【九】
最近、カトリーナは侍女のイザベラと仲がいい。気さくな彼女の性格をカトリーナはいたく気に入って、アーサーが会議に出席し、メアリがいないときは決まって彼女の姿を捜した。
そして、うまく口説き落として服を一着借りる。
それは濃紺で仕立てがよく、手入れのしやすい侍女たちが着る作業着のひとつだ。
行儀悪くぱたぱたと走り回ると、臣下一同は目を丸くして動きをとめた。瞬時に誰だか判断できずに硬直する男たちの脇をすり抜け、カトリーナは一目散に調理場へ向かう。湿度の高い部屋のドアを開けると、カトリーナの姿を認めたまかないの女たちが奇妙な声をあげた。
「ほら! 来るって言っただろ!」
「でも、あれからずいぶんたってるじゃない」
「当たったもんは当たったんだよ」
「なぁに?」
イモのカゴを手にひょこひょこ近づくと、女たちは一瞬会話をやめて顔を見合わせた。
「カトリーナ様がまたここに来るかどうかって」
「カトリーナでいいわ」
「と、とんでもない!」
イモを剥いていた女はナイフを持った手を振り回す。女たちが悲鳴を上げると、総長の罵声が飛んできて皆がいっせいに肩をすくめた。
「ここは汚いしうるさいから、もう来ないだろうって」
「あら、日雇い労働者だもの。一日ちゃんと働かなきゃお給料がいただけないわ」
「もらう気ですか」
「当然よ」
驚く女の横に腰掛けて胸を張って断言すると、周りがどっと湧いた。腹を抱えて笑う女までいて、カトリーナは頬を膨らませる。
前回は半日の労働だったから、今日は残りの半分を消化するのだ。それでようやく自己申告で給料が手に入る。
「浅ましいかしら?」
「いえ、いえいえ、いい心がけですよ。お金には、ちゃんと見合った価値がありますからねぇ、労働で手に入れたものは尊いです」
「何を買われるんですか?」
「そうね。干し肉や穀物、加工した、保存のきくものがいいわ。あとは馬車もいるかしら。ロルサーバまで行ってくれる従者も雇わなきゃいけないの。たくさんお金がいるわね」
こつこつと貯めていく必要がある。物価の安いところで大量に買うという手段もあるが、信用のおける人間を雇えるかどうかが最大の問題だ。いろいろと悩みの多い王女は真剣な表情でイモを剥き、途中で辺りが静まり返っていることに気付いた。
彼女は自分に視線が集中していることに小首を傾げる。
「どうしたの?」
問えば周りは妙にしんみりとして、深く溜め息をついた。
「早く復興するといいですね」
「ええ、そうね。お父様も頑張ってらっしゃるわ。だからきっと大丈夫よ。ありがとう」
素直に礼を述べるとぬっと腕が伸びてきてカトリーナのカゴからイモを掴んで去っていく。驚く彼女の目の前で、女たちが次々と彼女のカゴからイモを掴んで剥き始めた。
手伝ってくれるらしい。そう気付いて笑みがこぼれた。
「ありがとう」
感謝の言葉を再び口にすると、照れ笑いのようなものが返ってきた。なんとなく居心地がいい。広い部屋でアーサーを待つのも、巨大な建物を彷徨うのも嫌いではないが、誰かといっしょにいたほうが楽しい気持ちになる。
新しいイモを手にして剥き始めると、女の一人がそういえば、と口を開いた。
「剣の勝負で負けたって噂でしたけど」
「――負けたわ」
「陛下、意外に強いですよ?」
「そうね。弱そうに見えたのに」
不満げな声でつぶやくとくすくす笑われる。あれからアーサーとはさらに打ち解けて話せるようになったのはいいことなのだが、相変わらず女性に対する扱いとは程遠かった。
それでも、長い会議で疲れていても快く迎え入れてくれるのは大きな進歩だ。
「剣で勝てたら結婚しろって言ったのは?」
「え? ええ、本当よ?」
突然の質問にカトリーナは頷く。周りが驚くのも無理はない。王族の娘が人前で恥じらいもなく求愛して玉砕したのだ。気位が高く我が儘に育てられていることが多い王女は恥をかくことに慣れてはおらず、本来なら死にたいくらいの恥辱だろう。
「でもカトリーナ様、あきらめちゃ駄目ですよ」
こっそりと女が耳打ちする。
「あたしの読みでは、陛下、一目でカトリーナ様のことを気に入られたと思うんです」
「あたしの読みって! 皆の噂じゃないの」
「あたしの読みだったら!」
「すぐそうやって意地張るんだからー」
けらけら笑う一群に、カトリーナは怪訝になる。確かにアーサーからの反応はよくなっているが、そう言い切る根拠がまるでわからないのだ。むしろ、のらりくらりとかわされて脈などないとさえ思うときがある。
カトリーナが眉をしかめていると、それに気付いた女が口を開いた。
「ほら、前に言ったじゃないですか。メアリのこと」
カトリーナはどきりとしながら頷いた。そして、それが? と先を促す。
「メアリは侍女長なんですよ」
「……侍女長?」
「侍女の中で一番えらくて、そりゃも、あたしたちは足元にも及ばなくて。総長も頭があがらないほどなんですよ」
「そんな人に、陛下の
「だって、全然……」
そんなそぶりなど見せてくれない。いつもいつも、好意の欠片だけ見せてすり抜けていく。バルトに来てからずいぶんたつのに、いまだに手も握ったことがないくらい、彼はあまりに
「まだ引きずってるんじゃないかって噂なんですけどね」
「ちょっと!」
「いいじゃない、どうせ知れるんだから。黙ってるほうが酷よ。――陛下はね、前王の婚約者に懸想してたんじゃないかって話なんです。今もまだ思ってるんじゃないかって。それで」
「カトリーナ様が、フィリシア様に似てると臣下が口にしたらしくて。だから、陛下も調子が狂っちゃったんじゃないかっていう話です」
「……似てるの?」
「さあ。こう、突拍子もないところは似てるかもしれませんけど、もう二十年近く前のことでしょう? 比べるのも馬鹿馬鹿しいんですけどね。生きてるとか、死んでるとかって意味じゃなくて――ああ、うまく言えないんですけど、似てるところに惹かれるっていうのはよくあることだし、それは誰かと比べる必要はないんですよ。ただ、好きって思いがあればいいだけで――いやだ、なに言ってるのかしら」
女はそう言って口を閉ざし、照れ隠しのように虚空を見つめた。
森の中の墓標は、では彼女のものなのか。カトリーナはそう考え、違うと打ち消した。前王とその婚約者は国葬され、王家ゆかりの者が入る墓地へと行ったに違いない。アーサーの拒絶にはあの墓標が関係していることはわかるが、誰の墓なのか、カトリーナにはいまだに判断がつかなかった。
しかし、本人に直接聞くこともはばかられる。そして、アーサーの危惧は、その墓以外にもあるのだ。存在してはならない人間、何も残してはいけない、だから応えられないと彼は言った。
国民が求めているのは、国の繁栄。この国の基盤は国王であるアーサーを中心として成っている。そして、安定した国が次に求めるのは慶事、さらに――。
彼の、嫡子。
それはこの国を導いていく指針となる者だ。
けれどアーサーはその者ごと、カトリーナを否定した。迷いながらもその決断をくだし、今も迷い続けている。
「陛下は子供がお嫌い?」
「いえ? むしろお好きなんじゃないですか? 町に下りるとよく遊んでらっしゃるそうですよ」
「……」
では何をあれほど拒絶しているのだろう。
カトリーナは考え込む。国の繁栄に貢献しながら、周りが望む次の段階へは決して足を踏み出そうとしないのは、故人への執着なのか、償いなのか。
好意だけを向けられるこの状況に、不満よりも切なさがつのる。まるで、自分が幸せになってはいけないとでも言うような、あの生き方が彼の本当の望みだとは思えない。
ふと気付くとカゴが空になっていた。
せっせと手を動かす女たちは、カトリーナに次のカゴを持ってこいと目配せする。それが心強い応援のようであり、彼女は知らずに笑顔になる。
カゴを持って立ちあがると、背後から近づいてきた女と目があった。
「買い出しがあるんだけどね?」
「……行ってもいい?」
待っていたかのような言葉にひかえめに尋ねると、ふくよかな女は少し考えるような仕草を取る。
「報告はちゃんとするわ! すぐに帰ってくる!」
「でもねぇ」
「意地悪しないで行かせてやってよ」
「イモは皆で剥くからさ」
「……じゃあ、お願いしても?」
ぱっとカトリーナの表情が明るくなる。
「ええ、ぜひ!」
「陛下も見回りに出られたばかりだから」
カトリーナが紙と金を受け取るとき、女は小さく耳打ちした。
「追いかければご一緒できるかもしれないですよ」
「あ、ありがとう!」
慌てて上着を脱いで駆け出し、途中で足を止めた。報告をしなければまたアーサーに注意されてしまうことを思い出したのだ。
誰に伝えるかを迷っているとき、
「もう報告はすんでますよ」
覚え書きを手渡した女が胸を張って告げた。
「なによ、初めからその気なんじゃない。本当、意地悪ねぇ」
「親切じゃないか」
「意地悪だよ!」
弾む会話の絶えない調理場に笑顔を残し、カトリーナは長い廊下を駆ける。見慣れぬ侍女に驚く視線をかいくぐり、彼女は通用口から城を出て町へとむかった。
アーサーはいろいろな経路で町を巡回しては町の状況や風評を確認するが、一番初めに通る道はいつも同じだ。交易の拠点となる運河、そこと王城をまっすぐ繋ぐ巨大な道がこの国の大動脈となり商売の
城の前面にある広場に辿りつき、カトリーナは足をとめて息を弾ませアーサーの姿を捜した。そこにいないとわかると、人ごみを掻き分け道を進む。いつも歩くのが困難なほど人が多いこの道は、今日もやはり恐ろしく人がひしめき合っていた。
ざわめきが騒音のようだった。いつも以上に人が多いとカトリーナが自覚した頃には、ほとんど身動きが取れなくなっていた。思い思いの場所に進もうとする人々に押されて息がつまる。何とか前進しようとこころみるが、足元を前に出すことさえできない。
人の波に流されそうになる直前、カトリーナの目の前が暗くなった。
「こんなところに来る奴があるか」
溜め息とともに聞き慣れた声が耳元でささやく。ようやくできた空間にほっと息をついて顔をあげると、間近にアーサーの顔があった。
「捜しました!」
「……またそんな格好で……」
「似合います?」
せっかく密着しているので抱きつきながら訊くと、アーサーは侍女姿のカトリーナに溜め息と苦笑を返した。無理をして歩いていたかいがある。そっと背中に腕が回るのを感じ、カトリーナは悦びにたえきれずに彼の胸に顔を埋める。
「あなたが好きです」
偽りなく素直な気持ちを言葉にすると、アーサーの体が動揺を表すように揺れた。だが、背中に回された腕ははずれない。逆にそっと力が込められる。
「私が、お嫌い?」
「――いや」
「では」
「オレは」
問う前に、アーサーが遮るように言葉を続けた。
「オレはこの国の人間じゃない。アーサーは、とうの昔に、死んでいる」
途切れがちの言葉の意味がよく理解できず、カトリーナは真意を測るために彼の顔を覗き込もうとしたが、それを拒むように強く抱きしめられた。
「偽りの王だ。オレは死ぬまでこの国を騙し続けなければならない」
「陛下?」
「前王を殺したのはオレだ。フィリシアも、あの乱世で命を落とした者すべて、オレが殺したようなものだ。だから、お前には応えられない。オレは王ではなく、ただの罪人だ」
うめく声はまるで泣いているようだった。それは、誰にも語ることのできなかった言葉に違いない。彼の胸の奥にしこりのように残って彼を苦しめている部分。
それはおそらく、彼が一生背負っていくと誓った過去なのだろう。
国賊として処罰されてもなんらおかしくない内容にカトリーナは息をのむ。前王はイリジアとの戦いで命を落としたということになっている。アーサーの語るように、この平穏な土地で内紛により前王を討ち、その地位に座するなら――その座した者が、王族を騙って国を治めていたのなら、国はどれほど混乱するだろう。
バルトの中には血を尊ぶ者が多い。それが国の象徴だと公言する者たちの目に、アーサーがどう映るのかを考え、カトリーナはしがみついていた体を強く抱きしめてから顔を上げた。
「陛下」
カトリーナはアーサーを見つめた。苦悩するその瞳は揺れ続ける。語られた内容が偽りではないのだと確信したが、不思議と狼狽えることもなかった。
王家の血にどれほどの価値があるだろう。
明主と呼ばれた彼が、王にふさわしくないなどと口にする者がどれほどいるというのか。
「民は、あなたに従います。あなたが何者であろうとも」
「騙されているだけだ。偽者と知れば……」
「それに何の意味があるのですか?」
「国民はバルト王家のもとに集まったんだ」
「――違うわ」
「真実を知れば落胆する。それが現実だ」
「……何が欲しいの? 言葉が欲しい? 信頼が欲しい? それとも、裁きが欲しいの?」
アーサーの体がこわばる。絡めた視線の先で、戸惑うような光が揺れた。
それをまっすぐ受け止めて、カトリーナはふわりと笑顔を浮かべる。
「あなたがバルトの王です。真実なんて人それぞれよ。国民は明主たる者に従うわ。人が付き従う、それが、あなたがバルト王である証にはなりませんか?」
目を見開く男に、少女は笑顔を向ける。
「誰でも始めはただの人よ。裁量を買われて地位を手に入れるの。本来はそういうものでしょ?」
そこに固定概念が生まれるだけなのだと、カトリーナは意見してから思う。人は時として、本当にどうでもいいことにすがろうとする。それは愚かではないけれど、とても寂しいことなのではないか。
「私はあなたに従います。――生涯償わねばならない罪がおありなら、その枷を半分、私にお与えください」
ざわめきの中で祈るように言葉にする。目を見張る男の体からふと力が抜けた瞬間、よく通る男の声が彼の名を呼んだ。
喧騒が一段と大きくなった。
「今日は市がたってるから昼からもっと混みますぜ。早々にお帰りになったほうがいい」
髭面の店主が張り上げた大声は喧騒に負けをとらず、皆がぎょっとしてあたりを見渡した。二人の周りに空間ができると、カトリーナは戸惑うアーサーをまっすぐ見つめながら一歩さがった。
そして、ゆっくりと膝を折る。
さらに空間が大きくなるのとは逆に、ざわめきが小波のように引いていく。
王を前に優雅な仕草でひざまずく少女は侍女の姿をしている。けれど一介の侍女でないことはまとう気品が物語っていた。
カトリーナは伏せた顔を上げた。
「そばにおいてください、陛下」
よく通る澄んだ声にアーサーは目を閉じる。深く息を吐き出してから浮かべたのは、苦笑にも似た、にじむような笑顔だった。
大通りの一角が水を打ったように静かになる。この、珍事を通り越した怪事に、人々は状況さえのみこめずに唖然とした。
「お前には負けた。――すまないが」
アーサーは辺りを見渡した。
「皆、証人になってくれ」
朗々と響く声に皆が目を瞬く。渦中の人であるカトリーナでさえ、その言葉の意味するところをはかりかねて彼を見つめた。
ゆったりと近づいたアーサーは膝を折ってカトリーナに視線を合わせ、深く頷いてから驚く彼女の手を取り立ち上がらせた。そして戸惑う彼女にもう一度頷く。
「陛下? 一体どうしたって……」
髭面の店主が身を乗り出して怒鳴ると、アーサーは彼に向き直って笑みを浮かべる。威容に一瞬息をのんだ男は鋭く何かを感じ取ってさらに身を乗り出した。
「もしかして、カトリーナ様と」
あとは言葉にならなかった。歓喜に満ちたその顔が紅潮して拳を天空に突き上げると同時、
「婚儀はロルサーバ国王到着後だ。皆、盛大に祝ってくれ」
アーサーの言葉が続き、静まり返った人垣にざわめきが起こる。それが瞬く間に伝染し騒ぎへと変化し、驚きと祝辞が向けられ始めたころ、カトリーナはようやく惚けたようにアーサーを見上げた。
何を言われているのか、まだ意味がわからなかった。
必死で追いかけた毎日があまりにも当たり前になりすぎて、受け入れられるという前向きな希望さえ忘れていた。
「……婚儀って、……私と、陛下の?」
「……他に誰と結婚する気だ?」
少し怒ったように返されカトリーナが悲鳴をあげる。感極まって抱きつくと歓声が一段と高く大気を揺らし、伝染するように瞬く間に広がっていった。
王家にとって婚礼は儀式の一環だが、国民にとっては国を挙げての盛大な祭りである。嬉々とするのも道理だった。
逆に、待ちに待ったこの慶事にどれほどの人と金が動くのかを想像した行商たちは顔色を変えた。市に浮かれて次の荷が婚儀に間に合わねば大損をする。そう思って慌てふためく商人たちを尻目に、市を見にやってきた民は苦笑と声援と、慶びを叫ぶ。
とまらない大歓声に驚くカトリーナを導くようにアーサーは歩き始めた。
「後悔は?」
あの状態で断れば自分が大恥をかいただろう。気を遣わせたのかもしれないと、彼女は緊張しながら彼を見つめた。
「それはオレの言葉だ。後悔は? 秘密を持つのは、意外につらいぞ」
「平気よ」
自然とわかれる人波をゆったりと進みながら、少し背伸びをして彼に告げる。嬉しくて飛び跳ねたいのをぐっとこらえ、やっと手に入れた言葉の重みを全身で感じ取る。望んだのは大国の王の妃ではなく、アーサーの伴侶としての未来――しかし、目の前にあるのは、これから彼女が背負っていく多くの国民たちの期待だった。
緊張するが不思議と重圧に感じないのは、隣に立つ男のお陰かもしれない。
悠然とかまえるアーサーは、どんな経緯であれ、やはり一国の王なのだ。護られるように歩きながら、彼女は祝辞に耳を傾け微笑んだ。
そして、少しだけ表情を引きしめる。
「陛下」
歓声にかき消されないように、けれど彼以外には聞かれないように、カトリーナは細心の注意をはらう。
「群集にイーサの人間がまぎれてるわ」
驚く彼に笑顔を向ける。ぽつりぽつりと目立たないようにまぎれているが、服装になんとなく違和感がある。城に侵入するのとまた違った輩かもしれないが、それにしてもたまたま訪れたにしては数が多すぎる。
「陛下の命を狙ってるわけじゃなさそうなの。だけど、気をつけて」
「……よくわかるな」
「陛下もお気付きでしょう?」
「ああ」
平然と問い返したカトリーナに感心してアーサーは笑みをこぼす。その笑顔を見て、彼女は激しい動悸に少し狼狽えた。赤くなる彼女には気付かず、アーサーはカトリーナの肩を抱いて自分のそばに引き寄せる。
心配するなということなのだろう。
頼もしいのは第一印象から変わらない。
安心して身を任せながら、カトリーナは警戒するように視線だけ群集に向け続ける。
ふとすれ違った男に彼女は思わず振り返った。
ゆらりと歩いた男はすぐに人ごみにまみれて消えた。
「カトリーナ?」
「……なんでもありません」
笑顔で答えて前を向く。
――見覚えのある男がいた。どこでだったのか思い出せず、彼女は必死に記憶を掘り起こす。
幸せに包まれながら、ひどく不安になる自分がいた。