【五十二】

 基本的にここの住人は相手の素性にはあまり興味がないらしい。休暇で来た別荘があまりに暇なのでさっさと引き払おうとした矢先、急患が転がり込んできたという状況で、いっそ異様なくらい大歓迎された。
 定期的に食糧を届けてくれる少年に食事の量と種類を指定し、さらに医療品と希少価値の高い薬草の取り寄せをたのみ、終わりの見えない療養生活が始まりを告げる。
 治療費が払えないと青い顔をしたフィリシアたちに、アマダは時間つぶしができたから帳消しですと笑顔で返した。現在はやたら元気なガイゼがお礼と称し、別荘の脇にある傾いた納屋を修繕する音が聞こえていた。
 フィリシアは少し緊張しながらベッドからおりる。
 彼女はいまだに安静を言い渡され、部屋から出ることを禁じられていた。しかし、ここに来てすでに七日が過ぎ、状態が安定していることはフィリシア自身もわかるくらいになった。どうやら産婦人科に関してはミンシャのほうが専門らしく、流産の可能性がある限りは無理はするなと厳命されていた。だが、フィリシアはいつまでもじっとしていられずに人目を忍び緊張しながらドアを開ける。
 そっと廊下をのぞき、人がいないことを確認する。ここは三階建ての木造の別荘の二階の西のはしに位置し、エディウスのいる部屋は東のはしであることは皆の会話から知っていた。
 足音を忍ばせてゆったりと作られた廊下を歩く。すぐにたどり着いたドアの前でフィリシアはノブに手を伸ばしたままの姿勢で動きをとめた。
 もし、この部屋に誰もいなかったら。
 もし、今までの会話がすべて嘘で、フィリシアの体を気遣っての作り話だったとしたら――あまりに静かな室内に、言い表せないほどの不安が押し寄せてくる。指が、震えた。触れたドアノブがやけに冷たかった。
「見ないほうがいい」
 しばらく身じろぎもせずドアの前でたたずんでいたフィリシアの背に低い声がかけられる。はじかれたように振り返った先、軽装の医師が真摯な瞳で立っていた。
「今はまだ、助かったと言うだけの状態だ」
 さらに言葉を重ねようとしたアマダを見つめたまま、フィリシアは一思いにドアノブをひねった。流れてくるのは鼻を突くような薬品のにおい、そして、小さな呼吸音。
 安堵とともに室内を見たフィリシアは、そのままその場に立ち尽くした。
 ベッドは半透明の樹脂の布でおおわれ、うっすらと中の様子が透けて見える。中には確かにエディウスが眠っていた。ひどくやせ衰え、死んだように白い世界に溶け込んで、ただ呼吸だけを繰り返していた。
「……食道に穴を開け、食事はそこから流動食を流し込んでいます。ここに運ばれたときには本当に死ぬ一歩手前だった。まだ若いのが幸いし、適切な処置も功を奏した」
 ようやく一歩を踏み出したフィリシアの背に淡々とした言葉がかけられる。
「腹部に金瘡きんそう
「きん、そう?」
「刃物による切り傷、脊椎の損傷、右足大腿部の壊死――。これだけの怪我を前にミスレイドを目指したというのは一種の賭けです。しかし、判断がいい。確かにこの状態ならミスレイドの医療技術以外は延命の域を出ない」
 これは延命ではなく治療なのだ。彼は助かった。深い傷を負って生死を彷徨い、脊椎を損傷して右足まで失い、それでも彼は助かったのだ。そう、思った。
 思おうとした。
 しかし、うまくいかない。気付けば視界はゆるく波打ち頬が濡れていた。たくさんの過ちの果てに支払われた代償が彼女の目の前にあった。ひとつの国の崩壊と、それに巻き込まれて失われただろう数々の命、その中に、彼の生涯も含まれてしまったのだ。
「どこまで回復が可能なのかはわかりません。……僕は休暇が終わればミスレイドに帰る身ですがそれまでは最善を尽くします。だからあなたも目をそらしてはいけない。これからはあなたが彼の支えにならなきゃいけないんだから」
 フィリシアが泣き腫らした目を痩せこけた恋人に向け続けていると、そっと腕が引かれ、視界をさえぎるようにドアが静かに閉ざされる。助けるまでが地獄なら、助かったあとも地獄なのかもしれない。そんな想いが胸のすみに湧いた。
 それでもいいと思った。
 前だけを見据え、時にくじけてもいっしょに歩いていく未来があるのなら、傲慢で我が儘な願いさえ押し付けてしまいたくなる。
 フィリシアは乱暴に涙をぬぐってアマダに向き直って深々と頭をさげた。彼女は自分の歩んでいく道を見つけた。
 苦痛は覚悟の上だった。

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