【五十四】
歯痒いほど微動だにしなかった体はただ重く、焦れば焦るほど悲しみを引き寄せてきた。さまざまな土地で万病に効くと言われ手に入れた薬を飲んでもいっこうに快方に向かわなかった事実から、もう二度と動くことはないだろうとあきらめていた。しかし、鍛冶師ノーマの作った薬湯を飲み始めてからというもの、明らかに変化が見られた。
どろりとしたいかにも苦そうな、薬湯とは言いがたい薬湯を飲み始めて三日、エディウスの指先がわずかに動いた。自分の物とはとても思えない重いだけだった体に、ほんの少しだが力が入るのがわかった。
「脊髄損傷? ああ、切れたり壊れたりするとダメだって聞くね。でもね、あれって治る人もいるんだよ。もちろん軽度の場合なら、って話だけど」
毎日刃物を打ちつづけるノーマは逞しい腕を組んでそう返した。
「感覚あったみたいだし、もしかしたらって思って特製の薬湯を用意してみたんだ。動けるようになったら義足を作ろう。あたし、これでもなかなか器用なんだ」
エディウスを不憫に思った彼女が毎日大量の薬草を森や崖から調達し、それをひとつずつ吟味し、その日の体調にあった薬を慎重に調合してくれているのを知りガイゼはただ頭をさげた。少しかじっただけの知識などではない。患者と向き合う姿は、アマダと同様にその道を極めた者の姿に違いなかった。
「本当はねぇ、こんな辺境から抜け出して、もっといい暮らしがしたいんだよ。だけどほら、ここには薬草があるだろ? 欲しいって言ってるヤツが来たとき、案内できる人間がいた方が便利じゃないか。一刻の猶予もないくらい苦しんでる人がいるかもしれないんだ」
澄んだ瞳でそう言って、彼女は晴れやかな笑顔を見せた。こんな
それからさらに三日後、エディウスはぎこちなくではあるが腕を動かせるまでに回復した。その頃にはフィリシアの陣痛が以前とは違うものになり、静かだった辺境の家は見違えるほど騒がしくなった。
破水に混乱して取り乱すガイゼに、だから男は役に立たないんだと苦笑して、十数時間にもおよぶ陣痛の後、ノーマは元気な男の子を取り上げた。
「ほら、お父さんにそっくりの元気な男の子」
エディウスがやきもきしながらも隣室の椅子に座って大人しく待っていると、嬉しそうにそう笑いながらノーマが生まれたばかりの赤ん坊を抱いて部屋に入ってきた。産着につつまれた赤ん坊の顔を見せられたとき、エディウスはあまりの驚きに言葉を失い、生まれたばかりの「我が子」を茫然と見おろした。
喜びよりも当惑の方が大きかった。
柔らかな銀の髪、深く、けれど鮮やかな紺碧の瞳。バルトには珍しい容姿だが、彼の母の故郷でさえそう多くないものだと聞き知っている。腕の中で顔をくしゃくしゃにして元気な泣き声をあげる小さな命――それは間違いなく、彼の血を受け継いだ、彼の子の姿だった。
そっと膝の上にのせられて、今度は別の意味で狼狽える。
「大丈夫、腕をそえて。抱いてあげて」
言われるままに力の入らない腕をなんとか動かし、エディウスは慎重に我が子を抱いた。柔らかく暖かいその感触に、気付けば涙があふれていた。城が崩落する中、死を覚悟したときに向けられた言葉は嘘ではなく、フィリシアはあの窮地で真実を告げてくれたのだと今になってようやく知った。
そうして、こんな、途方もないものを与えてくれたのだ。
「体、がんばって治さなきゃいけないね。今度はちゃんと子供を抱きしめてあげられるようにさ」
優しい言葉は痛いほど胸に沁みた。生きることも死ぬこともできないのだと知ったとき、悪夢が口をあけたのだとそう覚悟したのが嘘のようだった。痛みだけを訴える体は重く、まだ至る所がきしんでいるが、以前ほど不快なものではなくなっていた。
時がめぐるようにすべてのものが移ろいゆき形を変える。変わらないと、変える事などできないのだ思っていた事象が変化し、それらは確実に不確かだった未来へと繋がっていく。
ふとどこからともなく歌声が聞こえたような気がして、エディウスは窓の外に目をやった。そこにはバルトを出た朝のように澄んだ青空が延々と広がっていた。
空の青と、草と木々の緑が鮮やかにつづく世界に、低く高く、名も知らぬ鳥が楽しげに歌いながら舞っていた。