【十三】
目を開けると、そこにはアーサーの姿があった。
「気分は?」
グラスに水をつぎ、体を起こすカトリーナを支えて水を飲ませてからアーサーは静かに尋ねてきた。高熱を出して数日間の記憶がないカトリーナは渇く喉を潤し、心配そうな彼にきょとんとして微笑む。
「悪くないわ。でも、お腹がすいた」
素直に告白するとくしゃりと頭を撫でてアーサーが離れていく。
「何か軽いものを」
「陛下!」
メアリに声をかけながら遠ざかっていく彼に焦りを覚えてカトリーナは寝台から身を乗り出して呼び止める。すぐに戻ってきた彼にほっとして口を開いた。
「成婚の儀は……?」
「父君が二日前に到着した。お前の容態が回復次第執り行う予定だが」
「よ……よかったぁ」
連日の無茶で破談になってしまったのではないかと冷や冷やしたカトリーナは至極満悦の
しかも会議室まで押しかけて倒れたとあっては、彼の面目は丸つぶれだ。
「愛想をつかされたかと思いました」
素直に告げるとアーサーが苦笑した。
「愛想? お前の書状一枚でイーサ国王が動いたのにか?」
「え?」
「凄かったぞ。強行軍でえりぬきの精鋭部隊をよこしてイーサの人間を根こそぎ連行していった。愚弟にはよく言い聞かせると渋い顔で謝罪してきて、遠路はるばる来たついでに成婚の儀も出席してくださるらしい」
「
「ああ。レリャンの王ともどもな」
「キリエ様も――!?」
「お前の人脈には感心する。お二方とも、お前が起きたと知らせればすぐに駆けつけてくださるだろう」
「じゃじゃ馬で喧嘩腰の、嫌な娘だと言ってたでしょ?」
「ああ。すぐに揉め事を起こす困った姫君だと」
「……失礼だわ」
自分で言ったにもかかわらず補足されて膨れっ面になる。それが面白かったのか、アーサーが快活に笑い声をあげて大きな手で柔らかくカトリーナの頬を包んだ。
「しばらくは安静にしてくれ。これじゃいつまでたっても成婚の儀が先送りだ」
御触れが出てから何日経過しているのか正確にはわからないが、予定よりずいぶんと伸びてしまったに違いない。そのあいだ、アーサーは気長に待ってくれていたのだ。
目が覚めて、一番初めに彼の姿があったことがひどく嬉しい。機嫌よく手に頬ずりするとアーサーが瞳を細めた。
ふいに食欲をそそる香りがただよってきて、カトリーナは視線をドアに向ける。いつ目が覚めてもいいように用意されていたのか、さほど時間をおかずに湯気をたてる食事が運ばれてきた。
食事といっても固形物ではない。数日間の不調を考慮した献立に、カトリーナはメアリを見上げた。彼女もしばらくは寝込んでいたと聞いていたのに、まるで何事もなかったように応対するその態度にただ感心して口を開く。
「いろいろ心配をかけてごめんなさい。助けてくれてありがとう」
専用の卓をベッドに固定していたメアリはカトリーナの言葉に驚いて手をとめ、そして小さく会釈をした。
「恐れ入ります。もっと早くに対処できたらよかったのですが……遅れて辛い目にあわせてしまいました」
「そんなことないわ。あのまま水路に流されてたら死んでたかもしれない。本当にありがとう。これからも苦労をかけてしまうけど、お願いできる?」
「護身用の剣を持っていただければ喜んで」
「……持っていいの?」
「じっと守られる姫君でないことはよくわかりました。剣を手に幸せになった王妃など知りませんが、あなたは目端が利く上、皆が思っている以上に聡い女性です」
「過大評価しすぎよ」
くすりと笑う。確かにいろいろな土地を渡り歩いたぶん見聞は広いが、知識のおおくは雑学と呼ばれる部類のもので、ときどきは役に立つこともあるが、問題を引き起こすほうがはるかに多かった。
それが自分の性格ゆえであると自覚したカトリーナは苦笑しながら出された食事を食べ始めた。消化にいいようにすりつぶされた食事は決しておいしいものではなかったが、文句などひとつも出てこない。逆に、胸がいっぱいになるような気分だった。
「――昔」
ぽつりとメアリが口を開く。
「私の妹も王の婚約者付きの侍女でした。妹は、毎日毎日、それは嬉しそうにしていて……私には、堅苦しい方に仕えるのがどうしてそんなに嬉しいのかよくわからなかった」
食事の手を休めて顔をあげると、メアリは瞳を伏せて小さく笑った。
「今は少しわかります。あの子は、きっと幸せだったに違いありません。あの笑顔を私は長いこと見落としていました」
穏やかに告げ、メアリは一礼して退室していった。静寂に包まれた部屋でカトリーナは小さく息を吐き出す。なんとなく、いてもたってもいられない気分になった。
「陛下、付き合っていただけます?」
食事もそこそこにベッドから降りようとする少女に男はさすがに狼狽えて止めにはいる。しかし、彼女はそれを軽く交わして立ち上がった。
くらりと床が揺れて傾いた体をアーサーがとっさに支えた。一人で着替えるのはさすがに難しい。メアリを呼んでもらおうかと思ったが、間違いなくとめられそうなので伺うようにアーサーを見上げた。
「えっとね?」
「なんだ?」
「に、臭わない?」
「……病人がくだらないことを心配するな」
密着できるのは嬉しいが、ずっと寝込んでいた彼女はどうしても体臭が気になる。小声で尋ねると、アーサーに溜め息混じりに言われてカトリーナは誤魔化すように笑った。
こんなに足元がふらつくならゴテゴテのドレスを一人で着るのは難しいどころの騒ぎではない。誰かの手助けがいる。あとは動きやすい服に、支えも必要だ。
カトリーナはちらりとアーサーを見た。
すぐに座り込んでしまいたくなるほど疲労した体に焦りを覚え、背に腹は変えられないと意を決した。
多少の羞恥心はこのさい犠牲にする。今はどうしても目的を遂げたかった。
「着替えたいの」
「……外に行く気か?」
「ちょっとだけよ」
「許可できないな」
「用がすんだらすぐに戻るわ」
「駄目だ」
「お願い!」
支えられてようやく立っているような彼女は必死に懇願するが、さすがにこの状態では彼も素直に頷いてはくれない。強硬手段しかないかと考えてみるものの、いい案も思い浮かばず無言のまま見つめ合っていると、唐突に寝所のドアが開け放たれた。
「カトリーナ!」
両手を広げて入ってきた中年男は、抱き合うようにして立っているアーサーとカトリーナを見て笑顔のまま凍りつき、こっそり後退する。きびきびと動いてノブに手をかけ、
「失礼した」
笑顔さえ凍りつかせたままぱたりとドアを閉じた。
「……面白い人だな」
「え……ええ。……お父様?」
かぁっと頬を染めながらドアに呼びかけると、わずかに開いた隙間から父親が覗き込んできた。
「取り込み中、申し訳ない。具合はどうだ、カトリーナ」
身なりはしゃんとしているものの、中身は以前とまったく変わらない父に、カトリーナは思わず笑い出してしまった。その姿に、父はほっとしたような笑顔を浮かべてドアを大きく開ける。
「目が覚めたことを侍女が教えてくれてな。いやぁしかし、お前、どんなにあくどい手を使ったんだ?」
背後から現れたイザベラがカトリーナに目配せして会釈したとき、ロルサーバの王は感心してそんな言葉を吐いた。
「……あく……?」
「バルトに輿入れが決まったと聞いた時には、戦争でも始まるのかと皆が真っ青だったんだ。まさか本当だとは」
「お父様?」
「ん? うむ。アーサー殿が物好きでよかったな、カトリーナ」
「お父様!」
真っ赤になって叫ぶと、父はカトリーナが憤慨している理由もわからずに目を丸くした。
「ひどいわ、みんなで! 私、これでも――!!」
「カトリーナ」
くらくらしながらもたじろぐ父に文句を言おうと意気込んだ瞬間、アーサーに引き寄せられて不覚にもよろめいた。大きな胸にすっぽり治まったカトリーナは涙のにじむ瞳で彼を睨みつける。なぜ邪魔するのかと抗議しようとした彼女の耳に、
「出かけるんだろ?」
と、アーサーは短く質問を投げる。見上げる彼女から視線をそらしてアーサーはドアを見た。
「イザベラ、服の用意を」
「はい、ここに!」
控えていたイザベラが手際よくドレスを持って駆けてくるのを見て、カトリーナは言葉を失った。病み上がりだから何かと理由をつけて外出は却下されるものだと思い込んでいた。
まるで子供に接するように瞬きを繰り返す彼女の頭を優しく撫で、アーサーは外で待っていると残して部屋を出た。
「もう起きても平気なんですか、カトリーナ様」
「平気よ!」
「……足元がふらついてますが」
「大丈夫!」
慌てて踏ん張って、カトリーナはイザベラに頷いてみせる。用意のいい侍女は服をベッドに並べてカトリーナに近づいた。
夜着を脱ぎ、下着をつけてドレスを着る。いつもよりずっと楽な仕様のドレスにカトリーナは不思議な気分になった。婚礼が発表されてから、彼女の着る服はすべてバルト王妃にふさわしい上等なものばかりで、それは一様に堅苦しくて息がつまるドレスだったのである。
よくよく見れば、そのドレスは彼女がここに来たときに一番値のはらないだろうと踏んでメアリに告げたものだった。
「これなら汚してもいいとメアリさんからの伝言です」
「メアリからの?」
「はい。きっとカトリーナ様のことだからじっとはしていられないだろうと、服をひとそろえお届けしておくようにおおせつかりました」
「……嫌だわ、どうしてわかったのかしら?」
気遣いに照れながらカトリーナは少し怒ったように言葉にする。イザベラは小さく笑い声をあげて、さらに言葉を続けた。
「私のほうが頼みやすいだろうって」
振り返ったカトリーナにイザベラが頷く。メアリがあっさりと部屋を出て行ったのはそんな意図があったらしい。あまり心配をかけないように、無茶をしないで早々に帰ってこようと心に決めてカトリーナは部屋を出て、待っていたアーサーとともに歩き出した。
なるべく人目につかない通路と階段を使って城をあとにし、無言のまま従ってくれる彼に身を任せながら森へと進む。少し驚く彼に微笑んで、カトリーナは足をとめて花をつみ、再び森の奥へと向かう。
やがて、ひっそりと拓けた小さな空間へと辿りついた。
いつものように静寂をまとうその場所は、いつもと少し様子が違っていた。カトリーナはゆっくりとそこを眺め、そしてアーサーの顔を見る。
「……ここ数日忙しくて……すっかり忘れていた」
どこか呆れたように自白したアーサーにカトリーナは笑む。どんな時でも足しげく通っていた場所を、アーサーは驚きに満ちた瞳で静かに見つめていた。
その変化は、きつく彼を縛り付けていた戒めがほんの少し緩んだという事の表れなのだろうと思う。過去は消えないが、形を変えることはできる。それは裏切りや妥協ではなく昇華と表現できるもので、過去を思い出に変え、自分の中に取り込んだという事に違いない。
「あんなにもオレの中を占めていたのに。あの事実だけが――」
あとは言葉にならず、アーサーは無言で立ち尽くす。
様々な思いが入り乱れる場所を、おそらく彼は一生切り捨てることはできない。
だが、それでいい。そう彼が望むなら、少しずつ自分の中に溶けていくまで待てばいい。十七年の歳月はそうして彼の中でゆっくり形を変え、これからも変化し続けていくのだ。
「そういうものです。人間なんだから」
カトリーナはささやいて墓標に近づき膝を折った。丁寧に枯れた花を手に取り、その途中で動きをとめる。
「まあ……陛下、見て」
優しく手をそえてカトリーナは不思議そうにしていたアーサーを呼び寄せる。彼は彼女の手元を覗きこみ、声をあげた。
草一本生えることのなかった
アーサーは言葉を失い、カトリーナが手をそえるその若い芽にそっと触れた。
不器用にたどたどしく――けれど大切に愛しみながら若葉を辿る指先に、カトリーナは瞳を細める。
大丈夫と何度も心の中で語りかけた。必ず幸せにしてみせる、きっとそのために長い時間をかけて巡り会ったのだ。
まるでカトリーナの想いを感じ取ったかのように、アーサーが彼女の肩を抱く。
柔らかな光に包まれながら彼に寄り添い、彼女は祈るように瞳を閉じた。
――だからどうか、見守ってね。
誰よりも何よりも愛しいこの人の幸せを。