【八】
王と姫君の珍妙なやりとりはその日のうちに町中に広まり噂となった。侍女の姿で歩き回るなど不謹慎だとののしる者もいたが、多くの者は城を手伝う風変わりな姫君に興味を持った。
しかも国王自ら会議を放り出して捜しに来たらしい。
目撃者の多くは、あとは吉報を待つだけだと大げさに吹聴した。
そして現在、噂の
「や、やましくないわ。断じてやましくないわ。総長に秘蔵酒をわけてもらったのよ。お酒は得意じゃないから、陛下に差し上げにきただけよ」
買い出したものを届けると、未来の王妃になる可能性がある娘を見て調理場は大混乱した。唯一、総料理長である男だけが、なるほど口が肥えてるはずだと苦笑して、カトリーナに果実酒の瓶を手渡した。
――アーサーが好きな銘柄らしい。
なかなか手に入らないから、祝辞用に取っておいたのだと付け足して、遠慮するカトリーナに押し付けた。
カトリーナは瓶を抱きしめ何度も深呼吸してからドアをノックした。
前回の来訪よりも多少時間は早いが、また眠っている可能性もある。そう思って再びノックをしようとしたカトリーナの目の前で、ドアはあっさりと開いた。
「どうした?」
男の背後は皓皓とした光で満たされている。大きな机には書類が山積みになり、椅子は中途半端な位置に置き去りにされていた。
「お取り込み中でした?」
「――いや、少し休もうと思っていたところだ」
おっかなびっくり尋ねると、意外に好感触が返ってきた。
カトリーナが手にした果実酒の瓶を差し出すと、アーサーは目を見張ってから嬉しそうに笑みをこぼした。
「どうした?」
「総料理長からいただきました」
「もう在庫はないと言ってたんだが……よく出したな」
入れというように体をずらされ、カトリーナは素直にしたがって入室する。
「陛下のお好きな酒だと伺いました」
「好きもなにも、年間五十本の限定品だ。金に糸目をつけない人間なら喉から手が出るほど欲しがる」
機嫌よく告げられてカトリーナはまじまじと瓶を見た。質素な濃紺の瓶には、名を記した紙が一枚貼られているだけで、これといった特徴もない。それなりに味を覚えたカトリーナでさえ、店に並んでいたら手に取ることなく素通りするだろう種類だった。
「そんなふうには見えないわ」
「だろうな」
椅子をすすめながら微苦笑して、アーサーは瓶を受け取って開封しながら棚に向かう。よく見れば、彼の部屋には果実酒と優美なグラスを収納する専用の棚が置かれていた。相当に好きらしいと知って、期待しながら大人しく待っていると、彼はグラスを二つ手にして戻ってきた。
カトリーナにひとつを手渡し果実酒をそそぐ。うっすらと花の色をまとう液体は、柔らかな香りで彼女の鼻腔をくすぐった。
確かに調理室に運ばれた酒とは格段に質が違う。ちらりとアーサーを伺い見ると、彼が小さく頷き返した。
一口含んで納得する。口腔に広がる酸味と果実酒独特の甘みの調和が感心するほどいい。癖はあるがあとに引く種類のものではなく、喉越しが意外なほどすっきりとしていた。
「おいしい」
上品に飲むためにある果実酒だ。そう思っていると、アーサーがカトリーナのグラスに酒を足し、自分のグラスにもそそいで椅子に腰掛けた。
「酸化が早いから飲みきるのが鉄則だ」
そう言って小さく笑ってグラスをあおる。大胆な飲み方にカトリーナが抗議の声をあげた。
「もったいないわ。こういったものは味わって飲むのよ」
「開封直後が一番味がいいんだ。ほら」
瓶を差し出され、カトリーナは慌ててグラスをあけた。三度目の酒は、確かにさっきよりも少し酸味がきつくなる。それでも飲みやすさは変わらず、カトリーナも豪快にグラスをあおる男を真似て果実酒を飲み干した。
体の奥から熱くなる。途中でなかなかきつい酒だと気づいたが、かまわずアーサーにグラスを突き出した。
「ねえ、陛下は私のことがお嫌い?」
グラスに触れた瓶が小さく音をたてて止まった。
「私は陛下のことが好きよ」
「……この国の者が何を望んでいるか知ってるか?」
「え?」
「オレはそれに応える資格がない。伴侶を得ても、幸せにはできない」
「――なぜ?」
問いかけた瞬間脳裏に浮かんだのは、森の中の閉ざされた空間だった。償いをするように彼は毎日花を
「オレはここにいてはならない人間だ。本来この世界に何も残すべきじゃなかった。――これからも残してはならない。だから、お前には応えられない」
「おっしゃっている意味がわかりません」
「……オレは、あやまちを正すためにここにいるんだ。ただ」
彼は考えるようにグラスに視線を落とした。複雑な感情が入り乱れる瞳をそっと伏せ、グラスに口をつける。
「悪夢が、切れた」
何度か酒をあおってそうこぼす。口を挟むのもはばかられてカトリーナはじっと彼の言葉を待った。
やがて彼は再び口を開く。ぽつりぽつりと語られる内容は、カトリーナにはひどく不可解なものだった。だが、その表情から彼には大切な意味を持つのだろうことは容易に想像がついた。
「ずっと続いていた悪夢が途切れた。今は何もなく、世界はただ白い」
淡々とした声はそこで途切れる。彼はカトリーナのグラスに酒をついで小さく息を吐き出した。
「……いつからですか?」
尋ねても、アーサーはグラスに視線を落としたまま返答しない。
「私のことはお嫌い?」
二つ目の問いにアーサーは視線を上げた。しかし、やはり同様に返答はない。静かな眼差しにカトリーナはひどく打ちひしがれた気持ちになる。
――嫌ってはいないが、受け入れる気もない。
聡くそれを悟ってカトリーナは果実酒を飲み干した。アーサーの答えは拒絶よりも残酷だ。突き放してくれれば恨み言のひとつも吐けるのに、それすら許してくれない。
お互いに嫌ってはいないはずなのに、手を差し伸べれば触れるほど近いのに、心だけはいつものように空回りし続ける。
くらくらと酔いながら、酸味を通り越して苦くさえ感じる酒で喉の奥を焼いた。
上等の酒は、なぜだか涙の味がする。それがどうしても納得いかなくてなれない酒を喉の奥に何度も流し込んだ。
「カトリーナ様」
揺れる世界の中で低い女の声がカトリーナの名を呼んでいる。
「カトリーナ様」
彼女はそっぽを向いて体を丸めた。
「カトリーナ様」
「……ひどいのよ、陛下は。私のことは嫌いじゃないって言って優しくしてくださるの。でも、応えられないって突き放すのよ」
「……もうお昼ですよ、カトリーナ様」
いつもの調子で言われ、カトリーナはようやく顔を上げる。間近に立つメアリはどこか困ったような表情でカトリーナに起きるよう促した。
彼女はのろのろと体を起こし、そして天蓋つきの見慣れぬベッドを見渡して小首を傾げた。
「ここはどこ?」
「陛下の寝所です」
「――ひどいのよ、陛下は」
「左様でございますね」
泣きそうな顔で訴えると、メアリは深く頷いた。カトリーナの行動を責めることなく、珍しく同意してくれる彼女に思わず涙腺がゆるくなった。
「添い寝くらいしてくれたっていいじゃない! どうせ長椅子で寝たんでしょ、そうでしょ!?」
「……」
「ひどいわ!」
夜着の袖で涙をぬぐってカトリーナは真っ赤になった目をメアリに向けた。いったい何がいけないことなのかわからない彼女は、メアリに言われるまま着替えて食事をとった。
そしてずかずかと廊下を歩く。昨日の一件からすっかり皆の関心を集めることになった彼女は、多くの視線をものともせずに相も変わらずアーサーの姿を探している。
そして、窓から見える景色に足を止めた。
緑の中に鮮やかな色彩が混じっている。階段をおり、彼女はドレスの裾が汚れるのも気にせずに森を分け入って、そしてひっそりと咲く花の前で立ち止まった。ひざまずいて花を摘み、誘われるように森の奥へと入っていく。これほど木々が生い茂り視界が悪いのに、いつも不思議なくらい迷いもせずに歩くことができる。
やがて、彼女は三つの墓標が並ぶ小さな広場に辿りついた。
墓標の前には、以前と変わりなく花がそなえてある。今朝方摘んだばかりなのだろう花に視線をとめて、彼女も同じように三つの墓標へと花を手向ける。
「あやまちって何? あの方は、一生あのまま過ごすの?」
堅実な王として生き、個人としての自由のないまま死んでいくのだろうか。国を栄えさせるためだけに生きるのは、国民にとっては良き王に違いない。これほど民を考える国などそう多くはない。
けれど――。
「私には、辛そうに見えるの」
言葉にすると同時に涙があふれた。慌ててそれをぬぐい、小さく頭を下げる。故人に愚痴を聞かせたことを自責して顔をあげた。
「ごめんなさい、また来るわ」
ここにはアーサーの大切な人が眠っているに違いない。そんな人を不安にさせる言葉を残すなど、あまりに配慮が足りない。
沈みながら彼女はその場から立ち去り、森の中をうろうろと歩き回る。森で迷ってしまえば、アーサーが心配して捜しに来てくれるだろうかと子供じみたことを考えてカトリーナは苦笑した。
捜しに来てくれるだろうが、彼の仕事が増え、彼を大変にさせるだけだ。空を見上げてゆっくりと草を踏みしめ前に進む。あてどなく森を彷徨っていると遠くから高い金属音が聞こえてきて、彼女は耳を澄ました。
見当をつけ歩き出すとすぐに森を抜け、厩舎が視界に入ってきた。
なんとなく好奇心に駆られて覗き込むと、多くの馬が柵のなかで待機している。どれもこれも、よく鍛えられ、こまめに面倒を見てもらっているのだろう。毛づやのいい馬たちにカトリーナは笑顔になり、そして他の馬同様に面倒をみてもらっているらしい愛馬の姿を発見する。
よく見れば、隣にはアーサーの騎乗する馬がいた。
「……お前はいいわね、いつもそばにいられて」
ぷうっと膨れて小さく文句を言い、彼女は厩舎から離れた。足元の小石を蹴りながら金属音がする場所へと向かい、小石が板と板の間に吸い込まれるように消えるのを見て足を止める。せせらぎに小首を傾げ、幅の広い板が張られている場所に近づいて隙間を覗き込むと、そこには闇が広がっていた。
「水路?」
手をかけて板を一枚はずし、カトリーナは驚く。バルトは運河を利用し利便をはかり、そして発展してきた国である。腐りかけた板からずいぶん長く使われていない予想はついたが、こんなところにもその名残があるのかと感心した。
中はかなり広い。探索するには男物の服を借りる必要があるだろう。どこまで続いているのか興味を引かれながら、カトリーナは板を元通りに戻して再び金属音のするほうへと歩き出した。そして、建物の角を折れたところで剣の稽古にはげむ男たちの姿を認める。
「次!」
討ち取られた兵士が軽く頭をさげて去ると別の兵士が剣をかまえた。
「始め!」
広い空き地には多くの男たちが剣をかまえて打ち合っている。その中で、対戦するように練習をこなす男たちの周りだけ小さな人だかりができていた。カトリーナはその姿をしばらく眺めてから駆け出した。喚声をぬって、途中で放置された剣を拾い、ちょろちょろ動き回る少女に驚いて身を引いた男たちの間を足早に抜けた。
「やめ! 次!」
号令と同時にカトリーナが中央へ出ると、剣を手にした彼女の姿にどよめきが起きた。集まるのは鍛錬にはげむ兵士ばかり、少女の姿はひどく浮いている。
順番を待っていた兵士が呆けたようにカトリーナを見て、手に剣を認めるとすぐに周りに助けを求めて視線を彷徨わせた。かまわず剣をかまえた彼女の前に立ったのは、号令をかけ続けていた男だ。たしなめることなく、彼は無言で剣を抜いた。
ざわめきを無視して剣を合わせる。試合の合図とともに肩が痺れるような衝撃がきて、カトリーナはとっさに剣を強く握りなおした。
見極めるのは剣の行方ではなく、剣を操る体の動きだと教えられたことがある。そうすればおのずと剣の行方は知れ、防御は易くなる。
ざわめきが驚きの喚声に変わった。
剣の腕はイーサ国王直伝だ。筋がいい、女でこれほどの腕前はまずいないだろうと、調子のいい男は笑顔で告げた。
しかし、男も自ら剣を抜いただけあって相当な手錬れだった。どう攻めても確実に受け流されてしまう。腕力がない分、カトリーナには不利な試合だ。
手首を返す。突き上げた剣先は男の頬をかすめ、男の剣はカトリーナの腕をかすめた。
喚声が満ちる。
同時に剣を引き、一歩後退した。
「手を抜けば負けると思ったのは久しぶりです」
男は笑顔を見せる。剣を鞘におさめ、手を差し伸べてきた。
「傷の手当を、カトリーナ様」
「傷? あら、本当」
服が裂け、うっすらと血がにじんでいる。
「各自、練習はじめ!」
男は野次馬にそう怒鳴り、カトリーナを練習場の片隅に置かれている丸太の上に座るよう指示して膝をついた。
「処罰はいかようにも受けます」
「なんの処罰?」
「姫君に傷を負わせれば当然です」
ベルトについていた小さな皮の容器から小瓶と布を取り出し、傷を消毒して包帯を巻く。手早いその動きに感心して、カトリーナは小さく笑った。
「私が先に剣を抜いたのよ。あなたは相手をしてくれただけ。――ありがとう、少しすっきりしたわ」
男は顔を上げてから目じりを下げて会釈する。
「こちらこそ。女性であれほどの腕を持つ方にお会いしたのは、フィリシア様以来です」
「フィリシア?」
「――前王の婚約者でいらっしゃった」
「ああ、舞姫ね。強かった?」
「あれが人間技かと疑うほど」
この腕を持つ男が褒めるなら相当な使い手なのだろうが、過去にそんな噂は耳にしたことがない。意外に思いながら、カトリーナは尋ねた。
「手合わせしたことがあるの?」
「とんでもない。自分など一瞬で倒されてます。あの方は、命の恩人で」
手当てを終えた男は一歩後退して膝をついた。
「戦乱の折、自分は王の寝所を守る親衛隊隊員でした。不意打ちでひどい怪我を負って……仲間と、フィリシア様と隊長がいなければ、あの時死んでいたでしょう」
どこか苦く笑い、彼は言葉をつづけた。
「生き残ったのは、結局死に損ないの自分だけでした」
「あなた一人だけ?」
「はい」
そっと腹部に手をやる。
「的確な処置をしていただき、一命を取り留めた。今でもなぜ自分だけが生き残ったのかと、そう思うことがあります」
「――いろいろ、辛かったのね」
カトリーナは治療された腕を見る。応急処置がいつでもできるよう備えているのは、そんな過去があるからなのかもしれない。
男は首を振った。
「戦の傷はあとを引きます。メアリも」
カトリーナの視線を感じ、男は言葉を切った。
「メアリが、なに?」
「……妹がいたそうです。フィリシア様つきの侍女で、意識のない自分の看病も買って出てくれた。戦で死んだらしいと」
「……メアリは王族が嫌いかしら?」
ただ悪戯に巻き込まれて死んだのなら恨んでいてもおかしくはない。妹というなら相当に若かったのだろう。死ぬにはあまりに早すぎたくらいに。
この時代、戦いの多くは国と国の対立の図式が表面化した結果といっても過言ではない。
王国を望む者がいる反面、疎む者もいる。
再び沈みそうになった彼女の視界が暗くなった。頭に優しく何かが触れる。
「メアリは私情を挟む女じゃない。だから、任せた」
低い声にカトリーナが驚いて顔を上げると、静かに告げた声の主はちらりとひざまずく男に視線をやった。
「油を売ってないで兵士の面倒を見ろ、隊長。今年はよさそうなのがいるか?」
問いながら、あきれるほどの軽装で剣を一本振り回しアーサーが広場の中央へと向かう。ざわめく兵士たちはすぐに道を開けて集まってきた。
「陛下!」
カトリーナは剣を手に立ち上がった。つれないことばかりする男は、彼女を試すように優しい仕草を取ることがある。それが嬉しくもあり、悔しくもあり、一喜一憂する自分がひどく滑稽に思えて腹が立つ。
「手合わせ願います!」
優しく頭を撫でた手は愛撫するように頬をかすめ、今はしっかりと剣を握っている。その瞳は呆れるような光さえ浮かべてカトリーナを見た。
釈然としない、納得がいかない。
「勝ったら結婚してください!」
どよめく周りを無視して申し出るとアーサーは苦笑した。
「それは受けられないな」
「なぜですか――!?」
「自分で考えろ」
剣をかまえた男は昨日とは違い、意地悪な笑みでそう返す。意気揚々と剣をかまえたカトリーナは勝利を得るために奮起した。
そして、見事に惨敗した。