【四十七】

 城内がにわかに慌しくなる。木の影に隠れて城の様子をうかがっていたマーサとヒリックは互いの顔を見合わせ、監視するように耳をそばだてた。
「フィリシア様が見付かったのかも」
「まだ中とは限らない。だいたい、扉には錠がかかってるだろう、どうやって入るんだ?」
「それは大丈夫!」
 マーサは不満そうな騎士に力強く頷いて歩き出した。
「ちゃんとこっちに――」
 言葉の途中で、慌てるヒリックに気付かずに駆け出ししゃがみ込む。落ちていたものを拾って、青ざめた顔をヒリックに向けた。
 マーサの手にはヒリックが何度か目にした優美な短剣が持たれていた。彼女はそれを胸に押し当てて城を仰ぎ見た。
「中です、フィリシア様は」
 エディウスから受け取った剣をフィリシアがぞんざいに扱うとは思えずにマーサは告げる。拾えない状況にあったと考えるべきで、この場合、一番確率が高いのは城外で拘束される際に落としたか、城内でなにかの理由から落としたか――マーサは視線を壁に滑らせる。ちょうど窓の下だ。壁からの距離を考えると、窓から落とした可能性も高い。
「アーサー様の寝所の近くだわ」
 侍女として城に勤めた期間は短いものの、さまざまな雑務をこなしてきた彼女は瞬時に脳裏で地図を開いて場所を確認する。一番近い通用口、その中で外から開くことができる場所をはじき出して銀細工の短剣をベルトに挟みながら歩き始めた。
 途中、人の声に何度か立ち止まったが幸いすべて城内からだった。
「どこに行くんだ?」
 剣を手に周りを警戒しながらも大人しくついてきたヒリックがそう問うと、マーサは古びた木戸の前で足を止めた。そこは蝶番が壊れ、鍵が錆び付いているため普段は使わない出入り口の一つだった。
 怪訝な顔になる男の前で、侍女は木戸に耳を押し当てて息を殺し、よしと景気づけするように頷いてからわずかな凹凸に手をかけて上へと持ち上げた。
 小さな声がヒリックの口からもれる。
 使われない木戸は軋みをあげながらあっさりと外れてしまったのだ。
「……そんな」
 マーサがよたよた木戸を持ち上げるのに驚き、ヒリックは背後から手を伸ばしてそれを支えた。
「こんな抜け道、知らないぞ」
「結構あるのよ、古い建物だから。侍女仲間では有名なの……国王陛下もご存知だと思うわ」
「陛下が?」
「たまにこっそり抜け出して城下町に行ってたみたいだから」
 時折エディウスはふいに姿を消し、いつの間にか戻ってくることがある。その理由がこれかと呆れる反面、笑ってしまった。一国の王が供もつけずに城下町におりるなど危険極まりないが、普段あまりに生真面目だから、恐れ多くも親近感すら抱いてしまう。
 通路に人がいないことを確認し、二人は城内に進入して木戸を戻して歩き出した。よく見知った城内を慎重に歩いていると、長い廊下を男たちの声がいくつも通り過ぎていく。
 なにかが起こっているらしい。壁に身を寄せていると緊迫した空気が二人にそれを伝えてきた。
 マーサはちらりとヒリックを見上げる。
 医者には絶対安静と言われているほどの大怪我だ、辛くないはずがない。何度か額の汗をぬぐう仕草を目にして、マーサはきゅっと唇を噛んだ。先を探り先導する男は平静を装っているが、足が何度ももつれるのは誤魔化すことなどできない。守られるばかりではなく、彼から剣を受け取り自分が先導しようと決心したとき、なにかを激しく叩く音を耳にして立ち止まった。
「――敵か?」
 剣をかまえ直してヒリックも足を止めた。鋭くあたりを見渡して、くぐもった男の声に考え込む。助けを求める声は、ただひたすら死にたくないと訴え続けていた。
 音が弱々しくなり、マーサは慌ててヒリックの服を引っぱった。
「ヒリック」
「ああ。まだ残ってたんだな」
 短く答えてヒリックが歩き出すとマーサはそのあとについて歩いた。助けを求める声にイリジア兵が気付くのではないかと気が気ではなかったが、気付かないのかはたまた無視を決め込んでいるのか、近くに人がいる様子はない。
 音をさぐりながら歩き、二人はドアの前で立ち止まった。真新しい南京錠に手をかけて引くと硬い音が響き、内側から助けを求めて繰り返し叫んでいた男の声が止んだ。
「誰かいるのか?」
 かすれた男の声が恐る恐る尋ねてきた。
「オレは無実なんだ! 頼む、ここから出してくれ! 死にたくない……!!」
 続く声は痛々しいほど震えていた。ヒリックは剣を持ち直し、その柄を握りしめて振り下ろした。しかし、派手な音をたてるだけで錠はビクともしない。
「離れていろ、蹴破るぞ」
 傷に響いたのか、ヒリックはわずかに顔をしかめてからドアに向かって声をかけた。錠は新しいが、それをつけているドアは城同様に昔からのものだ。蝶番も建設当時のものに違いなく、所々が錆び付いていた。
「ヒリック、傷が……」
「大丈夫だ、離れてろ」
 剣を鞘に戻してマーサを遠ざけ、ヒリックは息を整えて眼前のドアを凝視する。大きく息を吸い込んで、もろい蝶番付近に蹴りを入れ、確かな手ごたえに浅く息を吐き出した。冷や汗が流れるのが傍目からもはっきりとわかりマーサは狼狽える。
 ドアを蹴る音が嫌に大きく響くのは幻聴なのか、ヒリックの顔が苦痛に歪んでいくのが錯覚なのかもわからなくなる。
 繰り返される打撃に根を上げるように、ドアは低い音を放って不自然に傾いた。
「無事か!? 早くここから――」
 闇の中に声をかけ、ヒリックは違和感に言葉を失った。すぐにでも飛び出してくると予想していた仲間の姿はなく、すえた臭いをこびりつかせた闇だけが口を開けている。
 ヒリックは剣に手をかけて一歩前進した。
「時間がない。早く」
 出てこいと続けようとした彼は、そこで言葉を失った。
「どうしたの?」
 背後に立つマーサには状況が理解できない。ヒリックに近づいてから、ようやく異変に気付いて立ち止まった。
 彼の背中のあたりに奇妙な瘤がある。分厚い布を押し上げる瘤は、見る見る赤く染まって服の一部を真紅に染めた。はじめ、その赤がなんであるのかわからずに、彼の体が大きく揺れてからようやく状況を把握した。
「逃げろ」
 低い声が途切れがちに言うと、その手に握られた剣が何者かに奪い取られ、彼の体が真横に薙ぎ倒された。
「ヒリック……!」
 鈍く光る鉄柱が彼の胸を貫いている。蝋燭を固定するための燭台だとも知らず、マーサは悲鳴をあげ、そして大きく揺れる視界と背を打つ痛みに小さくうめいた。
「よお、舞姫付きの侍女さん?」
 彼に駆け寄ろうとしたが体が上手く動かず、なにが起こったのかわからないマーサは視線を巡らせ、間近で下卑た笑みを浮かべる男の顔に息を呑む。以前に見た事のある顔だった。そう、ほんの数日前に、王の寝所に続く手前の通路で見かけた男だ。
 地下牢へと続く半壊したドアが小さく揺れた。
「――生きて……」
「下の鍵はなんとかできたんだが上はなぁ、足場が悪くて苦労した。お蔭で命拾いしたぜ。仲間を見捨てた礼をさせてもらおうか?」
「裏切り者が何を!」
 イリジア兵をバルト城に引き込み、さらにエディウスの命も狙おうとしていたに違いない男だ。恐怖よりも怒りが先に立ち、マーサは男――ダリスンを睨みつけた。
「大人しくしてりゃよかったんだよ。そうすりゃ、なにもかも上手くいってたんだ」
 太い腕がぐっとマーサの喉を絞める。
「それを、バカな女が大暴れしたせいで……畜生、てめぇも同罪だ。死んでわびろ」
 足が床から離れて宙を蹴った。必死で腕に爪をたてたが、甲冑に守られた体にはなんの意味もなく、耳障りな音だけが小さく生まれる。男の足を蹴っても力が入らないせいか、さした抵抗にはならなかった。
 頭痛がする。視界がかすみ、床に崩れたままのヒリックの姿さえ消えていく。
 もう駄目だと思った直後、黒い塊が遠方で小さく動いた。
「なにをしている!」
 そう老人の声が聞こえると喉を押し潰そうとしていた力が失せ、大量の空気が肺に押し寄せてマーサは激しくむせた。壁に背をあずけたままずるずると座り込み、駆け寄る人物に顔を向ける。
「オルグ先生」
 宮廷医師は蒼白となってひざまずき、ヒリックの体を調べている。脈を取り、燭台に貫かれた体を確認し、小さく唸り声をあげた。マーサはなぜ老医師が敵に占拠された城で自由に動き回れるのかを疑問に思いながらも、傷の処置を始めようとするその姿に安堵した。
 しかし、それはすぐに驚愕へと変わる。
 剣を持った裏切り者が体の向きを変え、足音を忍ばせて二人に近づいていたのだ。
「オルグ先生……!」
 咳ばかりが出て声が言葉にならない。マーサはよろめきながら立ち上がって、再び口を開いた。
「逃げて」
 ようやく届いた声にオルグが顔を上げた。彼はフィリシア付きの侍女であるマーサを見て改めて驚き、そして、間近にいる裏切り者に視線をやって大きく目を見開いた。
「自分だけ助かると思うなよ。くだらない情ですぐに殺さなかった自分の甘さを」
 ゆっくりと持ち上がった剣は、躊躇いなく振り下ろされた。
「地獄でゆっくり後悔しろ」
 その言葉は、嘲笑とともに吐き出された。鈍い音、飛び散る鮮血に、マーサは悲鳴をあげて顔を背けた。
 殺される。このままではフィリシアを見付ける前に、自分もヒリックもこの男の手にかかって命を落とすことになる。
 苦悶の声をあげる老医師にダリスンは剣を持ち替えた。振り下ろされた非情な二刀目に死への恐怖が膨れ上がり、歯の根が合わなくなる。逃げなければ殺される。しかし、ヒリックをおいてこの場から逃げるわけにはいかない。
 動かなくなった老医師を眺めるダリスンの顔に満足げな笑みが浮かんだ。それを見て戦慄がはしる。人を殺すことに躊躇などしないのだ。いや、ないのではない。男にとってそれは快楽に等しいものに違いない。よどんだ双眸がオルグからヒリックに向いた瞬間、マーサは壁から離れてベルトに差し込んだ短剣を引き抜いていた。
「離れて」
 剣先が小刻みに揺れる。こんな時、フィリシアなら恐怖に震えることなく立ち向かうだろう。その強さを、ほんの少しでいいから分けて欲しい。
 両手でしっかりと握った剣は、フィリシアが大切にしていたものだ。強くしなやかな彼女の主人は、危険などかえりみずに戦うことを選んだ女だ。
 ――その、強さを。
「……いい剣持ってるじゃねぇか」
 ダリスンが値踏みするように剣と鞘を見る。そして手を差し出した。
「それよこしたら、見逃してやるよ」
 誠意の欠片もないその笑みにマーサは厳しい表情を向ける。
 戦わずにすべてを失うより、戦って失うほうがいい。膝を折るのは簡単だから、それまでは、どんなに無様でも抵抗し続けよう。
 そう思った瞬間、剣先の震えが止まった。

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