【八】
その夢にはいつも、少女が一人立っていた。昔はあれほど鮮明だったにもかかわらず、風化するように顔も服も背景に溶け、最近では何一つまともな形を成していない。それなのにその姿はあまりに「鮮明」で――ひどい罪悪感が、彼を苛む。
いっそ彼女といっしょにあの時に死んでしまえばよかったのだと幾度となくそう思い、そして、今もそう思い続けながら生きていた。
繰り返される罪悪感はどれほど時がすぎようとも和らぐことはなく、不意に緩めばまるで己を戒めるように、彼は悪夢だけがひっそりと息をひそめるあの森へと足を向ける。歪んだ妄執はいつの間にか彼の中からあふれ出し、長い年月をかけて彼を近寄りがたい存在へと変えていった。
バルトのアーサー王は変わり者で偏屈。
当たり障りのない噂は彼の表面だけをそっと撫でた感想である。死者と戯れることを望んでいるなど誰が想像できようか。もしそれが公になれば、王家の血を重んじる臣下たちとて彼を玉座から引きずりおろしたに違いない。
けれど実際にはそんな事態は訪れなかった。
幸いにして、彼には先見の明があった。不幸にして、彼は己の欲望を悟られないようにする方法を知っていた。
よって、彼は大国の王として、この世界に存在することを許された。内包した狂気はそのままに、見た目はなんの変哲もなくすこしだけ変わった統治者として、彼は不動の地位を手に入れた。
「――さま」
彼はぼんやりと輪郭を崩す影を見つめる。
胸の奥がじくじくと疼く。ああ、途切れた夢の続きがようやく訪れたのかと、彼は安堵と絶望を同時に感じ、ふたたび鋭く名を呼ばれて息を呑むように目を瞬いた。
「ご気分でも優れませんか? 薬湯をお持ちしますか?」
アーサーは一瞬状況が理解できず、真剣な表情で問いかけてくるメアリに返答ができなかった。
「アーサー様?」
「……すまない。何かあったのか?」
不審な目を向けてくるメアリに気づき、慌てて取り繕い姿勢を正す。それから自分が執務室にいることを確認して溜め息をついた。誰もが入ることを躊躇っている森へゆき、墓標に花を供えてからずいぶん長いことぼんやりとしていたらしい。
「横になられては?」
「大丈夫だ。それより用件を」
「……では」
コホリと咳払いして、メアリは姿勢を正す。
「まずここ最近、アーサー様の奇妙な行動について」
「オレのか?」
尋ねてからはたと気づく。彼女がアーサーのことを名で呼ぶときは、即位した直後からの影響なのか進言や注意が多い。最近思い当たることといったらカトリーナのことくらいで、案の定、彼女の口から異国の姫君の名が飛び出してきた。
「まずは立場をわきまえてください。女性を追いかけて城内を走り回るなど一国の王がされることではありません。それでなくとも、カトリーナ様のお世話に私が指名されたことで皆が浮き足立っているというのに」
「勅命を出したのは、お前が信用のおける女官だからだ」
「……今まで、一度たりともそのようなことをされましたか?」
「それは」
「恐れながら申し上げます。私は長く、侍女長を
朗々と訴える声にアーサーは内心で頷く。それぞれの役職には「長」と名のつくものがあり、本来なら同じ名を与えられ頂点に立っていたとしても籍を置く部門によって多かれ少なかれ自然と優劣がつけられる。
その常識をあえて取り払い、アーサーは「長」のつく者たちにはすべてに同等の地位と発言権を与えていた。侍女長メアリは古株で、妙な貫禄があるためか皆から一目をおかれる結果になっているが、基本的に「長」をいただく者たちは職務にかかわらず一様に地位が高い。
その一角に籍を置く女は真剣な瞳でアーサーの前にいた。
「メアリ、つまり……?」
「侍女長である私を指名した時点で、アーサー様がカトリーナ様を王妃に選ぶおつもりなのだと城中の噂になっています」
「そんな気は――」
「私以上の給仕などおりません。王がそれほど気にかける姫君なれば、お傍に置くのであろうと誰もがそう思っております。……あなたはなにを望むのですか? お気付きですか、陛下。彼女がここに来てから、あなたはずいぶんと変わった」
唐突に指摘され、言葉に詰まる。以前なら決して曝け出さなかった姿を見せるようになったことはさすがの彼でも自覚していた。けれど、犯した罪を思えば一線を引かずにはいられない。
これは好意ではないのだと、この安らぎは気の迷いなのだとそう思わなければ。
あまりにも――。
「差し出された手を取ることは、そんなにも恐ろしいですか?」
いつの間にか蒼白となってきつく握りしめた手を見つめていたアーサーに、メアリは痛ましげな表情を向ける。心を覗かれたのかと狼狽えるほど的確な問いに、彼は言葉を失って凛とたたずむ女を凝視した。
「長く仕えればわかります。あなたの影も、もうずっと長い間、あなたを案じて手を差し伸べている。……私も」
真摯な言葉に何も返すことができなかった。言えるわけがない。前王とその婚約者を死に追いやり、国を傾けて多くの人々を無駄死にさせた張本人が自分なのだと。犠牲者の中にはメアリの妹もいたという話だ。それを知ったのは国が復興をはじめてからずいぶん経ってからだが、アーサーは遺族が目の前にいても謝罪をすることさえできなかった。
謝罪をするにはすべてを明かさねばならない。戦乱の首謀者が自分であることを告げるのはいい、それで彼女が復讐を言い出したとしても致し方ないことだと納得できる。だが、すべてを明かせば、地位を偽り国を建て直すことで被害を最小限にとどめたこれまでの苦労が無駄になることも考えられる。
国の指針はとうに失われた。
今ここにあるのは、偽りの指針。
「……すまない、メアリ」
まだ、告げることはできない。どんなに信用がおける者でも、この命とこの国の未来を同時に託すことなど不可能だ。親身になってくれるからこそ、重責となるのがわかりきっている言葉などあたえられる訳がない。
メアリは押し黙ったアーサーを見つめて小さく息をつく。
「お一人ではないとお忘れなきように」
いたわりの言葉が胸に沁みる。頷いて顔をあげると、彼女は柔らかな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「それからくれぐれも自粛なさいませ。これ以上、カトリーナ様と噂が立つようなら、ロルサーバに使者を送る覚悟がございます」
「……どういった用件で……」
笑顔は絶やさず、彼女は深々と一礼した。切り替わった会話の内容についていけないアーサーは、動揺をあらわにして静々と退室していく彼女を目で追う。
「メアリ?」
「それでは」
無情にも閉ざされたドアにアーサーは唖然とする。カトリーナが逗留しているのだから母国であるロルサーバに使者をやるというのはおかしな話ではない。だが、メアリの口調や態度を見れば、なにか含むところがあるのはわかる。
彼女に意外と行動力があることを知っているアーサーは慌てて彼女のあとを追うが、その姿はすでに廊下には見当たらなかった。ひとまずなにを企んでいるのか気になった彼は、残された書類に後ろ髪ひかれながらも長い廊下を歩き出す。
最近は誰かを追いかけてばかりな自分の境遇を思い出し、アーサーは思わず苦笑し――そして、視界をかすめた黒い影に動きをとめた。
ほとんど反射的にアーサーは窓の外を見ていた。
窓の外は中庭に面し、そこからすべてのものが一望できる。色とりどりの花で可愛らしくまとめられたその場所に、似合わないものが紛れ込んでいるのを認めて注視していると、黒づくめの男はあたりを警戒すると素早く木の中に腕を差し入れてその場を立ち去った。
「……なんだ……?」
背格好からシャドーではなくイーサの流民のいずれかだと予想はついたが、いずれにしてもおかしな行動であるには違いない。メアリを追うか不審者を捕まえるかを逡巡しながら駆け出したアーサーは、今度は鮮やかな色彩に目を奪われるように足を止める。
そこには見慣れた娘が一人、忙しなく四方に視線を走らせ、そして、男が腕を差し入れたと同じ場所に同じ行動を取った。
偶然ではない。引き抜かれた手は握りしめられ、そこから白い何かが零れていた。
不吉な予感が胸をかすめる。
中庭で何度か彼女を目撃したことがあり、森でも彼女を見かけた。そしてその時、間近に人がいた事もある。
――それが、同じ人間であったことの関連性を、なぜまったく疑わなかったのか。
好意を寄せられほだされて、この国に起きている異変に結びつけることさえ忘れていた己の愚かさに、アーサーは憤りを覚えて歯噛みする。これで国を守ってきたつもりなのだから、浅はかにも程がある。
アーサーは人の目を避け一階まで駆け下りて、自室へ帰ろうとする女の腕を掴んで強引に空き部屋へと引きずり込んだ。
「陛下……!?」
「なんのマネだ?」
驚倒する彼女に厳しい口調を向ける。
「今の男は誰だ? 受け取ったのは――手紙か?」
手をのばしながら
「なにが目的だ?」
「なんのお話ですか?」
「……隠すな。手荒な真似はしたくない」
引きつった笑顔をむけ誤魔化そうとする彼女にアーサーは強い口調で命令する。しかし、一瞬だけ目を見開きながらも、彼女は隠したものを素直に渡す気はないように瞳を伏せた。
「ミランダ、頼む」
疑いたくはないが、隠そうとしている姿を考えれば、事の重大性を知らずに手を貸しているとは到底思えない。それならば、脅されているのか。
「お許しください」
ミランダはそう呻いてさらに後退する。
「事情を話せ。お前の身柄はこちらで保護する。悪いようにはしない」
アーサーの言葉にミランダは一瞬だけ表情を緩めたが、すぐにもう一度かぶりを振った。
「お許しください」
「……今のはイーサの流民だろう? なぜレリャン出身のお前と接点がある? 一体なにを隠してるんだ」
矢継ぎ早の質問に、今度は何も答えずうつむく。わずかに肩が震えていた。人には言えないような過去が彼女にもあるかもしれない。きつく唇を噛む彼女と自分との接点を見つけたとき、それ以上の言及が躊躇われて彼は急に息苦しさを覚えた。
誰にでも人に言えない秘密の一つや二つはあるだろう。
それが本人にとって根深い場所にあるのであれば、口にすることは苦痛であり拷問だ。人に弱味を握られている場合も、また然り。
だが、見過ごすわけにはいかない。王として、統治者として国を守るのであれば、私情に流され判断を誤ることがどれほどの被害を生むかなど火を見るより明らかだ。
イーサで武器が密造されているなら敵が動くより早く根底を確実に叩く必要がある。そのための情報が、アーサーの目の前に存在するのだ。
「お前を尋問したくない」
口を割らなければ、尋問はやがて肉体的な苦痛をあたえる拷問へと変化していく。青ざめた彼女は、アーサーの言葉に美しい顔をこわばらせてさらに後退し、その背を強く壁にぶつけた。漏れたのは、乾いた音とちいさな悲鳴だった。
飛び上がるように体を揺らした直後、青ざめたミランダの顔が紙のように白くなる。
ガタガタと震えながら彼女は隠していた両手を前に出した。そこには予想通り小さくたたまれた紙がのっていて、彼女はアーサーの視線に気をはらうゆとりすら失いゆっくりと恐れるようにそれを開けていった。
アーサーは眉をひそめる。
期待に反しそこに文字は記されておらず、ただ干からびた花が一輪、わずかに原形をとどめたまま包まれていた。
イーサの流民に関して大きな手掛かりができると思っていたアーサーは落胆して溜め息をつく。仕方なく次にミランダと男の関係を明確にさせようと口を開いたが、干からびた花を見つめていたミランダの瞳から大粒の涙が零れ落ちたのを見て、彼は言葉を飲み込んだ。
アーサーにとって、彼女の
乾いた音が室内に響いた。
「――陛下」
かすれた声で、彼女は呼びかける。
「私に、時間をください。すべてをお話します。だから、もう少しだけ時間を」
濡れた瞳をまっすぐ向けて、高貴な娘とは思えない鋭い口調で彼女は告げる。気づけば切迫した空気に押されるようにアーサーは頷いていた。
ほんのすこしだけ、彼女の表情が変化する。
そこには安堵ではなく、痛々しいような決意の色がにじんでいた。