【十二】
ノックしてドアを開けると、石臼で薬をすりつぶしている最中だったごま塩頭の老人が顔を上げ、アーサーを認めると慌てたように背筋を伸ばした。
「カトリーナ様のお薬ならもうしばらく……!」
「ああ、ゆっくりでいい。それより、様子は?」
医師の背後に視線をやると、彼は困惑しながら口を開いた。
「二人とも峠は越えました。しかし、陛下」
「わかってる。何も言うな」
医務室は入ってすぐの場所に診察室があり、奥に布で仕切られた簡易の個室が並んでいる。これはアーサーの意見で取り入れられたもので、軽傷ならば治療して帰すが、重病人に限ってはここでしばらく静養させていた。
本来ならカトリーナもここで休ませるべきだ。彼女は連日高熱でうなされ、ほとんど意識がない状態である。目を覚ましたときに薬湯と重湯を飲ませるのがやっとという症状なら、医師の目が届く場所にいた方がいい。婚礼の儀はすんでいないものの、カトリーナはすでにバルト王妃と認知されていた。もしもの事があってはならないと、医師の表情はひどく硬い。
「……今は、オレのそばに置く」
小さく告げて奥へと進む。背後から聞こえてきた溜め息に足を取られそうになったが、アーサーは気を引きしめて寝息が聞こえてくるのを確認してからカーテンの一つを開けて中をのぞいた。
ベッドには顔色の優れない男が昏昏と眠り続けていた。高い鼻梁に長い睫、いっそ豊かと表現したくなる眉を見ただけで、それがバルトの民とは違う種族なのだと感じる事ができる。そこに眠るのは、君主からの勅命を受け、イーサの使者として貿易の要であるバルト国、その王の婚礼に祝辞を述べるという重責を与えられた男だった。
もし、この男が何者かに襲われて命を落としていたら、果たしてどうなっていたか――そう考えただけで、肝が冷えた。
バルトとイーサは交易国としての交流以外の繋がりが薄い。互いの国の動向はそれなりに把握していても、現状では奸徒の罠にはまった事を説明するのはあまりに困難だった。使者が命を落とせば、困難どころの騒ぎではない。
目撃者がいなければ、イーサ国王の疑いの目がバルトに向いてもなんら不思議はなかった。それがどんなに不可解であっても、彼の王がバルトを黒だと言えば、歴史が音を立てて動き出す。
イーサ国王は愚王ではない。だが、周りの者がそうであるとは限らない。この一件を企てたのがイーサの流民であると仮定するなら、イーサ国王のそばに仕える者と通じている可能性も考えられた。
誰かが均衡を崩せば堤防はたやすく決壊する。それはもはや、理屈ではない。
滅びた国の象徴を利用するのが仮定どおり王族ゆかりの者であれば、決壊すべきだと覚悟を決めねばならなかった。
「……兵は?」
アーサーは窓の外に鋭く視線を走らせて医師に尋ねた。
「陛下の指示通り、常勤が外に四人、ドアに二人、見回りは半刻ごとと」
「そうか」
「しかし、あまりに厳重すぎではありませんか? 賊は逃げたという話でしたが……」
「油断はするな。あれほどの深手だ、賊の手でなくとも命を落としかねん」
押し黙る医師に淡々と告げ、アーサーは隣のカーテンも開けた。そこには力なく横たわるミランダの姿があった。いつも美しく整えられていた髪はシーツの上で乱れ、華やかなドレスのかわりに包帯をまとい、時折苦しげにうめいている。
こちらもイーサの使者同様、一命を取り留めたに過ぎない状態だ。アーサーは手を止め、じっとミランダを見つめていた医師に視線を戻した。
「彼女の容態は?」
「イーサの使者よりは出血が少なかったぶん軽症です。が、こちらも予断を許しません。いまはだいぶ落ち着いてきましたがね」
よかったとアーサーが漏らすと、医師が心持ち眉をよせた。
「この女性は? 失礼ですが――あまり、ほめられた身分の女ではない」
真剣な口調に驚いて、アーサーはカーテンを閉めて医師の前まで戻った。ミランダはレリャンで有数の資産家の子だが、同時に妾が生んだ娘でもある。確かにバルトの王妃候補として選ばれたのは異例ではあるが、不快をあらわにするのは大げさだとアーサーは思った。
「陛下、あの女は」
医師の声が低くなる。
「――娼婦です」
「……なんだと……?」
「おそらく、イーサのオルマーニャ――貧困街と呼ばれる地区で育った娘でしょう。肩に娼婦の烙印がある。あの場所は武器の製造とともに娼館が幅をきかせ、麻薬の売買が盛んだ」
「そんな情報は、知らない」
「……麻薬の一部には鎮痛剤として高い評価を受けるものがあります。イーサの貧困街には、調合前の質のいい麻薬が多く出回る。……私は、それを定期的に購入しています」
耳を疑うアーサーに、医師はたたみかけるように言葉を投げた。
「あの地区はイーサ軍も手出しできないと噂に聞くほどの無法地帯で、そこで産み捨てられた子供は烙印を押されて娼館に――」
「やめろ!」
「しかし陛下、黒髪はイーサ国民の象徴で、烙印もあり、どう考えても……」
「もういい。頼む、何も言うな」
ひどく混乱しながらアーサーは医師の言葉を遮り、カトリーナ用の薬を奪うようにして医務室を飛び出した。父が黒髪を疎んでいるとミランダが寂しげに告げた――その言葉すら偽りであったのかもしれないと、アーサーはこのときになってようやく疑念を抱く。
ミランダがイーサの流民と接触していたのは、単純に仲間≠ナあったからなのか。定期的に会い、情報を交換し、そして意見の相違が生まれたと考えればこの事態にも合点がいく。
だが、あの切迫した悲しげな表情を思い出すとアーサーはどうしてもミランダを責める気にはなれなかった。
それに彼女は、花冠を作るような娘なのだ。たとえどんな状況に身をおこうとも、純朴な表情で笑うことができる、そんな娘なのだ。あんな表情を胸の底に閉じこめたまま、戦乱をたぐり寄せるような事をするなど思いたくなかった。
身分を偽り、死を招くような事など――。
「……身分?」
つぶやいてアーサーは立ち止まる。ミランダがイーサ国民であるなら、なぜレリャンの資産家の娘であると虚構の身分を作り上げたのか。そう、レリャンでなくともよかったのだ。イーサの資産家でもバルトは充分に王妃候補として迎え入れたに違いない。
「まさか、レリャンも巻き込まれたクチか」
何らかの意図があり、ミランダがレリャンを利用するためそう名乗ってきた可能性はきわめて高い。疑問を言葉にすると妙にしっくりとした。はじめからきな臭かったのはイーサだけだった。そこにレリャンとの対立の図式がなだれ込み、事態は混濁した。だが、よくよく国風や王の気質を考えてみれば、イーサとレリャンのあいだで争いごとの火種になるような事項が思い当たらないのだ。
「とすると、なんだ……? なぜレリャンを巻き込む? この国にイーサが目をつけた理由は?」
相変わらず情報が足りない。こんなときにこそそばにいて欲しい彼の影は、置手紙を残したままいまだに姿をくらませている。あまりの歯がゆさにこめかみすら痛んできた。
アーサーは寝所まで突き進み、兵士に異常がないことを確認してからドアを押し開いた。午後の会議までさほど時間はないが、カトリーナの容態がどうしても気になってならない。そのまま寝室へとつづくドアに手を伸ばすと、前触れなくそれが軋みをあげた。
「陛下?」
寝室から出てきたのはカトリーナが目をかけている侍女イザベラだった。ひかえめな少女だが、カトリーナ同様に侍女長であるメアリが目をかけているだけあって、機転がきく上に目端もきき、侍女としての仕事にも定評のある娘だった。
「カトリーナは?」
「はい、ただいま着替えが終わって眠っております。まだ熱が高くて」
不安げな表情できゅっと唇を噛む姿に頷き、
「メアリは?」
と、さらに問いかける。
「メアリさんも同じです。もうそろそろお薬の時間なので、代わりの者を呼んでこようと思って」
「……無理はするなよ」
「は、はい!」
ぱっと顔を上げ、イザベラが頷く。カトリーナが落ち着くまでは休めないと言い張って倒れたのがメアリで、そのメアリが直接指導しているのがイザベラ――アーサーからすれば、カトリーナとは別の意味で、この少女の一途さも不安要素のひとつに挙げられる。
深々と会釈して部屋を出て行く彼女を見送り、少しだけ苛立ちが治まったことに気付いて苦笑した。そのまま寝室に足を踏み入れ、彼は天蓋付きのベッドへと足を向ける。
慣れ親しんだ室内には、苦しげな呼吸音だけが繰り返されている。
アーサーはテーブルの上に飲み薬をおき、椅子に腰掛けて溜め息をついた。
長年使われることなく放置されていた水路には汚泥がたまり、ひどい有様だった。メアリのお陰で濁流に呑まれることだけは免れたが、大量の水を飲み込んだカトリーナはいまだに高熱で意識すらない。
レースのカーテンを開けると、玉のような汗をかくカトリーナの姿が双眸に飛び込んできた。
「……すまない」
テーブルに置かれた布を水で冷やし、きつく絞って汗をふき取り、アーサーはちいさく言葉を発した。これから守っていくはずの相手に、守るどころか守られてしまったのだ。カトリーナが身を挺して守った銀の剣にそっと手を伸ばしながら、アーサーは何度目かの溜め息をついた。
カトリーナは意識を取り戻すと剣の所在を尋ねる。そうして、無事だと確認した次の瞬間には意識を手放すのだ。
「駄目な男だな、オレは」
国を任された身でありながら、国はおろか妻とする女すら守れないのだ。王妃候補として訪れた二人の娘は、ともにベッドから放れられない状態だった。
アーサーは自嘲して肩を落とし、カトリーナの額に張り付いた髪をそっと指ですく。そして、動きを止めた。
不意に、胸の奥で何かが身じろいだ気がした。
驚いたように手を引いた瞬間、豪奢なベッドで眠る娘が別のものと重なって、アーサーは息をのんでいた。
記憶さえ曖昧になるほど昔、同じように看病したことがある。あれは、カトリーナではなく、別の。
「陛下?」
唐突にかけられた声にアーサーの体は大きく震えた。視線を動かし、ベッドに横たわる相手を確認して、彼はぎこちなく顔をゆがめて瞳を伏せた。いったい何がきっかけであったのか、鮮明に浮かび上がる懐かしい少女の影がカトリーナに重なり、眼裏にこびりついて離れなかった。
ここにいるのは失った恋人ではない。それなのに、こんな状況にあってなお、己の心はしらずに彼女を求めているのだ。
そう思うとひどく胸が痛んだ。
「すまない、オレは……お前に死んだ恋人を重ねているかもしれない」
断罪を望みながらようやくの思いで告げると、カトリーナは熱で上気した顔をアーサーに向け、じっとしていた。
「最低な男だ」
そう続けカトリーナに深く頭をさげると、ちいさく息を吐き出した彼女が手を伸ばし、熱い指先で彼の髪を柔らかく撫でた。
「その方を、今でも愛しておられますか?」
「……忘れることはない」
「私のことは、お好き?」
「……ああ」
本当に最低だと項垂れると、そんな彼を見てカトリーナはふわふわと微笑んだ。
「ならば問題ありません。一国の王が一人だけしか愛せないほど了見が狭くてはお話にならないわ」
目を開けるもの億劫だというように双眸を閉じ、耳を疑うアーサーを尻目に彼女の声はなおも続いた。
「陛下を独り占めできないのは悔しいけど、皆を認め愛することができる人でなければ国のために心を砕くことは難しいの。あなたはきっと、この国のことも大切にお考えなのでしょう? だったら、我が儘は申しません」
ベッドに深く身を沈めたカトリーナの顔に笑みが浮かぶ。
「私もその中に入れていただきますから」
突飛な意見に目を丸くすると、カトリーナが、
「国の統治は、あなたにぴったりなお仕事ね」
そうつづけ、高熱で浮かされ真っ赤に顔を染めたまま、己の出した結論に満足したように頷く。
それを見て全身の力が抜けた。
やられた、まいった、完敗だと、アーサーは心底そう思った。これほど悩み、束縛だと錯覚するほどの彼を苦しめた地位や思想が彼女の一言で重荷ではないものへと転化されていく。
「この国の民は幸せだわ」
果たしてどこまで意識があったのか――満足げにささやいて、彼女は大きく息をつく。ベッドからだらりと落ちる手をそっと握り、アーサーはそれを額にこすりつけた。
胸の奥からあふれてくるような、この愛おしさはどんな気の迷いだろう。
「ミナ……オレは、幸せになってもいいのか? ここで、人として」
過去を抱きしめ多くの罪を背負いながら、それでも一人の男として名すら知らなかったこの地で。
「当たり前じゃない」
呆れたように耳朶を打つ声にアーサーははっとして顔を上げた。つっけんどんな声音はひどく懐かしく、同時に、あまりに聞き慣れないものだった。
アーサーはベッドで眠りつづける少女を呆然と見つめる。
空耳であったのか、それとも彼女のものであったのか、深い眠りに落ちた彼女にはすでに確認の方法がなかった。
それでも、とアーサーは胸の奥で言葉をつむぎ、包み込んだ手に少しだけ力を込めて瞳を閉じた。
たとえどんなに暗く閉ざされた世界でも、彼女となら歩いていけるような気がする。時に立ち止まり振り返りながらでも、望むまままっすぐに。
「……お前と二人でなら」