【五十五】
大きなカゴによく乾いたシーツを取り込んで、フィリシアは一息つくように空を見上げた。産後のひだちは思いのほか良好で、五日も過ぎれば日常生活にはまったく支障をきたさなくなった。あれほど無茶を強いた子供も呆れるほど元気で、日の大半は眠っていたが、目を醒ますと母乳をせがみ仕切りともぞもぞ動いている。
ひとつがうまくいくと周りもつられて好転することがあるらしい。
出産を機に、家の中が明るくなったのをフィリシアは切々と感じていた。壊れ物を扱うように我が子を抱いていたエディウスに、やっぱり疑ってたのねとすねて見せると、彼は今まで見たこともないほど慌てふためいていた。たくさんの日々を重ね、ぎくしゃくとした二人の関係は子供を介して少しずつ円滑になっていった。
「子供って神様の贈り物ね」
今、家の中は小さな命を中心に回っている。近くの石に腰をおろし、フィリシアは満ち足りた吐息をついて微笑した。
「いい天気だね」
あきもせず生まれては消える雲を目で追っていると、ノーマの声が聞こえて来た。彼女は大きく手を振りながらフィリシアに近づき、草の上に腰を下ろして真っ赤に熟れた果物を差し出してきた。
「出掛けてたの?」
「ああ、町まで。注文受けてた剣が打ちあがったから届けてたんだ。それで、エディにお土産を買ってきて、いま渡してきた」
フィリシアが果物を受け取ると少し意地悪な笑みでノーマがそう口にする。ここに来て、三人はそれぞれ「エディ」「シア」「ガイ」と、本来の名を短くする呼び名で定着した。バルトからはずいぶん離れた田舎なので、この名でも問題ないだろうというガイゼの意見からである。
「なにを買ってきたの?」
「銀細工の道具」
「銀細工……」
「前はなかなかの職人だったってガイから聞いて、ほら、青い石のはまった銀の短剣も見せてもらってるじゃないか。あれが見事だったから、あたしもよっぽどの腕前なんだろうなって思ってさ、ちょうど頃合いの道具が見つかったから買ってみたんだ。使いたかったら動けるようになれって激励してきた」
楽しげに声を弾ませてノーマは笑う。どうやらガイゼはつじつまを合わせるのに必死だったらしく、気付けばフィリシアは旧家のお嬢様でエディウスが旅の銀細工師になり、二人は禁断の恋に落ちて許婚を捨てたという、なんとも見事な脚色をされてノーマの耳に入っていた。
ノーマの勢いに負けて作り話が肥大したのだとガイゼの注釈があったが、その許婚とやらにエディウスが大怪我を負わされ、旧家の下男だったガイゼが二人の駆け落ちを手助けした、という話でいまは落ち着いている。
蓋を開ければそんな単純なものではなかったのだが、フィリシアは床に額をこすりつける勢いで謝罪したガイゼに思わず笑ってしまった。
まだとても銀細工どころではないが、何か目標ができるというのはいいことだと思う。手先が器用な人だし、細々とした作業を好んでいたようだから、手渡された道具を見てすこしだけ悔しそうにしているかもしれない。
その姿を想像して苦笑する。
「それでさ」
ノーマはフィリシアから視線をはずして唇を噛んで溜め息をついた。
そんな珍しい彼女の姿にフィリシアは小首を傾げる。いつも彼女は気持ちがいいくらい即断即決で、それは発言にも見事に反映され、言葉を濁すようなことは今までに一度もなかったのだ。なにか悩み事があるのかと思って、どうしたのと問うと、彼女は思い悩むようにふたたび溜め息を返してきた。
「うん。……あのさ、シア」
そして、さらに溜め息。
「が……ガイに結婚を申し込まれて」
「え?」
一瞬、フィリシアは耳を疑った。真面目を絵に描いたような男がそんな大胆な行動に出るとは思いもよらなかったのだ。しかし、確かにノーマは魅力的な女性だった。言葉遣いや仕草は乱暴でも、その考えや行動が時にはっとするくらい高潔で優しく、間近で慈心に触れたフィリシアもガイゼの気持ちが痛いほどよくわかった。
「あんたの所の使用人だろ? だから、その……」
「ノーマは?」
「え?」
「ノーマはどうしたいの?」
「ど、どうって!」
大きく身を引いたその顔は見事なくらい真っ赤に染まっていた。ガイゼが彼女に惹かれたように、彼女も彼に好意をよせてくれるのだと知って笑顔がこぼれる。
「祝福するわ。ちょっと頭の固いところもあるけど、誠実でいい人よ」
フィリシアの言葉に真っ赤になったままノーマは頷き、立ち上がって三つ並んだ建物のうちの一軒を見た。そこは工房になっていて、最近ではガイゼが彼女に習い、毎日汗だくになりながら金づちを振り上げている場所でもある。
いまも小気味よく鉄を打つ音が響いている。
「返事、してくる」
緊張と喜びをいっぱいに浮かべた顔でフィリシアにそう告げ、彼女は駆け出していた。
その後ろ姿を見送ってからフィリシアは立ち上がり、ゆっくりと愛しい家族の待つちいさな我が家へと歩き始める。家に入りすぐ近くのドアを開けると、そこにはガイゼが作ってくれた子供用のベッドと熱心に机に向かうエディウスの姿があった。
まだうまく動かない指先で、彼は苦心しながら袋の中にあった道具を丁寧に机の上に並べていた。フィリシアには見慣れない道具を前に、彼は淡い笑みを浮かべ、満足げな表情になる。
「なにを作るの?」
近づきながら問いかけると驚いたようにエディウスが顔をあげた。それからその顔を机の上に置かれた短剣へと移動させる。動乱のさなか、それはアーサーの手によってエディウスの腹部に埋め込まれた物だった。
「剣を、作ろうと思う」
彼は短剣に埋め込まれた青い石に触れながらそうつぶやいた。過去に彼が父親から誕生の祝いに渡された紺碧の石は、窓から差し込む日の光を受けて鮮やかな蒼へとその色を変える。
「この短剣を――長剣に」
「……そう」
言葉にはされない想いを受け取ってフィリシアは頷いた。バルトをあとにしてずいぶんとたつが、ときどき
一度崩れた均衡がふたたび平定を取り戻すにはどれほどの時間と労力が必要なのか。エディウスにバルトの情勢は一切伝えず、ガイゼにも療養に専念して欲しいという理由からそのように頼んでいたが、エディウスの胸にはいつもバルトのことがあるに違いない。
エディウスはアーサー≠ェ無事で、あの少年がバルト王に即位したことは知らないはずだった。しかし彼の視線は、短剣へとそそがれる。
そっと手に取り、彼は剣を胸に押し当てた。
「いつか、必ず渡す日が来るはずだ」
自らにいい聞かせるようにささやいて双眸を閉じる。まるで祈るように
多くの言葉は必要ない。彼はきっと、長い歳月をかけて少しずつ祈りの言葉を剣の中に刻み込んでいくのだろう。記憶に残っているそれを見て、遠く異国の地にいる少年がなにを知りなにを思うかはわからないが、いまはただ、自分たちができうる限りのことをしていくしか他ないのだ。
「ねえ、刃の部分、私にまかせてくれない? ちょっといい案があるの」
幸い腕のいい鍛冶師が二人もいるのだから、多少奇抜な形でも希望にそったものに仕上げてくれるはずだ。王へ献上される物なら少しばかり突飛でも機能的なもののほうが好まれるのではないかと思って彼女は提案する。
微笑むフィリシアにエディウスは驚きながらも頷いた。
証しを作ろう。幸あれと、あふれるほどの言葉を刻んだ唯一無二の物を。
そしていつか長い時間を重ねた後に、巡り巡った慶事の日、祝いの証しとして
幸あれと。ただ、幸あれと。
=end=
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