それからその町には一度も行かなかった。
五年たった今でも、時々アンジュの母親の言葉を思い出す。
――彼女の言葉は、ある意味とても正しかった。
腕の中をしみじみと眺めて苦笑する。
「……あのさ」
物思いにふけっていると、不意に男の声がオレを現実へと引き戻した。
「ルゼとアンジュって、兄妹って言ってなかった?」
「うん」
深々と頷く。
だって、そう言わないと不自然だったし。詮索されるのが面倒臭くてそういう名目で二人でずっと旅を続けていたのだ。
渡り歩いた町の数はかなり多く、井戸を求めて掘り起こした土地はそれ以上に多かった。
旅の途中、自分の弱さに気付いて何度もアンジュを置き去りにした。
そんな過去が、今では本当に懐かしい。
柔らかく腕の中の命を抱き上げる。
「で、なんで子供がいるわけ?」
目の前の男が胡散臭そうにオレの胸を指差した。
「可愛いだろ〜オレにそっくり。ジュナでちゅよ〜よろしく〜」
左右に軽くゆすると、ジュナの笑顔がはじけた。
親バカと呼べ。こんな可愛い生き物がこの世にいるのはまさに奇跡だ。バカと呼ばれようと、呆れられようと、自慢せずにいられるか。
デレデレと溶けきったオレの顔を見て、男は肩を落とした。
「これがあの、凄腕のロードランナー……」
その功績はアンジュのお蔭でもあるんだけど。まぁ、それもいまさら関係ない。
抱きかかえられてきゃあきゃあ喜ぶ娘の笑顔が、これからオレが守っていくものだ。
そして、もう一つ。
「ルゼ?」
部屋のドアを開け、アンジュが顔を出した。出会った頃はガリガリに痩せて痛ましかった彼女は、その傷も癒え、今ではオレのよき伴侶にして母でもある。
アンジュは見覚えのある男の顔に目を丸くして、そして少し目立ってきた腹部をそっとさすりながら微笑んだ。
「お茶入れるね」
「ああ――無茶するなよ」
「大丈夫」
クスクス笑って、彼女がキッチンに向かった。
外からも笑い声が聞こえる。楽しげな話し声は絶え間なく続く。
「……アンジュ、えぇっと……」
「二人目。次は男の子がいいよなあ。女の子も可愛いけど」
ジュナをくすぐり、窓の外を見た。
ポツポツ広がる緑は、命の色。その真新しい緑の芽に、女たちが丁寧に水をまく。その脇で男たちが大地を耕していた。
「……井戸、あったんだな……」
しみじみと目の前の男がつぶやいていた。
「いや、噂でさ……ルゼが井戸を掘り当てたって……誰も信じてなかったけど」
そりゃそうだろう。掘り当てたオレでさえ、いまだに夢でも見ている気分なんだから。
でも、噂を聞き、それを信じてここを訪れる人間がいる。
多くの労力を糧に、生きていこうとする人がいる。
「……ルゼ」
男は緊張したように口を開いた。
「仲間がいるんだ。海を探しにも行けないんだ」
言葉を探す彼に軽く頷いてみせた。
すると、彼は
「ただし、ここで共同生活するには決まりごとがある」
「……ああ」
ごくりとツバを飲み込んで、まるで死刑宣告でも受ける罪人のように彼はオレの言葉を待つ。
その姿に苦笑して、短く言った。
「ひとまず、その青い服脱がない?」
目を見張る彼に今度こそ本当の笑顔を向ける。
「待つだけじゃダメなんだ。だから、自分たちの力で生きていこう」
人も土地も荒廃し、ただ死を待つばかりの世界。
それでもオレたちは生きていく。
最果ての地、名もなき場所――
キミがいてくれれば、そこは地上の楽園になる。
=end=