『ひずみの森』
  【一】

 その夢は、いつもひどく色鮮やかで残酷だった。目覚めたあとの虚無感は彼の気力を根こそぎ奪い、けれど見ることを願わずにはいられない――それこそが、本当の悪夢というべきものだったのだろう。
 深い深い森の中、絶望はいつも人の姿をもって彼をいざなう。
 しかしその日に限って、悪夢は一点の穢れさえないほどの白で埋め尽くされていた。
「……美奈子……?」
 天も地もない世界に放り込まれた彼は、奇妙な胸騒ぎに不安を覚えて死んだ恋人の名を呼んだ。
 白い、白い、白い。
 ただ真っ白な世界にたたずみながら、彼は動くことさえできずに辺りを見渡す。
 悪夢を見始めて十七年、それが最初の変化の兆しだった。
 うなされるように目を開けた彼――アーサーは、現状が理解できずに心配そうに覗きこむ色素の薄い双眸をぼんやりと見上げた。
「大丈夫ですか?」
 悪夢を見て何度飛び上がるように目覚めても決して声をかけてこなかった男がそう問いかけてくる。体にぴったりと添う黒装束を身にまとった男の防具は、服同様に黒く、通常の騎士がまとう鎧よりはるかに軽量で少ない。それは本当に主要部分のみを守る仕様で、柔軟性に富みながら機能は抜群という代物である。過去に入手経路を尋ねたことがあったが、はぐらかされて詳細は不明だった。
 目元だけを露出させた男の姿を見つめ、まるで忍者のようだと呑気に考えながらアーサーはゆるりと身を起こす。
「大丈夫だ」
 顔を片手でおおって溜め息を落とす。悪夢と呼ばれる種のものを見続けて久しい彼は、多少の疑問を抱きながらも汗で肌に張り付く髪を乱暴にはらい、天蓋つきのベッドからおりると日時計で時刻を確認してから、なにか言いたげな視線を向けてくる黒装束の男に笑みを返した。
「心配するな、シャドー。……いつもの夢だ」
「はい」
「汗を流したら軽く食事にする」
「承知しました」
 その後は朝議になるのだが、そこまで告げなくても優秀な護衛はアーサーの警護以外も自主的に動いてくれている。お蔭でアーサーはこれといって不満もなく毎日を過ごしているのだが、この生活がずいぶん長く定着していることに改めて気付いた。
 シャドー自身に不満はないのだろうかと疑問に思う。過去に忠誠を誓ったとはいえ、自由になる時間がないに等しいこの生活に嫌気がさしてもなんら不思議はない。いや、不満どころか、シャドーが握る情報はアーサーの地位を簡単に脅かすほど重要なものだ。逆手にとればいくらでも思い通りに生きることができるはずだ。
 それなのに彼は、いまだにアーサーを主人としてかしずく。
「……おかしな奴だな」
 小さく口にして瞳を伏せた。たとえこの先彼に裏切られるようなことがあったとしても、きっと恨み言など出てこないだろう。気紛れに拾い、自虐的につけた名ですら大切にしてくれた男に、アーサーは深く感謝している。
 初めて変化を見せた夢から逃れるようにアーサーは思考を切り替え、不快な汗を湯で洗い流してから正装に着替えた。食事のあと定例どおり議会に出席し、近隣諸国の情勢と貿易の問題点、さらに近年目立ち始めたイーサとレリャンの対立を耳にする頃には、夢のことなどすっかり忘れていた。
 そして、これといって変化のない日常にちいさな嵐の気配が近づいて来ていることも知らず、彼は議会が終わると職務室にこもって提出された文書に目を通していく。
 すべてに目を通す必要はないと進言する臣下の言葉を無視し、アーサーはいくつも認印を押された書類をあっさりと申請不可と記された箱に放り込んだ。次を手に取り内容を確認し、それも申請不可の箱の中に落とす。五通目でようやく押印し、また次の書類は不可箱へ。その次は考察と書かれた箱に入れ、山積みの書類の束を一枚ずつ確認していく。
「用件は簡潔にしてくれると助かるんだが……」
 延々と並ぶ世辞に溜め息がもれた。仕事とはいえ連なる文句にうんざりしてくる。それでも二時間ほど書類を読み続け、アーサーはふと顔をあげて胸騒ぎに眉をしかめ立ち上がった。
 奇妙な夢が脳裏をよぎる。
 唐突なできごとに狼狽えてじっとしていられなくなった彼は、窓の外をしばらく眺めてから軽装に着替え部屋を出て、思い当たって馬小屋に行った。
「お出かけですか?」
 馬番の少年は突然現れたアーサーに驚いた顔をしながらも彼の愛馬に手早く鞍をつけた。いつ行ってもよく手入れされている馬を見てアーサーは少し表情を緩める。年若く信用がおけないと言った臣下を黙らせて馬番を頼んだ少年は、ここにある十頭の馬と、離れの馬小屋にいる五十頭の馬を大切に面倒を見てくれている。必要なだけ人員を割いていいと伝えたにもかかわらず、彼は数人の仲間だけで臣下を黙らせる完璧な仕事をこなしていた。
「たまには遠出でもしてくる。行けそうか?」
「山二つくらいなら軽いですよ」
 少年は晴れやかな笑顔とともに馬を撫でた。
「もともと安定感のある奴です。気性も大人しいし、頭がいい。それに何より、走るのが好きだ」
 それが一番重要なんですと、少年は無邪気な笑顔でアーサーに告げる。手綱を渡されて馬にまたがり、彼は気の向くまま馬を駆った。乗馬など金持ちの趣味だと思っていたが、この国にはそれが日常の交通手段だった。すっかり馬をあつかうのにも慣れたアーサーは、それから三十分ほど馬を走らせ、色鮮やかな野の花を摘んで城の裏手に広がる森へと向かった。
 密林の中には小さく拓けた空間があり、そこには石が三つ、不自然に並んでいた。
 十七年前からなんら変化のない空間は、墓標がわりに置いた石だけが苔むし、そこに眠る年月を見る者に伝えてくる。
 アーサーは馬から下りて三つの墓標に花を手向け、静かに手を合わせた。
 鮮明だった悪夢が途切れたのが彼女への裏切りのようで、ひどく心が痛んだ。無残に腐り果てていく恋人の姿が見たいわけではない。決してそうではないが、心の奥に巣食う妄執は、あの狂気の時間さえ喜びへと変えてしまっていた。
 あれは逢瀬などではない。
 吐き気を覚えるほどの臭気を思い出しながら、アーサーは胸のうちでつぶやく。あれは触れ合うことさえ叶わない、幸せとは程遠い膿んだ悪夢である。
 それでも彼には充分だった。苦痛しか生み出さないとしても、それ以上に望むものは存在しなかった。
 三つの墓標を見つめ、彼はしおれた花を手にゆっくり立ち上がる。
 書類を一通り処理したら町の見回りが待っている。長居するわけにはいかない。
 名残惜しい気持ちで馬を駆り、彼は城へと急ぐ。途中、ふっと手綱を引いた。
「……なんだ?」
 鳥がせわしげに鳴き、森の一角で羽ばたくのが見えた。いつもは静かな場所なだけにその光景は嫌でも目立ち、アーサーは誰に問うでもなく疑問をもらす。
「わかりません。……馬のいななきが……」
 どこからともなく応えた低い声にすぐさまアーサーは反応し、手綱を強く引いて馬の腹に鐙を当てる。
「アーサー様!?」
「場所は?」
 驚愕した声にアーサーは短く尋ねる。すぐに誘導するように声が続き、彼はほどなく、暴れ馬にしがみついている少女の姿を発見した。
 とっさにまずいと思った。平地でも危険だが、この森はとくに巨木が多く、振り落とされればまず無傷ではいられないだろう。それどころか、最悪命を落とすことも予想される。
 考える間もなく、アーサーはつられて興奮する馬の手綱を強く握った。縦横無尽に駆ける馬との距離を慎重にはかって近づき、少女の体が大きく浮いたのを目撃して馬の腹を強く蹴った。
 大きく身を乗り出し、自分にも危険が及ぶことさえかえりみず、彼は少女の腕を掴んだ。
「手を放せ」
 果たして聞こえているかどうか――その危惧はすぐに打ち消され、緩んでさらに浮いた少女の体をアーサーは器用に引き寄せ、腕を掴んでいた手を彼女の腰へと回した。
 馬がいななき、彼女の体は一瞬空中へと放り出された。手綱を握っていたはずの彼の手は、気付けば少女を引き寄せるために伸びていた。
 渾身の力をふりしぼって衝撃を抑えるようにタイミングを合わせ、絶妙な間合いで沈んだ愛馬の背に彼女を乗せる。少女の口から悲鳴が漏れなかったことにアーサーは安堵し、再び手綱を握って前方を見た。
「シャドー、止めろ」
 馬にはいくつかの袋がくくりつけてあった。旅の者が荷を失えばさぞ苦労するに違いないと判断して声をかけると、優秀な影はその命を待っていたかのように気配を消す。
 おびえているかと思った娘は、動揺こそすれ落ち着いた様子だった。
 ふっと体に重みが加わる。
 視線だけ動かすと、馬が去った方角を見つめたまま少女はアーサーに身を寄せるように体を預けていた。
 奇妙な胸騒ぎが大きくなる。
 それはちいさな、本当にちいさな変化の兆し。だが、彼はあえてそれに気付かないふりをした。
 名を訊かずに別れたのは二度と会うことはないと思っていたからだった。ここで別れれば、それで終わりだとあきらめにも似た心境で考えていた。
 しかし、彼女は再び彼の前に現れた。
「ロルサーバの第三王女カトリーナ・エルラファンです、陛下」
 森で出会ったときとは違う、そのみすぼらしい服に似合わぬ気品をまとって王城の一室――誰もが一瞬ひるむような荘厳な謁見の間で臆することなく優雅に膝を折る。口元に浮かべた笑みに、アーサーは胸騒ぎに拍車がかかったことを自覚した。
 その出会いは偶然なのか必然なのか――。
 彼はようやく、長い悪夢の先に光を見つけた。

Back  祈りの庭・歪みの森Top  Next