【二】

 風評というのはどこかで必ず生まれるものだ。
 正しいものもあれば間違っているものもある。だが、火のないところに煙は立たず、噂は少なからず真実をまとって世界を駆けてゆく。
 バルトのアーサー王は変わり者の堅物。
 疑心悪鬼で誰も信用しないとか、そもそも女嫌いであるとか、死んだ兄の弔いのために独身を通しているのだとか、それはそれは胡散臭い話ばかりがまことしやかに囁かれていた。
「確か前王も結婚が遅かったとか……」
 成婚間近にイリジアに攻め込まれ、不運にも婚約者とともに命を落としたと耳にした。婚約者は大陸一の踊り子で、失踪して戻ってきたときには記憶を失い身篭っていたらしい。
 馬を駆りながら少女――ロルサーバの第三王女、カトリーナは小さくうなり声を上げた。
 大国が踊り子を、ましてや身篭った娘を王妃として迎え入れようとしていたという事実だけでも奇異である。
 とくに正室となる娘に純潔を求める国は多い。正室を持ち、側室を寵姫として囲うならこの限りではないが、それにしても変わった国という諸国からの評価には頷かざるを得なかった。
 その弟なら、やはり変わり者なのかもしれない。
 相変わらずのボロ布をまといながら、カトリーナは森の中を移動していく。本当なら使者が書状をたずさえて目通りを求め、それから姫が向かうのが一般的だ。そのときに金品や刺繍、織物など、姫君自らが作ったものを持参する。
 それらは高貴な娘のたしなみとされる。
 しかし、カトリーナの場合は使者として遣わすだけの人間がいない。皆自分たちのことで手一杯なのだ。加えて彼女自身、裁縫の腕はからきしである。逆に不評を買いかねないので無駄な努力はやめて手ぶらとなる。
 縁談のすべてが破談で終止符を打たれるのは、ロルサーバの貧困さと彼女自身の態度にも問題があるわけだが、当人は断られても一向に気にした風はなかった。
 十二歳のときから敗れ続けた回数など数えるだけでも馬鹿馬鹿しい。
 それならいっそ、本当に好いた人といっしょになろうと心に決めていた。王族など関係なく、爵位など気にせず、そばにいたいと思える男性が現れるまでずっと独り身でもかまわないとさえ考えていた。
 もちろん、父は頭を抱えている。
 婚姻を結べない姫は、頭か体に問題があるのだろうと噂され、さらに良縁から遠ざかっていくためだ。
 彼も彼なりに、国交とはまったく別の次元で娘の未来を心配していた。本来なら政略の武器ともなる結婚は国と国を繋ぐものだが、力のない国はそればかりではない。より多くの援助を受けるには、正妻に、それが駄目なら寵姫に――そう考える。
 だが、カトリーナはその器ではなく、なぜか行く先々で揉め事を起こしている。ゆえにロルサーバの王は、援助は二の次、ひとまず彼女を受け入れられる度量の男性を探している。
 そのことを知るがゆえに、カトリーナは単身でバルトに向かうことにした。さすがに大国の正室になれるとは思ってはいない。道すがら、何か面白いことがあればいいと呑気に考えていた。
 バルトは交易で栄える国、商人の町だ。面白いものもたくさん集まってくるだろう。
 バルト王に会って、運がよければ宿を借り、食事ができれば願ったりかなったりだ。保存食をちびちび食べ、木の実をつまむのも嫌いではないが、たまにはちょっといい食事にも憧れる。
 時間ができれば城下町に行って露店を見て歩くのだ。
「んー完璧」
 最短距離を選んで森を移動しているのが実に惜しい。馬の背に揺られながら、カトリーナは瞳を細めて木々の間から垣間見える空を眺め、枝についていた小花を摘んで、ふと視線を地上へと戻す。
 密林とも言うべき森の一部が途切れている。不思議に思い、彼女は手綱を繰り馬の軌道を修正してその空間へと向かった。
 すぐに彼女は、小さく拓けてはいるが人の手が加わったようには思えない、広場というにはあまりに狭い空間に行き着いた。馬をおり、カトリーナは目に付いた三つの石へと足を向ける。
「墓標?」
 名もなく、ただそこに置かれているだけかもしれないが、カトリーナの目にはそう映った。石にはそれぞれ花が添えられている。墓標かと思うとなんとなく落ち着かない気持ちになって、彼女も摘んだばかりの花を中央の石の前に置き、膝を折って手を合わせた。
「おや、珍しいねぇ。こんなところに迷い込んでくるなんて」
 ふいに間近でしゃがれた声がして、カトリーナは小さく悲鳴をあげて立ち上がった。人の気配などなく、まるでそこに沸いたような唐突さが不気味だった。
 魔獣の類かとカトリーナはとっさに疑う。多くはないが、開墾されていない森にはまだ生息しているという確認情報がある。魔獣は賢く、人の言葉を解すれば、それを操るものもいるらしい。油断はできなかった。
「そう警戒しなさるな。なに、様子を見に来ただけさ。そろそろだと思ってね」
 闇に溶けるような黒衣をまとった小さな老婆は体をゆすりながら笑って、すっぽりと顔を覆いつくしていたフードの一部を枯れ枝のような指で押し上げた。
「人?」
 フードの下にある双眸は、とても人のものとは思えない。けれど、獣のものかと問われれば、それは違うと答えるに違いない、神秘的で悲しげな光をたたえていた。
 カトリーナは老婆を凝視した。
「あなたは、誰?」
「……ようやくここまで辿り着いたかい。長かったねぇ。本当に、気が狂うほどの時間だったろうさ。でも、これでようやく救われる。まったく、あの娘もあの男も、たいしたもんだ」
 カトリーナの問いには答えず、老婆は三つの石に目礼してするりと後退した。
「さあお行き。未来に理想郷と呼ばれる国へ」
 老婆の指が森へ向く。つられたように視線をやって、木々の間から見える巨大な建造物に驚きの声をあげた。
「あれが」
 バルト城――すべての人々を等しく受け入れることを理念とし、城壁を持たずに存在し続ける大国の王城。
 カトリーナはしばらく城を見つめ、改めて老婆に問おうとして目を瞬く。現れたときと同じように、老婆は音もなく忽然と姿を消していた。
「夢かしら」
 そう言って今度は城に視線をやるが、その姿も消えており、カトリーナは呆気に取られて立ち尽くした。路銀の関係でボロ宿に泊まったが、睡眠は充分とっている。錯乱するほどの空腹もなく、魔獣の気配もなく、幻を見る原因も思い当たらない。
 カトリーナは首をひねりながら愛馬に近づき、馬がひどく興奮していることに気付いてさらに首を傾げた。
「どうしたの? 落ち着きなさい、怖がらなくても大丈夫」
 そっと鼻筋を撫でると、馬は激しく頭を振りながら大地を蹴る。
「大丈夫よ、何を興奮してるの?」
 根気強く話しかけると、馬はようやく気を鎮めて大きく息を吐き出した。まだ完全に落ち着いたわけではないようだが、彼女はかまわず鐙に足をかけて馬にまたがり手綱を引いた。
 馬がいななく。
 直後、ぐらりと視界が揺れた。
 体が大きく後ろにのけぞり、とっさに彼女は上体を倒して馬の首にすがりついた。激しく嘶きながら前足で空を蹴る。すぐにその足は大地を蹴り押した。
「リンダ!?」
 気性の荒い馬ではない。むろん、過去に暴走したこともなかった。
 しかし、馬は速度を緩めることなく森を駆けてゆく。何度も木に突進しかけ、そのたびに嘶いて向きを変えて再び暴走を始める。
 馬にしがみつくので必死だった。早くなだめないと振り落とされかねないが、とてもそんなゆとりはない。
 どこにこれだけの力があるのかと驚くほど、馬は荒々しく大地を蹴る。腕の感覚がなくなり、体がわずかに馬の背から浮いた。もう駄目だと思った刹那、暴れ馬に近づく影があった。
「手を離せ」
 短く鋭い声が耳朶を打つ。不意に腕が掴まれ、驚く間もなく体がかしいだ。恐怖に硬直したカトリーナはとっさに双眸を閉じたが、予想された激痛は訪れることなく、変わりに短い言葉が続いた。
「シャドー、止めろ」
 低く響く声に、そろりと顔を上げた。深い森の――空さえ喰らい尽くしそうな木々の合間に何か黒い獣のような物がいる。ざわりと気味の悪い音が聞こえた瞬間、枝が大きく揺れて気配が去った。
 思わず触れていたものにすがりつき、カトリーナは視線を空から地上へと落として呆然とした。
 自分が乗っていた愛馬が森の中を駆けていくのが見えたのだ。
 どうして、と考えるよりも先に彼女は振り返り、さらに呆然とした。
 ぴたりと体をあわせるように男の体がある。愛馬から振り落とされそうになったあの一瞬、強引に腕を引かれて男に助けられたのだと初めて知った。
 木々の多い森だ。振り落とされたなら骨折どころではすまなかったろう。
 そう考えて震え上がり、カトリーナは凛とした顔を正面に向けたまま器用に手綱を操り進んでいく男を盗み見た。
 山賊ではない。おそらく、かなり身分が高いに違いない。地味だが上質な衣装、よく鍛えられ慣らされた馬、さらに男自身の風格がカトリーナにそれを伝えてきた。
 ひどく緊張しているのは、男に気圧されているからだ。
 見合い話をことごとく破談させてきたカトリーナは、様々な身分の男を見てきていた。貴族や商人、もちろん一国の王もいた。
 だが、そんな男たちとは一線を画している。
 おそらくは彼が――。
 直感が働いた。
 供もつけないとは、なんと大胆な男なのだろう。豪気と表現したくなるようなその行動力に感嘆して身を預ける。
 やがて馬は減速し、その先には彼女の愛馬が鼻息荒く蹄を鳴らす姿があった。
 手綱が木の枝に結わえてあり、それを見てカトリーナの目が丸くなる。どう考えても自然に巻きついたとは思えなかったが、男は馬からおりてカトリーナに手を差し出し、慣れた手つきで手綱をはずして彼女に手渡した。
「いい馬だ」
 カトリーナの愛馬を軽く撫で、彼は再び馬上に戻った。
「女の一人旅は物騒だ。この森はさほどではないが、道中は気をつけろ」
 静かに言葉をかけ、礼を言ういとまもなく、彼は手綱を引いて密林の中を風のように去っていった。
 ざわりと再び木々が鳴く。
 何かが動く気配がしてカトリーナは慌てて空を仰いだが、深い森は相変わらず細切れの空を取り込むばかりだった。しばらく上空を見つめ、やがて視線を男が去った方角へと向けた。
「あれがアーサー王」
 イリジアとの争いでいったんは傾いた国を、わずか十年という驚異的な速度で再興させた大国の王。ずいぶんと切れる男だが、それ以上に難が多いと囁かれていた。
 一見しただけで普通の男と違うことはわかった。まっとうな道など進んできてはいないだろうと、カトリーナは確信めいた思いを抱く。
「少し、楽しそうね」
 興奮が冷めた愛馬に手を伸ばし、少女は小さく笑みを浮かべた。

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