案内されたその建物は、他のものとくらべて大差ない造りをしていた。井戸を掘る場所を探しているあいだに何度か前を横切っていると思う。
「あら」
 椅子に腰掛けていた小柄な女が、テーブルにすがるようにして立ち上がる。
「お母さん、ロードランナーの人。ルゼだよ」
 少し不自由そうにアンジュは母親に近づいていく。
 女は驚いたような顔をしてオレを見た。
「そう……じゃあ、食事の支度を、しなくちゃ」
 アンジュを引き寄せるその手付きは優しげだった。それなのに、アンジュの横顔が少しこわばって見えた。
 アンジュの母親は、アンジュ以上に足が不自由らしい。彼女は娘に支えられて奥へ続く廊下へと歩き出す。オレはどうしようかと一瞬悩み、すぐに彼女たちのあとを追った。
 部屋はさすがに空き家とは違い、生活の香りがする。
 ゴミがいたるところに落ちていたが、それでも空き家独特の静寂が存在しないその空間はほっとする。一人旅がつづくせいか孤独には慣れていたが、決して一人が好きというわけではない。
 人と触れ合うとそんなことを再確認してしまう。
 どこかで腰を落ち着ける生活も悪くないなと顔を上げたとき、そのあまりの衝撃的なシーンにオレは言葉を失った。
 少女が無言で椅子に腰掛けている。
 口元を薄汚れた布で覆って、ぎゅっと目を閉じ顔をそらしている。
 少女の包帯を巻かれた細い腕が、テーブルの上に乗っていた。
 おかしなテーブルだと、混乱したまま思った。
 四方に溝があり、穴があいている。その穴はホースのようなものに繋がっていて、ホースの下にはバケツがあった。
 まるで液体をそこに集めるように。
 その奇妙なテーブルの上にアンジュは腕を乗せている。
 何をしているのかよくわからなかった。
 けれど、なたのような刃物を振り上げた母親を見て、反射的に近くにあるものを掴んでいた。
 ――世界は、混沌としている。
 生きる為の手段を選べる人間はほんの一握り。そして、選択肢がないまま死ぬ者が大半を占めるのと同じように、選択を与えられた者もそれを誤れば死が待つばかりの世界。
 オレは偉そうなことは何もいえない。
 説教なんてガラじゃないし、そんな教養だってあるはずもない。
 でも、それでもこれが間違ってるって事ぐらいはわかる。
 体に増えつづける傷は、そうやって作られたのだろう。
 怒りと憤りで真っ赤に染まる視界めがけて、手にしたものを投げつけた。鈍い音に、女の悲鳴が混じった。
「なにやってるんだ、あんた!」
 取り落とした鉈が床に深々と突き刺さる。
 ――そんな物で。
 そんな物で、娘の腕を落とそうとしていたのか。何のためにと聞こうとして、その必要がないことに漠然と気付いた。
「自分の娘だろ!?」
「だからこうするのよ!」
 問いに、悲鳴が答えた。
「食べなきゃ死ぬのよ! 大丈夫、ちゃんと――ちゃんと今までうまくやってきたんだから。血だって無駄にしない。一滴だって、ひとかけらだって」
 ぞっと背筋が冷えた。
「生きてるとき食べるか、死んでから食べるか、そのくらいの差しかないじゃない。だったら……!」
 娘を刻んで、命を繋ぐとでもいうのか。
 オレはそれ以上の言葉を遮るように手元にあった壊れかけの置き物を投げつけた。それは女の脇を通過して、壁ではじけた。
「アンジュ、来い!」
 鋭く呼ぶと、真っ青になったアンジュは一瞬身をすくませながらも慌てて椅子から降りた。
 わずかに躊躇い、彼女は振り返ってわなわなと震える母親の姿を凝視する。そこにいたのは母親≠カゃない。その顔はまるで、獲物をとられていきどおる獣のものだった。
「その子はウサギなのよ。死んだら月にいけるの――ねぇそうでしょ、アンジュ」
 微笑みながら両手を広げる――その、おぞましさ。
「どこに行くの? 食事の支度ができないわ」
 本気でそう思い、本気でそう口にしているのだろう。オレはアンジュを引き寄せるとその細い体を抱き上げた。
 ああ、やっぱり軽い。
 でも命は、そんなに軽いものじゃない。
 こんな時代だからって、軽視していいものじゃない。
 アンジュはオレにしがみ付いて肩を震わせた。今まで、何を言われて過ごしてきたのだろう。
 旅人が来て睨みつけたのは、自分が傷つくと知っていたからなのか。
 それでも彼女はオレを食事に招いた。
 月になんて、行けるわけないのに。きっとアンジュもそれはわかっているだろう。
 それでも、彼女はオレを招いた。
「アンジュ、オレと来るか?」
 ここよりは優しい世界を見せてやれるかもしれない。そんな事を思って問いかけると、無言のままきゅっとしがみ付いてきた。
 それを答えとして受け取り、アンジュを抱きしめたまま踵を返す。
「待って! どこに行くの!? その子――その子、返してよ!」
 背後から聞こえるのは悲鳴。そして、何かを引きずるような音。
「あんた人の子さらって、何もなくなったら食べるんでしょ!? 私といっしょよ! アンジュ、かえしてよォ!!」
 悲鳴。
「お願い――お願い! せめて……!」
 オレは耳を塞いだ。心の、耳を。
「海がどこにあるのか教えてぇ!!」

Back  Top  Next