁には目もくれない。しかも、自分の花嫁にたいしても婚礼であの扱いだ――誰だって気紛れに印を刻んだと疑う。当然、花嫁が弱味だって言っても誰も信用しない。手を貸すだけの価値があることをアピールするにはあれくらい必要だ」
「……一歩間違えれば大惨事だったじゃない。神無が大怪我して鬼ヶ里祭が中止になれば計画が台無しでしょ? それは考えなかった?」
「そんなこと」
 桃子の苛立ちに気付かない響は、小さく肩を揺らした。
「どうでもいい」
 人形のように整った顔に嘲笑が浮かんだ直後、適度にあたためられた空気が鋭く震えた。彼の視界が大きく揺れたあと、彼女の手がじん、と痺れる。
 自分が助けられた理由など問うまでもない。そばにいたから手を引いた、きっとその程度のものなのだ。あの時、惨事に巻き込まれていたのが神無ではなく桃子であったとしても、この男はこうやって薄ら笑いを浮かべているに違いない。そう思うと怒りが込み上げてきて、目の前にいる男が何であるのかすら忘れていた。
 痺れる手をきつく握り、桃子は響を睨みつけた。響は一瞬呆けたように自分の頬に手をやって、それから白くなるほど手を握りしめた桃子を見つめ、ようやく現状を把握して瞳を細める。
 笑みの形を作る瞳はあたたかさの欠片もない、むしろ凍てつくような鮮やかな黄金色。怒りを隠そうともせず、彼は小さく嘲笑をもらす。
「オレに平手とはいい度胸だな」
「あんた何様のつもりよ」
 苛々する。すべての者が自分にひれ伏して当然とでも言いたげな、その態度が癪に障って神経を逆撫でする。やっと忘れられると思っていた過去を引きずり出されるようで、少しずつ水を得てきたはずの心が瞬時にささくれ立っていく。
「……自分の立場は理解してるか?」
「あんたの共犯者。それ以上に何かある?」
 桃子も怒りを隠さず睨みつけ、響からむけられる視線をまっすぐに受け止めた。空気さえ凍てつくような張り詰めた空間で、低く長く、空調機の音だけが世界を満たす。さきに動いたのは、響の方だった。
「まあ、いい」
 くすりと笑う。伏せた瞳は黒へと転じ、彼は右手を彼女に差し出した。
「認めてやろう、大した女だ」
 それはようやく響が桃子を正式な仲間として迎え入れた証だったが、彼女はその手を邪険にはらってなおも彼を睨みつけた。
「あんた、本当にムカつく。何度も言わせないでよ、情報は――」
「共有する。鬼ヶ里の中と外、鬼頭の敵は意外と多い。クズでも集まればそれなりの戦力になる。昼間のあれを見てどれだけの鬼が名乗りをあげるか。……桃子、これから楽しくなるぞ」
 はらわれた手を気にとめることなく窓ガラスにのばし、彼は低く笑い声をあげた。あざけりを含む笑いは同室した彼女以外に聞くものはいない。
 それはひどく歪な笑みであった。

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