【五十一】

 それからどれくらい時間が過ぎたのかはわからない。
 目を開けたとき、彼女は清潔な寝台に横たわっていた。見慣れない天井をしばらくぼんやり眺めて起き上がろうとすると、細い手が伸びてきて彼女の肩を押し戻し、その体は再びベッドに沈んだ。
「絶対安静です。あとで薬湯を持ってきますから」
 本を片手にした女が短く告げる。これも見たことがない女だった。
 フィリシアは内心ひどく狼狽えた。混乱する記憶をひっくり返し、エディウスの怪我の処置はひとまず終了したこと、しかし、体力が落ちすぎて回復が困難であることを思い出した。ガイゼに言われるまま、医療に力を入れているという町に向かって五日目――彼の容態は、急変して。
「あ、あ……」
 フィリシアは両手で口を覆った。もう打つ手がないと、苦悶してガイゼが告げた言葉だけが耳に残っている。
「……あの、差し出がましいようですが」
 本を閉じた女は震えるフィリシアを見おろして口を開いた。
「あなた、流産しかかってるんですよ。母体がそれだけ疲労して胎児がまだ無事っていうのが有り得ないくらいなんで、安静にしていただけます?」
「エディ……いっしょにいた人は……っ」
「ああ、あっちも結構危なくて。というか、よく生きてたなって感じで。……いま、先生が付きっ切りで診てますよ。初期治療がよかったんでしょうね。あと半日放置してたら命はなかったと思いますけど」
 事も無げに告げる女にフィリシアは呆然とする。生きているのだと、まだ無事なのだと知って涙があふれた。
「言っときますけど、助かるかどうかはまだわかりませんよ? ――まあ、ウチの先生にかかれば問題ないと思いますけど」
 淡々とした口調の中に自負が混じる。表情にあまり変化は見られないが、どこか得意げな雰囲気だった。
「会いたいの」
「お腹の子、大事ですか?」
 真剣に問われ、フィリシアは目を見開いた。大切に決まっている。ようやく感じられるようになった胎動に愛おしさは募るばかりで、なによりも変えがたい存在だった。
「大切ならしばらくは安静に。落ち着いたら会わせます。――向こう次第ですが」
 女はそう言って立ち上がり、窓を開けて外気を取り入れた。薄手のカーテンが大きく揺れると澄み切った青い空が地平線まで続いているのが見えた。
「ここはミスレイド?」
 平原を見つめながらフィリシアは尋ねた。
 ガイゼの故郷はバルト南部のエルバランという町である。そこには腕利きの名医がいて、ガイゼは王に忠誠を誓う前、彼の助手を勤めて手術に何度も立ち会ったという。ガイゼ自身は医者になる気などなく、ただ単に家が近いから呼び出されていただけらしかったが、おかげでときどき執刀を任されるほど医療全般には強くなった。
 その医師の出身がミスレイド。町自体はさほど大きくはないが、そこは医療技術を磨く若者が多く集まり、あらゆる難病を快方に導くことを旨とする町。
 王城からは馬で十日はかかるほど遠方にあたる。馬を見つければ交渉して買い替え、不眠不休で鞭を打ち、ただ目的地に着くことばかりを念頭において旅路を急いだ。しかし、五日目の朝に一進一退を繰り返していたエディウスの容態が急変した。
 これ以上はもたないとガイゼに伝えられ、絶望したことまでは覚えている。
 そう、ミスレイドまでは、まだずいぶん距離があったはずだ。
「ミスレイドじゃないです」
 フィリシアの疑問に答えるように女は言葉を続けた。
「エルバランよりちょっと南部で、先生の休暇に使う別荘です」
「先生?」
「アマダ・フェザー先生。ミスレイドで最高の診療医と誉れ高い医師の鑑で、予約は次の豊穣祭までいっぱいです。あなた、運がいい」
 ニッと女が笑った。
「先生は難病と怪我人が大好きな変態さんですから」
「……変……」
 態、さん、と、フィリシアはもごもごと口の中で繰り返す。
「休養地に来てまで病人の怪我をみて嬉々とする変態さんだとは思いませんでしたが。増血の薬草を煎じてる姿の嬉しそうなことといったら、本当に変――」
「こら、ミンシャ」
 唐突な声に女は肩をすくめた。見るからにまずいといった表情をして、そろりそろりと振り返る。いっしょになってドアを見たフィリシアは年若い男を見て小首を傾げた。
「そう変態変態って連呼しないで欲しいな。仕事熱心なだけだろ、僕は」
「だって先生、難しい手術しかしないじゃないですか」
「簡単なのなら僕じゃなくてもいい」
「目キラキラさせちゃうし」
「寝ながらできる手術なんてないよ」
「病人大好きなくせに」
「それは否定しない。患者は皆、僕を最高に興奮させてくれる大切な恋人だ」
「ね? 変態さんでしょ?」
 熱い吐息とともに断言した男を指差してミンシャはフィリシアに耳打ちする。確かにまっとうな発想でないことは認めるが、状況が把握できない彼女は頷くこともできずに戸惑いの表情を浮かべた。
「ところで、あなたのほうですが……えー、シアさん?」
 呼ばれた名に一瞬ひどく驚いて、それからアマダの背後で小さく頭を下げたガイゼの姿を見て納得した。名を簡単に明かしていい立場ではないと彼が判断したに違いない。
 一呼吸あけてフィリシアはアマダを見た。
「はい」
「あなたも絶対安静です。旦那さん――は、……デューイさん?」
「……はい」
 たぶん、と胸の内で続ける。確か名前の一部にそんな響きのものが入っていたと思い出しながら頷くと、これもガイゼがとっさに答えた名らしく、アマダの後ろで可哀想なくらい項垂れる彼の姿が見えた。
「再手術は成功です、あとは本人の体力次第ですね。ただ、後遺症が残る可能性がある。これは経過を見ないとなんとも言えませんが」
「助かるんですか?」
「本人次第です。こちらも最善を尽くします。……久々に腕の鳴る患者なので、全力で頑張りますよ、ええ、本当にとってもいい状態で」
 最高に不謹慎なことを口にして笑顔を浮かべているが、自信ありげなその表情に怒るよりも逆に安堵してしまった。どんな状態でも助かってくれればそれでいい。あんな言葉だけを残し、満ち足りた、けれどとても寂しそうな目をしたまま死なせたくなかった。
 後遺症と聞いて不安がないわけではなかった。
 だが、今は――。
「よろしくお願いします」
 深く頭をさげると、不謹慎な笑みを引っ込めてアマダは頷いた。
「お任せください。さて、あなたも診察しますので。ああ、突っ立ってないで部外者は出て」
 オロオロするガイゼはそのまま締め出しをくらい、室内には奇妙な名医と奇妙な助手と、そして名を偽っている娘だけが残された。

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