メールで呼び出した男は、彼女の中でおさまりかけていた苛立ちを増大させるほどふてぶてしい態度で教室のドアを開けた。昼間しめつけられた喉にはいまだに違和感が残って神経を逆撫でしつづけ、彼女の怒りはすでに頂点に達している。
 確かに不用意に廊下で大声を出していた自分も悪い、と桃子は己の非を認めていた。いくら響が神無の所在がわかるようになったと言っても、それはあくまで感覚的なものであって確実性には欠ける。あの内容では悟られないだろうが、声高に不満を訴えていたことは桃子の失態だ。計画はできる限り気取られないようにしなければならない。だが、それを誤魔化すのに首を絞めるなんて行き過ぎもいいところだ。
 苛立ちが増していく。キリキリと胃の奥が痛んでくる。すぐに謝罪しても許す気など毛頭なかったが少しはこの痛みも治まるだろう。あれだけやったのだから謝罪するのは当然だとそう思って彼を見た。しかし、こともあろうかこの男は、悪びれる様子もなく鼻歌でも歌いだしかねない表情で彼女の隣に並んだ。
「さすがの三翼も顔色が変わったな。楽しくなりそうだ。朝霧神無に鬼頭の守護がついたことも証明できたし、これで誰も異論を唱えたりしないだろう。欲を言えば、もう少し積極的なほうが好みなんだけどな」
 いつになく饒舌に響が語る。どうやら望む結果を得られたことで機嫌がいいらしい。
 胃の痛みがひどくなる。
 桃子と響は目的を同じくするだけのただの共犯者だ。彼女が彼を都合よく利用しているように、彼も彼女を利用している。ここに相手を気遣う配慮など存在しない。通常は生まれるだろう仲間意識も、桃子がまったく感じないように、おそらく響も感じてはいないだろう。
 そんなことはわかっていたし、もともとそれを望む気はなかった。
 けれど、だからといって物あつかいされるいわれなどない。欲しい情報も得られずいいように利用され、必要がなくなればあっさり捨てるような、そんな屈辱は絶対に御免だった。
「昼間の質問、答えてもらってないんだけど」
 怒りで震えそうになる声を必死でおさえて彼を見ると、彼は怪訝な顔で彼女を見つめ返した。
「神無の上に機材を落としたの」
「ああ、ああでもしないと信用しないだろ?」
「……誰が?」
「鬼頭が邪魔だと思ってるヤツらだよ。女とくれば誰彼かまわず手を出す男が鬼の花嫁には目もくれない。しかも、自分の花嫁にたいしても婚礼であの扱いだ――誰だって気紛れに印を刻んだと疑う。当然、花嫁が弱味だって言っても誰も信用しない。手を貸すだけの価値があることをアピールするにはあれくらい必要だ」
「……一歩間違えれば大惨事だったじゃない。神無が大怪我して鬼ヶ里祭が中止になれば計画が台無しでしょ? それは考えなかった?」
「そんなこと」
 桃子の苛立ちに気付かない響は、小さく肩を揺らした。
「どうでもいい」
 人形のように整った顔に嘲笑が浮かんだ直後、適度にあたためられた空気が鋭く震えた。彼の視界が大きく揺れたあと、彼女の手がじん、と痺れる。
 自分が助けられた理由など問うまでもない。そばにいたから手を引いた、きっとその程度のものなのだ。あの時、惨事に巻き込まれていたのが神無ではなく桃子であったとしても、この男はこうやって薄ら笑いを浮かべているに違いない。そう思うと怒りが込み上げてきて、目の前にいる男が何であるのかすら忘れていた。
 痺れる手をきつく握り、桃子は響を睨みつけた。響は一瞬呆けたように自分の頬に手をやって、それから白くなるほど手を握りしめた桃子を見つめ、ようやく現状を把握して瞳を細める。
 笑みの形を作る瞳はあたたかさの欠片もない、むしろ凍てつくような鮮やかな黄金色。怒りを隠そうともせず、彼は小さく嘲笑をもらす。
「オレに平手とはいい度胸だな」
「あんた何様のつもりよ」
 苛々する。すべての者が自分にひれ伏して当然とでも言いたげな、その態度が癪に障って神経を逆撫でする。やっと忘れられると思っていた過去を引きずり出されるようで、少しずつ水を得てきたはずの心が瞬時にささくれ立っていく。
「……自分の立場は理解してるか?」
「あんたの共犯者。それ以上に何かある?」
 桃子も怒りを隠さず睨みつけ、響からむけられる視線をまっすぐに受け止めた。空気さえ凍てつくような張り詰めた空間で、低く長く、空調機の音だけが世界を満たす。さきに動いたのは、響の方だった。
「まあ、いい」
 くすりと笑う。伏せた瞳は黒へと転じ、彼は右手を彼女に差し出した。
「認めてやろう、大した女だ」
 それはようやく響が桃子を正式な仲間として迎え入れた証だったが、彼女はその手を邪険にはらってなおも彼を睨みつけた。
「あんた、本当にムカつく。何度も言わせないでよ、情報は――」
「共有する。鬼ヶ里の中と外、鬼頭の敵は意外と多い。クズでも集まればそれなりの戦力になる。昼間のあれを見てどれだけの鬼が名乗りをあげるか。……桃子、これから楽しくなるぞ」
 はらわれた手を気にとめることなく窓ガラスにのばし、彼は低く笑い声をあげた。あざけりを含む笑いは同室した彼女以外に聞くものはいない。
 それはひどく歪な笑みであった。
 そして、同時刻、職員宿舎別棟一階。
 年寄り臭く背を丸めて茶をすする男が一人、溜め息とともに雪景色を眺めていた。
「おや、まだ生徒が残ってるんですかねぇ」
 校舎の二階、一室だけ明かりが灯っている。人影がわずかに動いたようにも見え、熱心な生徒がいるものだと彼は感心してもう一度息をついた。そんな彼の前に小さな音を立てて和菓子の乗った皿が置かれる。彼が顔をあげると、よっこいしょ、というジジ臭い掛け声とともに向かいのソファーに光晴が腰をおろした。
「光晴、茶菓子は? お茶だけでいいの?」
「うーん。夜やしなぁ、もう寝るだけやん」
「いらない?」
「いる」
「ボクも食べよーっと。お餅のがいいな」
 システムキッチンの向こうから元気な声とともにお盆を持った水羽が飛び出し、光晴の隣に腰をおろすとすぐに和菓子を頬張り始めた。
「で、さ。監視塔の見張りってどうするの?」
「それがなかなか決まらん。執行部と生徒会だけじゃとてもまわらんのはわかってるんやけど。……あっちもなんか勘付いて、いろいろ提案してくれてるんやけどなぁ」
「生徒会? 協力してくれるの?」
「基本的に鬼ヶ里祭には反対やけど、動き始めたもんはしゃあないって感じやな。目の前で怪我人出されるのは面白くないし、須澤副会長がああいうタイプやん?」
「……どういうタイプ」
「面倒ごとは嫌いでもやるからには全力投球ってタイプ。外見しとやかやけど、中身は男気のあるお嬢様や。監視塔の人選はあっちに任せた方が無難かもしれん」
「ふぅん」
 ずるずると茶をすする水羽の横で光晴も湯飲みを傾け、ちらりと黙りこくった麗二を見る。仕事が終わってからずっと上の空で溜め息を繰り返す憂い顔の保健医は、食事の最中も、いまでさえ心ここにあらずといった様子でぼんやりとしている。
 さすがに光晴も心配になってきて口を開いた。しかし、言葉を発する前に腕を引っぱられて怪訝な顔で隣を見る。
「なんや?」
「そっとしておいてあげて」
「……なんでや」
 んー、と中途半端な返答をしつつ、水羽は光晴用に持ってきた饅頭に手をのばして吟味し、口に運んだ。一口かじって、こっちもいけるなと頷いている。
「なんやねん」
「……昼間のあれを見ちゃったらねぇ」
「昼間の?」
「華鬼がね、神無を助けたの」
「……校内中噂になっとった。……ホンマか?」
「颯爽と助けて、颯爽と保健室まで運んだの?」
「……ホンマなんか?」
「うん。あれでなんで華鬼に自覚がないのか……華鬼らしいっていえば、らしいんだけど」
 会話の合間に饅頭をかじり茶をすすり、水羽はぺろりと指を舐める。それからふたたび湯飲みに残った茶を飲み干して溜め息をこぼした。
「別に、神無ちゃんが選んだわけやないやろ。華鬼だってどっちつかずじゃ」
「そうなんだけどね」
「……水羽は華鬼よりやな」
「……ん。ボクは神無が幸せになればそれでいいかなって。……神無を守れるのはもともと華鬼だけだと思ってたし」
「初めから負け戦かい」
「ボクを選んでくれたら誰よりも幸せにするよ? でも、これってそういう問題じゃないでしょ。うまく言えないけどさ」
 湯飲みに視線を落としてつぶやいた年若い鬼を見つめ、光晴はソファーに深く身を沈める。
「難儀やなぁ」
 状況を目撃したわけではない光晴は他の二人よりも余裕の表情のまま両手で湯飲みを包み込んで手のひらでくるりと回している。
「……私は、完全に玉砕でした」
 沈黙の中でそんな言葉を吐き出して、麗二は一息に湯飲みをあおった。そして立ち上がり、
「もえぎさんに喝を入れてもらってきます」
 と残すなり、足早に部屋を出ていった。残された光晴と水羽は閉じたドアを唖然と眺め、同時に首を傾げる。
「喝って?」
「や、その前に玉砕って」
 いつになく落ち込んだ男のあとを追いかけ問い詰めるわけにもいかず、二人は茶を淹れなおしてふたたびソファーに腰をおろした。視線はいつの間にかシミ一つない天井にそそがれていた。
 さらに同時刻、職員宿舎――四階。
 なぜかいつもより帰りの遅かった華鬼に違和感を抱きながら、先に入浴をすませてあった神無はせっせと皿を洗っては食器乾燥機の中に丁寧に並べていた。きちんと洗浄もできる代物だが、なんとなく手洗いの方が落ち着くという理由から、彼女は食事のたびにシンクの前に立つのが習慣となっている。
 相変わらず静かな食卓を思い出し、やっぱりいつもの通りなのかと少し寂しく思って肩を落とす。過剰な期待をしているわけではないが、昼間の行動を考えれば多少の変化があってもよさそうなものなのだが、やはり彼はこんな時まで期待を裏切ってはくれないらしい。
 心持ちがっかりとしながら最後の食器を乾燥機の中に入れ、スイッチを入れて時計を確認した。いつもの華鬼ならベッドに入っている時間である。規則正しい生活というわけではないが、彼の就寝は意外と早い。つられて彼女も早くなるから、なんとなく眠気を覚えてあくびをかみ殺した。
 華鬼が風呂から出て眠りにつくまで時間を潰さなければならない。課題はすでにすんでいたのでこれといってやることもなく、手持ち無沙汰で外を眺めていると、不意に昼間、桃子と交わした言葉が蘇った。
 あの秀麗で残酷な鬼は、趣味で、首を絞めるらしい。
 ひやりと背筋が冷えた。なにかいろいろ引っかかっているのだが、いまは桃子から聞いた性癖の方が気になる。桃子も同じ鬼の花嫁なら、響が普通の男でないことくらいは知っているだろう。首を軽く絞めるという行為が、じゃれあう程度ですまされないことも、果たして知っているのだろうか。
 幸い、桃子は別れ際に拒絶の言葉を口にしていた。非情だと思われるだろうが、そのまま別れて欲しいと神無は願っている。
 何を考え響がああしてたびたび桃子に接触しているのか、その理由を考えるたびに心が重くなっていく。ひどいことはしないで欲しい。いつもいつも、とても親切にしてくれたたった一人の友達――どこに行っても孤立するのが当たり前だとあきらめてきた彼女に言葉をかけてくる、彼女だけが友人と呼べる相手なのだ。
 振り回されてばかりいた神無は、最近になってようやく自分から桃子のそばに行くようになった。神無は本当に懐かないネコだねと、そう言って笑った桃子の顔がどこか嬉しそうだったのは記憶に新しい。
 迷惑はかけたくないのだ。彼女が泣く姿など、決して見たくない。そのためにはどうすればいいか。つらつらと思考をめぐらせていると小さく水音が聞こえてきた。
 神無は廊下へと続くドアを見て、新しいタオルを用意し忘れていたことに気付く。華鬼が入ったあと、パジャマといっしょにタオルを持って脱衣所に行く癖がついている。今日は順番が狂ってしまっていたのだ。
 慌ててキッチンを飛び出してタオルを手に脱衣所に向かい、彼がいまだ入浴中なのを確認して安堵しながらこっそりとすりガラスを開けた。タオルを置いたらすぐに退室しようと中を覗くと、脱衣カゴの中に見慣れた白いシャツと、見慣れぬ赤い色彩があるのに気付き、神無は思わず動きをとめた。
 赤黒くなってごわついたシャツにそっと触れて慌てて手を引いた。
 昼間、機材が崩れた時、神無の視界は華鬼の体で一瞬にして閉ざされた。どれだけの量のどんな物が落ちてきたかなど、気を失っていた彼女が知るはずもない。
 だが、彼がけっして人前で膝を折ることをしない男だと知っていた。どんなに傷ついてもそれを悟られまいとする男であることは、知っていた。
 神無は唇をかみ、ドアを閉めて歩き始める。まず寝室のクローゼットを開けて中を確認し、さらにいくつかの部屋、押入れと見て回り、最後にたどり着いた居間のクローゼットの奥にようやく目的のものを見つけて安堵する。黒い文字で救急箱と書かれた木の箱を両手でしっかりと持ちながら棚からおろし、部屋の中央に移動して蓋をあけるとかすかな薬品のにおいが広がった。
 救急箱の中に消毒液と綿球、ピンセット、ガーゼ、テーピングテープと包帯があることを確認していると遠くでドアが開く音が聞こえた。
 神無が慌てて立ち上がり廊下に出ると、彼は濡れた髪を乱暴に拭きながら寝室に向かう途中だった。点々と散った血痕から考えれば、彼の怪我は一箇所や二箇所ではないはずだ。まるで平然としているが痛覚がある以上は痛くないはずがない。
 神無は華鬼に駆け寄って驚く彼の腕を取ってそのまま居間まで連行し、部屋の中央に座布団を用意して座らせる。そして彼女は、消毒液の蓋をはずしたあとピンセットで綿球をつまみ、真剣な顔で彼の前に陣取った。
 いつでも準備万端とでも言いたげにかまえた神無の意図に気付き、瞬いた目を彼女に向けてしばらく動きをとめた華鬼は一瞬だけ立ち上がろうと腰を浮かせたが、逡巡した後、あきらめたようにパジャマのボタンをはずした。
 彼女を守るために提供された胸には過去の傷痕はあれども目新しい怪我はない。服についた血痕を思い出しながら背後にまわった彼女は彼の背を見て息をのんだ。
 ――痛くないはずはないのだ。どんなに平然とかまえていても、傷つけば当然のようにその体は痛みを訴え悲鳴をあげる。だが、他者に頼ることを知らない彼は、苦痛も悲しみも自分の中に押し込めて今まで生きてきた。
 神無は痛々しい肩に手をのばす。至るところに散った青アザとすり傷、そして、深く浅く肉をえぐられた傷痕――彼の帰宅が遅かったのは、傷を誰にも悟られないよう人目を避けたからではないのか。血のにじむ傷痕に震える手で治療をほどこしながら、泣きたいような気持ちにたえきれずきつく唇を噛んだ。
 大小さまざまな傷の手当をし、結局、背中全体に広がる怪我を覆うように包帯を巻いた。骨に異常はないのだろうかと不安にもなったが、さすがにそんな大怪我なら神無を保健室に運ぶのは無理に違いない。とりあえず外傷だけなのだろうと納得し、背中がああなのだから頭も打っているのではないかと考え、乾きはじめた黒髪を見つめた。
 本人に怪我の有無を訊いても返答はないだろう。彼女は少し考え、そろそろと手をのばして彼の背後から黒髪に触れた。一瞬だけ華鬼が身を硬くする。どんな表情をしているのか興味がわいたものの、ひとまず怪我を確認しようと身を乗り出し、湯上りのためいつもより柔らかい髪を丹念に引っ掻き回してほっと吐息をついた。
 頭部に怪我はないらしい。安心していると今度はズボンに目がいった。全身に落ちてきたのなら、足だって怪我をしているはずだ。
 ほとんど条件反射で手をのばし、驚倒する彼に気付かずズボンを脱ぐように促す。ふたたび固まった彼はズボンから手を離す兆しのない神無にあきらめたのか、不承不承の態ではあったが従ってくれた。背中ほどではないが足にもやはり怪我をおっていて、神無は一通り治療がすむと救急箱の中に道具を丁寧にしまい、満足げに頷いて華鬼の目の前に正座する。
 そして訪れる奇妙な沈黙。
 この時まで、神無は彼が文字通り「パンツ一丁」になるまで剥かれていることに気付かなかった。治療のために服を脱がせれば半裸になることなどわかりそうなものなのに、痛々しい傷に専念しすぎて、彼の状態など気にも留めていなかったのだ。
 思い切り抜けきっていた彼女はようやく状況を把握し、立ち上がった彼に身をこわばらせる。衣擦れの音に緊張を高めていると、ぴたりと音がやんだ。
 奇妙な沈黙がふたたび訪れる。しばらくそのまま床の一点を見つめていた神無は、あまりに華鬼が静かなのでそろそろと視線をあげた。
 一瞬、心臓が大きく跳ねた。
 神無が疑問に思う以上に不思議そうな瞳がまっすぐ彼女にそそがれていた。頬が急に熱くなって、視線を逸らすことさえ忘れて見つめ返す。
 先に華鬼がふっと視線をドアへと移動させる。それから神無に戻し、
「寝るぞ」
 飄飄とそんな言葉をかけてきた。
 熟睡中の華鬼が安全だと思い込んでいる神無は彼が眠ってからしかベッドに入らない。すでに習慣と化した一連の行動に小さな変化をもたらす言葉を耳にし、彼女はとっさにどう反応していいのかわからず、完全に思考をとめて彼を凝視していた。
 返答がないのをどう思ったのか、彼は小さく息を吐き出してドアに向かう。なんとなくバツが悪そうな顔をしているのは見間違いだったのか、願望だったのか――。
 結局彼女は、一時間ほど悶々としながらそこで正座を続けていた。

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