【五十三】

 再手術は成功したというアマダの言葉は偽りではなかった。
 それから数日後、エディウスは永い眠りから醒め、己の身に降りかかった災厄を知った。初めこそ食べ物を飲み込むこともできなかったが、日に日に体力は回復し、アマダたちがミスレイドに帰るころには食事をとることができるようになった。
 しかし、それだけだった。
 体が動かない。
 足も腕も、指先ですら彼の意思を汲み取ることなく緩慢な反応だけを繰り返した。痛覚があるのは幸いだとアマダが口にしたのをエディウスは覚えている。では、体が動かないのはどうだと言うのだ――そう、喉元まででかかった言葉を、彼は絶望とともに飲み込んだ。
 これで生きていると言えるのだろうか。まるで言葉を発するだけの人形ではないか。何も思い通りにならず、食事も排泄も、その一切を他人の手にゆだねなければならないこの苦痛が果たして本当に生きていると言えるのだろうか。
 天気が崩れれば体がひどく痛んだ。あるのかないのかわからない体のあちこちが痺れる日もあった。まともに動かなければ、いっそあるだけ無駄なのではないか、そう思ったが、動かない体ではそれを始末することさえできない。
 苦痛と絶望は日増しに大きくなって、やがて限界を超え、すべての気力を消失させる。遠く青空を流れる雲だけを眺め、彼はただ死を待つように夜を待つ。
 それでも情けないことに腹だけは減った。そのたびに、ああ生きているのだなと、その事実に打ちひしがれて叫びだしたい気持ちになった。
「ねえ、ここを出ようと思うの」
 ある日、フィリシアがそう口にした。置いていってくれと喉元まででかかった言葉を彼は必死に押しとどめて彼女の顔を見上げた。その横顔には生気がなく、ひどく疲れた陰りが見えた。
「アマダ先生には手紙を出したわ。もう少し気候のいい療養地へ行こうってガイゼと話してるの。子供が生まれてからじゃ動けないでしょ?」
 目立ち始めた腹をそっとさすって彼女が静かに笑う。昔はこんな風に笑う少女ではなかった。もっと明るく焦がれるほどに、生というものをまざまざと見せ付ける――彼女は、強烈な光が似合う少女だった。
 彼女も絶望の種を抱えているのかもしれない。それでも寄り添って生きていくことを選び、こうしてここにいるのかもしれない。
「好きにするといい」
 エディウスはそう返すしかなかった。彼女の顔が悲しげに歪むのを見ても、そう返す以外思いつかなかった。
 そして言葉通り、翌日には荷物をまとめた。借り物の別荘には必要最小限の荷物しかなく、荷造りはあっけないほど簡単に終わった。馬車の荷台に防水の厚手の布をはり、エディウスとフィリシアはそこに乗った。ゆっくりと昇りはじめた太陽を見上げ、エディウスははじめて自国から出ることを自覚する。
 今、バルトの情勢はどうなっているのか。まるで隔離されたかのように何もなく穏やかな土地では噂など到底たどり着かず、彼は国がどうなっているかまったくと言っていいほど関知していなかった。
 もし現状がわかっていても、この状態で城に戻ることはできない。血がどれほど尊ばれていようとも――否、尊ばれているからこそ、帰る気にはならなかった。
 国は戦火にまみれているのだろうか。国民は生きていけるだろうか。
 そしてあの少年は、果たして無事でいてくれるのか。
 絶望の淵で泣いていた少年が気がかりで、それがひどく心残りで彼は見えない王城を探すように広い草原を見つめた。
 光が目にしみる。
 不意にあふれた涙を隠すように彼は瞳を伏せた。鞭の音と馬のいななきが重なると、馬車はゆっくりと走り始めた。
 もう二度と生きてこの地を踏むことはないだろう。そう思いながら、エディウスは嗚咽を漏らした。何に対しての涙であったのかわからぬまま、ただひっそりと涙をこぼした。
 旅は長く、さまざまな土地を渡り歩いた。二人の立場を考慮し、温暖で人が少なく、治安のいい場所を求めて南下しつづけ、あるとき、三軒民家が軒をつらねる奇妙な家にたどり着く。
 そこには色気とは程遠い無骨な女がひとりいて、寝たきりの男と妊婦、そしてそれを甲斐甲斐しく世話をする男に呆れ顔を向けてきた。
「それで旅してるのか? どこに行く気? ああ? 行くあてがない?」
 女とは思えない太い腕をドアにかけ、彼女はガイゼをじろりと睨んだ。
「あんた使用人? 主人の状態もわからず、よくそんな無茶な旅が出来るね」
 心底呆れた声を発して大きな腹を抱えるフィリシアを見た。一目で若い娘だと知れる容姿の向こうには、長旅で疲労し、すでに話すことさえできずに眠りつづけるエディウスがいた。
「……隣の家、貸してあげるよ。小さいけど文句はなし」
「となり?」
「ここは作業場。見てわかんないの?」
 ガイゼが問いかけると彼女は体をずらして中を見せた。まるでエディウスの工房を髣髴とさせる室内には轟々と燃え盛る釜が口を開け、真っ赤に熱せられた鉄が突き刺さっていた。
「……なんだよ」
 大きさの違う金づちがいくつも転がっている。不機嫌そうに唇を尖らせた女が乱暴に汗を拭うと頬に墨がべったりと付着した。
「鍛冶屋か?」
「……それが何か?」
「いや、工房をはじめて拝見した」
 真剣にそう口にするガイゼに女が目を丸くして、それから険しい表情を瞬時に崩した。刺々しい言葉を少し和らげ、彼女はフィリシアに手招きする。
「お産、近いだろ? 痛みは?」
「ときどき」
「だろうね」
 素直に返すとガイゼが息をのむ。迷惑がかかるとわかっていてなかなか言い出せなかったが、腹部がはってひどく痛むことがあった。出産が近いことは身をもってわかっていた。
「これも何かの縁だ。小さいけどすみの家、使っていいよ。風は時々入れてるし暇があったら掃除してるからすぐにでも住める。押入れに古いのでよければ服があるから勝手に使っとくれ。陣痛があったらいつでも呼んでくれていい。今は無人だけど、前の住人の出産、あたしが手伝ったんだ。難産だったけど無事に取り上げた」
 そう言って彼女は顎をしゃくり、次にガイゼを見た。
「あんたは真ん中の家に住みな。あたしは一階を使ってるから、あんたは二階ね? 住居を提供するかわりに畑仕事を手伝ってもらう。川が遠いから毎日の水運びもかなりの重労働だが文句は聞かないよ。ときどきは狩りにも出てもらうことになる」
「わ、わかった」
 真面目な顔でガイゼが頷くと、女は破顔した。
「そんなに硬くなるなって。見たとこ悪い人間じゃないだろ? あたし、わりと目端めはしがきくんだ。――まあ、悪人なら斬るけどね?」
 物騒なことを口にして彼女は笑った。こんな辺境の地でたった一人で暮らしているのだから逞しくもなるだろう。二十代後半か、いって三十代の女だが、その年齢の女性が持つ華やかさは欠片も持ち合わせず、代わりににどこか野生の獣じみた空気をただよわせていた。
「それから、薬湯がいるなら用意するよ」
 最後にエディウスを見つめて彼女は軽く告げた。
「ここら辺はいい薬草が手に入る。こんな田舎にミスレイドから薬師が草をつみに来るくらいだからね。あたしにもちょっとは知識があるから、よかったら症状を言ってごらん? すこしはまともな物を調合するよ」
 どこか自慢げに語る――その言葉が真実であるのに三人が気づくのはそれから三日後。
 奇跡は、意外なところに転がっていた。

Back  Next