『 小 天 狗 の 森 』


 むかしむかし、そのまた昔――その森には、いたずら好きの小天狗が住みついておりました。
 ――その、名を。


「翔陽! 待ちなさい、しょうようー!!」
「へへーんだ。捕まえられるもんなら捕まえてみろってんだ! じゃーな、雪!」
 山村の屋根に次々と飛びうつる姿は天狗というより猿である。翔陽は山伏姿である以外、自らが天狗と名乗っているだけで怪しさの欠片もない、どこにでもいる元気で泥だらけの子供だった。
 大声をはりあげる雪を一瞥し、ぺろりと舌を出して翔陽は羽団扇はうちわを手にして民家の屋根に仁王立ちした。ちいさな体をめいいっぱいのけぞらせ、せいやとかけ声をかけて羽団扇をふりおろす。
 警戒した雪はとっさに体をひねるようにして衝撃にそなえたが、翔陽の大げさな動作に反し、彼女の元にはそよ風さえ届かなかった。やはりこけおどしかと安堵すると同時に、だまされたことに腹を立てて雪は真っ赤になり拳を振り回した。
「翔陽! いい加減にしなさい!」
 しまったと漏らした翔陽は身をひる返して屋根の向こうに消えた。天狗は神通力があり知識が豊富な山を守る神だと言われているが、翔陽があてはまるとしたら、迷惑なことに身軽でいたずら好きな所のみである。
 雪は屋根をしばらく睨んだあと、溜め息をついて歩き出した。川に戻って洗濯のつづきをし、ついでに桶に水をくんで古い茅葺かやぶき屋根の家に歩いていく。
「ただいま」
 川で洗ったばかりの着物を庭先に干し、一息ついてから木戸を開けて中にはいると、縫い物をしていた母親が雪に気づいて顔をあげた。
「お帰り、お雪。芋をふかしたから食べな」
 母のにこやかな言葉に頷いてちゃぶ台を見たが、そこには汚れた皿がひとつ、ちょこんと乗っているだけだった。
「おっかあ、どこ?」
「どこって、そこのちゃぶ台に……あら、おかしいねぇ」
 母は細い目をさらに細めて首を傾げた。その仕草で雪は直感して窓を見た。
「翔陽!」
 怒鳴ると、うひゃ、と聞き慣れた声が響いて物が崩れる音がつづいた。いたずら好きの小天狗は、時に台所から物を失敬することがある。今度こそ捕まえようと腕まくりして歩き出すと、手にかけた木戸は外から開き、驚いた顔の父親が立っていた。
「どうした? 翔陽が来てたようだが」
「翔陽は!?」
「森に逃げていった」
 首をひねって森を確認しながら父が告げるのを見て雪は悲痛な声をあげた。この山村は盆地にあり、四方に広がる広大な森は翔陽にとって庭のような物だ。一度入ったら小柄ですばしっこい少年を見つけることは至難になる。
「もう、おっとうとおっかあが変なこと吹き込むのが悪いんだ!」
 雪はむくれて身を反転させ、母の隣に腰かけた。翔陽はこの家で育った子供だが雪とは血が繋がらない。
「変なこと?」
「翔陽に、お前は天狗だって嘘ついて育てたじゃないか」
「何言ってる、翔陽は立派な天狗だ。空から降ってきた石に乗って来たんだ。偉い旅のお人が、海の向こうじゃ天狗は流れ星に乗ってやってきて、松の木をねぐらにするって教えてくれた」
「そうだよ、お雪。村の大松は翔陽が来てからねぐらのコブができた。森の中にある翔陽の気に入った大松だって、あの子のねぐらじゃねぇか。今に神通力が宿って森の守り神になってくれる」
 真剣な顔で言いつのる両親に雪は肩を落とした。雪が聞き知る天狗話とはかけ離れているため、彼女には大昔にこの村を訪れたという「偉い旅の人」というのがどうにも信用できなかったのだ。しかし彼女の両親は翔陽が天狗であると思って疑わず、呆れる村人にもそれを幾度となく伝えて歩いている。
 これでは翔陽がおかしな行動をとっても責められない。
 頑として考えを変えない両親を説き伏せる気にもならず、雪は山になっている色あせた着物に手を伸ばして針を握った。おぼつかないながらも母をまねて破れた服を縫いはじめると、
「雪、そんなじゃいつまでたっても嫁にもらってやれねーぞ」
 窓からひょこりと顔をのぞかせ、森に入っていったはずの翔陽が真剣な顔で意見してきた。
「翔陽!」
「早くうまくなれよ、首がもげる」
 言うだけ言って姿を消した翔陽を見て、あろう事か雪の両親は顔を見合わせて笑っている。しかも、嫁のもらい手が決まってよかったなとまで言ってくる始末だ。
 雪は唇を尖らせて乱暴に着物を広げ、ふたたびゆっくりと指を動かした。そんな娘の姿を父は苦笑して見つめ、ひとつ頷いてからくわをしょって歩き出した。
「天狗松の畑に行ってくる。あとで昼メシ持ってきてくれ」
「あいよ」
 母が頷くと、父は後ろ手に手を振って家を出て行った。
 この天狗松というのが、大きなごつごつとした岩を従えるようにして村の中心にでんと根をおろした大松で、両親が言うところの翔陽のねぐらにあたるコブ持ち松である。松も岩も、雪のじい様のじい様の、そのまたじい様の代からずっとこの村にあるという由緒正しき古株だ。そこに、ある夜、星の燃えかすが落ちたというのだ。畑を心配して家を飛び出した父は、生まれたばかりの赤子を手に興奮気味に帰ってきた。
 子は翔陽と名付けられ、天狗と言われて育てられた。修験者である山伏の服やお気に入りの羽団扇、めったに持ち歩かない錫杖しゃくじょうは、雪の両親が苦労して手に入れた品々である。
 雪は縫い物をする手を止め小さく息をついた。
 天狗松の下に広がる畑を父親はとくに大切にし、精魂込めて世話をしている。彼女にはそんな父親の考えがまったくわからなかった。
 しばらく考えるように外を眺め、雪はもう一度溜め息をついて縫い物を再開した。


 昼近くになって、雪は母に頼まれてにぎりめしと竹筒に入った水を手に天狗松へと向かった。彼女の家は村の中心部からやや離れた位置にあり、わき水をくむには適しているが、それ以外の利点がないような場所に建っている。家の前には田園が広がり、しばらく行くと畑が広がる。そこは天狗と名乗る子供がいる以外、なんの変哲もないのどかな村である。
 そんなのどかな村のあぜ道を歩いている途中、彼女は森の中から響いてくる騒がしい声を耳にして首を傾げながら立ち止まった。猟でも終えたかのように興奮した声が近づいてくるのが不思議で、雪はじっと声のする方向を見て、あっと驚きの声をあげた。
 森から姿を現した男たちは野袴をはき、背割り羽織に柄袋を腰にぶらさげ編み笠を目深にかぶった、旅の武士といった風体だった。
 はじめて見るその姿に声をなくして立ちすくんでいると、男たちは雪をちらりと見て編み笠に嫌な笑みを隠し、足早に前を通り過ぎていった。その方向を目で追って雪は狼狽える。あぜ道をまっすぐ進めば村の中心、天狗松のある場所にたどり着くのだ。
 動悸を押し殺して足音を忍ばせながら武士のあとを追い、雪は天狗松の下に見知った村人と父の姿、そして先刻の武士たちを見つけて息をのんだ。
「けど、お侍さま」
 村長である男が懇願すると、編み笠を指で押し上げて武士の一人が彼を睨んだ。鋭い眼光に村長がたじろぐと、武士は唇をゆがめて大仰に口を開いた。
「この山村は長く幕府の目を逃れ、年貢を払っておらん。検地は後日行い、村高に応じた物を納めてもらう」
 ざわめく村人をひと睨みし、武士はこれ見よがしに柄袋の上から中に納められた刀を撫でた。口答えすれば斬り捨てるのが彼らだ。そう知っている村長はぐっと息をつめた。
「十年分ですむよう、口添えをしておいてやろう」
「十年……!?」
 顔色を変える村人に武士たちは冷ややかな目を向けた。
「それでは不満か? もっと年貢を払いたいのか」
 年貢がどれほどになるか、雪には想像もつかなかった。しかし、大雨が降れば水田はおろか畑まで水没してしまうような土地には多くの蓄えなどなく、今の生活が限界であることは子供の彼女でも知っていた。その上で年貢の徴収など――しかも、十年分の徴収など、どう考えても無茶な話だ。
 だが、村長は言葉を失ったように口を開閉させるだけで、抗議することなく背を向ける武士を見送った。


「十年分なんて、そんな蓄えあるもんか」
 父は村の会合から帰るなりそう怒鳴って畳の上に腰を下ろし、ちゃぶ台に拳をあてて低いうなり声をあげる。温厚な父が声を荒げたのを聞いて雪は体をこわばらせた。
「あんた……」
「村の外れに空き家があるだろ? 侍たちはそこにいる。米がなければ買納しろと言ってきた」
「買納?」
「米を買って年貢を納めるんだ」
 母が絶句した。村でとれる食料はわずかな米と野菜のほか、森で摘んだ山菜や木の実くらいしかなく、とても米を買えるような金は集まらない。
「もう一回、お侍様に頼んで……」
「無駄だ。与吉が直談判に行って斬られた」
 苦々しく吐き捨てると、母は父の顔を見つめながら口を押さえ震え上がった。鋭い眼光の男たちは刀を抜くことに躊躇いがないのだ。
 雪はきゅっと唇を噛んで戸口に向かった。
「与吉さん、なんか欲しいもんないか訊いてくる」
「ああ、そうしてやってくれ。与吉も一人じゃ寂しかろう。気をつけてな」
 頷く父の声を背に、雪は家を飛び出して与吉の家とは逆方向に走り出した。あぜ道を駆け抜け、畑を突っ切り、雪は天狗松を通り過ぎて武士たちがいるという小屋に向かった。与吉はただ、無理な物を無理だと言葉にし、自分の考えを素直に伝えたに違いない。武士は己の優位な立場を鼻にかけ、真面目な性格だと誰もが認める優しい青年に刀を振り上げたのだ。
 あまりにも不条理だと、雪にはそう思えてならなかった。
 武士に与えられた小屋からは明かりが漏れ、笑い声が絶え間なく聞こえてきた。雪は小屋にたどり着くなり拳を振り上げ、乱暴に木戸を叩いた。
「なんだ? おい、気をつけろよ」
 笑い声が途絶えると大仰な声がして、木戸ががたがたと音を立てる。荒い息をついた雪は大きく息を吸い込んできつく戸口を睨み――そして、腹部に圧迫感を覚えたと同時、強烈な風に巻かれて思わず目を閉じた。
「馬鹿、なにやってるんだ」
 短い叱責と浮遊感に目を開けると、そこには翔陽の呆れ顔があった。呆然とする雪に彼は視線だけを動かして武士のいる小屋を見た。
 つられて視線を投げ、雪はあっと声をあげてあたりを見渡し、自分が少年に抱きかかえられたまま空から降ってきたという言い伝えのある岩の上にいることに気づく。上空を見ると、天狗松が大きく枝を広げて悠然とかまえていた。
 刀を手にした武士があたりを見渡し木戸を閉めている。
「どうして……私、侍の家に」
「刀を平気で抜くような程度の低い奴に一人で会いにいくな。斬るぞ、ああいう手合いは」
「だって……!」
「ちょっと留守にすりゃこうなんだから。まあだいたいわかるけどさ」
 ふーっと息を吐き、翔陽は雪をおろすと岩の上にあぐらをかいた。
「話し合いはここの前でやれよ。大丈夫、俺様に任せときな」
 そうして、自信満々な笑顔とともに翔陽は天狗松の真ん前を指さしてそう告げた。


 翌日、翔陽の指示があった通り、村人は神頼みのように天狗松の前で武士と話し合いの場を設けた。戦戦恐恐とする村人に対し、武士たちは自信に満ちた表情で刀をちらつかせている。
 これでは話し合いをするまでもなく結論が見えてしまう。
 顛末を見守ろうと物陰に隠れていた雪は、どうにも歯がゆくて地団駄を踏んだ。確かに与吉のような怪我を負いたくないというのが本心だろう。しかしこのままではとても年貢が払えるとは思えない。どうしても年貢を払わなければならないなら、せめてこの村の生活を見てから決めてもらうべきだと、雪は強く思う。彼らに決められないのなら、決めてくれる役人に来てもらわなければ話にならない。
 だが、萎縮した村人たちは口を開けずに互いの顔色をうかがってばかりだ。
 武士の一人がせせら笑って黒い岩に腰かける。それが翔陽の大切にする物だと知っている村人は少しだけざわめいた。
「年貢は十年分だ。どこの村でもちゃんと納められてる」
 小馬鹿にしたような口調に雪が表情を険しくした。しかし、と口を開いたのは、村長ではなく雪の父親だった。
「ごらんの通り、この村はとても貧しくて」
「いままで楽してきたんだろう」
「楽なものか。精一杯働いて、やっと飯が食えるような生活で」
 訴える父に、武士は刀に手をかけた。
「この村は、口の利き方も知らんクズばかりだな」
 父を見すえて刀を抜く武士に戦慄し、雪はとっさに物陰から飛び出し父に向かって駆けだした。しかし、不意に息苦しさを感じて大きくよろめく。上体を崩した雪の目に後衿をつかんだ武士の姿が飛び込んできた。
「この娘は売れそうじゃないか」
 抑揚のない言葉にぞっとした。たとえ貧しくても助け合って生きてきた村人たちは、身売りをしたことなど一度もない。そんな中で、彼らは金のために子を売れと言うのだ。
「やめてくれ、その子だけは」
 父の悲痛な声に武士が失笑する――その直後。
「下郎はどこまでいっても下郎か」
 子供の声が、どこからともなく呆れたように響いた。武士は父に向けていた視線を外し、無礼な言葉を投げた張本人を探して鋭く辺りを見渡した。
「ああ、その汚いケツどけてくれないかな」
 笑いを含む声に武士はかっとなって立ち上がり、村人たちは馴染んだ声に驚きの表情を浮かべる。
「あとな、それは俺様の嫁になる女だから、臭い手で気安く触るんじゃねーよ」
「誰が臭いだ!?」
 雪の首根っこをつかんでいた武士が手を離し、刀を引き抜く。それを見て、残りの武士たちも次々と刀を抜いた。天狗松の前にあるちいさな広場は殺気だつ武士と恐怖に悲鳴をあげる村人たちで占められ、しかし、挑発した本人だけが見あたらなかった。
「どこだ、出てこい! 斬り捨ててやる」
 怒声に子供の笑い声が重なった。
「斬る? 俺を?」
 みしみしと何かが音を立てる。木が裂ける音に似ていると誰もが思った頃、視線は天狗松の大きなコブへと集中していた。まるで見えない手が幹をかき分けているかのようにそこが割れ、呆然と見守る多くの視線を受けながら、額に白いはちまきをした小柄な少年がゆっくりと姿を現した。
「身の程を知れ」
 幹から出てきた翔陽は唇のはしを引き上げ、錫杖を取り出して呆気にとられる武士の目の前で大地をひと突きした。ざわざわと空気がふるえ、それが移動し――皆が一斉に辺りを見渡した瞬間、青々と茂っていた森の木々が赤く染まりはじめた。
 刀を手にしたまま凍り付くように動きを止めた武士に、翔陽はにんまりと笑ってみせる。
「よく聞けクソ野郎ども。俺様は翔陽、今は修行の身なれど、いつかは大天狗と呼ばれる男だ。他人様の領土に勝手に踏み込んでクダクダぬかしてるんじゃねぇよ」
 羽団扇を手にし、ぽんと手を打って大きくひとあおぎした。わずかな風を起こすばかりだった羽団扇は命を得たかのように巨大なうねりを持つ風を生み出し、自信に満ちた武士たちの顔から瞬時に血の気を奪っていった。
 それを確認して、翔陽は羽団扇をひらりと返す。
「羽団扇で恐山まで飛ばすぜ?」
 本気でひとふりすれば、あるいは竜巻をも作り出してしまうのではないか――村人があまりの強風にそう考えていると、敵を子供だと思って馬鹿にしていた武士たちがごくりと唾を飲み込んだ。
「わかったら、ね」
 鋭い一言に、武士たちは申し合わせたように向きを変え、奇声を発しながら転がるように駆けだした。それを満足げに見送ってから、翔陽は呆然としたままの村人の前を横切って雪の元まで行き、座り込んでいた彼女を立たせてにっと笑った。
「……羽団扇、使えたんだ」
「いや、使えねぇ。だから神通力の方を使った。残念だが俺が羽団扇を使っても普通のうちわだ」
 ゆるやかに上下する羽団扇はそよ風を作り、要領を得ない雪は頭を抱えるようにして笑った。
 状況はあまりに理解しがたい。
 ただの子供だとばかり思っていた少年は、両親が言うようにどうやら本物の天狗様だったらしい。お礼と謝罪をどう伝えたものかと混乱しながら考えていた雪は、翔陽の額にくくりつけられひらりとはためく布を見て悲鳴をあげた。
「それ! それ!」
「うん、これお前のさらし。気合い入れようと思って」
「翔陽――!!」
 いつものように軽やかに民家の屋根に飛び乗った少年を、雪は真っ赤になって追いかける。雪の父が座り込むと、村人たちも次々とその場にしゃがみ込んで、見慣れたその光景を眺めて気が抜けたように息をついた。
「腰が抜けた……あれは、天狗だな」
「ああ、守り神だ」
 季節外れの紅葉が訪れた盆地の村には小天狗が一匹、そして、元気な少女が一人――相も変わらず元気よく、追いかけっこを繰り返す。小天狗が一人前になるのはまだ先の話、そう思いながら、村人たちはいつの間にか顔を見合わせて苦笑をもらした。





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