【四十六】

 低い音が廊下に響く。
 フィリシアは顔を伏せたままドアを引いて大きく息を吸い込んでから顔をあげた。
 少年の名を呼ぼうとして動きをとめる。
 広めの室内に動くものはなく、ただ天蓋つきの寝台とテーブル、そろいの椅子に家具が数点置かれているのみだった。開放された窓から風が吹き込み、部屋に置かれた観葉植物の葉を小さく揺らした。
 フィリシアは部屋を横切り続くドアを開く。
 しかし、衣裳部屋になっているそこにも少年の姿がない。部屋に面したすべてのドアを開けて確認したが、やはり彼の姿はどこにもなかった。
(一体どこに――……)
 まわりに人がいてはならないのだ。彼と会うときには、二人きりのほうがフィリシアにとって都合がいい。もしイリジアの関係者とともにいるなら、厄介なことになりかねない。
 フィリシアは剣に視線を落とす。もうあまり使いたくないのだが、そんな訳にはいかないらしい。
 彼女は踵を返して部屋を出て、どこからか聞こえてきたざわめきに息をのんだ。バルト王の婚約者である少女がイリジアに捕まれば、エディウスを追い詰める切り札になる恐れがある。ここで拘束されればすべてが水泡に帰す。
 フィリシアは来た道とは別の通路へと駆け出した。
 階段を見つけて階下の気配を探りながらそこを下り、続く廊下に人がいないことを確認して壁に沿うように移動する。エディウスの寝所付近ならまだしも、ここはまったくフィリシアの記憶にない場所だ。人に見付かったが最後、簡単に逃げ切れるとは思えなかった。
 ざわめきが大きくなり、フィリシアは神経を張り詰めたまま様子を探る。慌しい足音が聞こえ、とっさに近くにあった木戸の奥へと隠れた。
「どうした」
「わからん! 人が死んでるとか――」
「敵か!?」
「警備を確認しろ。油断するなよ!」
 怒鳴る声にフィリシアは瞳を閉じた。もれてくる言葉だけでは状況が把握できないが、どうやら別の場所でなにかが起こったらしい。
 ふっとタッカートの顔が脳裏をかすめる。
(無事なの?)
 不安は尽きることがない。彼はシャドーを殺すと言っていた。その物騒な言葉に戦意のようなものが汲み取れなかったのがひどく引っかかるが、フィリシアは軽く頭をふってその疑問を消し去った。
 いまは、誰かを案じて立ち止まっている場合ではない。
 一刻も早くアーサーを見付けて、そしてこの動乱を治める鍵を手にしなければ――バルトに、未来はない。
 足音が過ぎ去り、廊下が静寂を取り戻すとフィリシアは大きく深呼吸をしてから木戸を細く開けた。廊下を確認し、するりと壁に沿う。緊張する手のひらを服でぬぐい、彼女は辺りに視線を走らせた。
 アーサーがどこにいるのか見当もつかなかった。広い城は巨大な迷路となり、彼女はその中に紛れ込んでただ悪戯に歩き続けている。
 このまま無闇に歩き続ければ、いずれイリジア兵に見付かるだろう。城内の混乱を機に、警戒が厳重になるのは目に見えていた。
「どこにいるの……?」
 壁に背をあずけて低くうめき、彼女は気を持ち直すようにそこから離れ、そして、視界をかすめた緑に動きをとめる。
 アーサーが好む場所をいくつか知っている。
 城の外のことまでは把握していないが、少なくとも一ヶ所、目星のつく場所がある。
 フィリシアは壁に張り付いて窓を見た。緑の多いバルト城の中庭には、小さな花と背の低い木が見栄えよく植えられている。どこか可愛らしい雰囲気のその場所は、少年の休息の場所として何度か用いられていた。
 近くにいるかもしれない。
 それに、中庭付近のことなら彼女もある程度は把握しているから、ここよりは条件がいい。
 そう判断すると、壁から離れた。
「おい」
 ふと人の気配を感じてフィリシアは奥歯を噛みしめた。
「――誰だ、貴様」
 警戒する問いに緊張が頂点に達しながらも、フィリシアはあえて一呼吸置いてから振り向いた。
 男が一人、剣をかまえて立っている。まっすぐに向けられた切っ先に迷いは読み取れず、それが男の自信を裏付けているようだった。
「迷ったの」
 無邪気にそう口にして男に近づく。武装はといているものの、剣士であることなど一目瞭然なその男は、一瞬戸惑ったようにフィリシアを見つめた。
「止まれ」
「出口を教えてくれれば出て行くわ」
「止まれ、不審者は――」
 言葉の途中で男は目を見開いた。
 全身を大きく震わせ、彼は視線をゆっくりと落としていった。その瞳は見事な黒髪を映し、次に少女の持つ剣が己の腹部を貫いている光景を映した。
「急所、少しはずした。……人のいるところまで行きなさい」
 出血が多ければ簡単に命を落とす場所である。フィリシアが剣の柄を放すと、男はよろめいて膝を折った。
「あなたの剣、もらってくわね」
 体を支えるために突き立てられた剣をその手から奪うと、男は憎々しげにフィリシアを睨みつけて大きくあえいで両手を床についた。刻々と広がる赤黒い水溜りから視線をそらし、フィリシアは次の階段を見つけるとそこに向かって駆け出した。
「誰か……! 侵入者だ……!!」
 低い断末魔の悲鳴が彼女の背を追いかける。振り切るよう階段をおり、次の通路に出る直前で、フィリシアは飛び出してきたなにかに向かって反射的に剣をかまえていた。
 身を守るための剣舞は彼女の舞の中でも卓越し、イリジア兵相手ならば充分通用する。
 迷うことなく目の前の者に剣を向けたフィリシアは、小さな声をあげてその剣を取り落とした。
「フィリシア……?」
 飛び出した少年は剣をかまえる少女の名を呼んだ。
(アーサー)
 胸のうちでそう呼びかけたが、フィリシアはそれを言葉にはしなかった。
 懐かしい、懐かしい少年。見知らぬ土地に迷い込んだ娘に警戒しながら、悩みながらも手を貸してくれた優しい人。
 そしてすべてを失い、悪夢に呑まれてしまった者。
「……惣平」
(ごめんね。……ごめんなさい)
 胸のうちで繰り返すそれは、誰に向けたのかもよくわからない謝罪の言葉だった。
「キミがどうしてここに……!?」
 階段を滑り落ちた剣を拾い、少年は彼女に剣先を向けて悲痛な声で叫んだ。
 もともと彼はこんな世界にそぐわない人間だった。平穏な世界で、当たり前の幸せを手に入れるはずの人間だった。
「惣平」
 その名を繰り返し、フィリシアはしゃがみ込んだ。
(辿れ、辿れ、辿れ――この状況で、彼女ならどう動く? 知らない土地、知らない国、その城で、別の人間に間違われて命を狙われたら)
 美奈子なら。
 果たして、どう動く?
「惣平も、フィリシアもいないんだもん。もう、こんなとこヤだぁ……!」
 顔を伏せたままくぐもった声でそう叫んだ。それから立ち上がり、階段を下りる。
「早く逃げよう! なんか変な人に追われてるの! って、ちょっと! それ危ない!!」
 階段の途中で足を止め、彼が握る剣を指差す。動揺して下がった剣先にほっとして、彼女は階段をおりて左右を確認し、すぐに顔を引っ込めた。
「フィリシア捜すのあとね? とにかくここから出よう」
 矢継ぎ早に言い、彼の手を取って歩き出す。迷いながら廊下を歩くと、進行を妨げるように引っぱられた。
「出口」
 不意に聞こえた声に足を止めて振り返ると複雑な表情を向けられる。
「出口、そっちじゃない」
「早く言ってよ!」
 怒ったふりをして踵を返し、それから思い出したように彼の手に握られた剣を取り上げて鞘に戻した。
「こっち? 階段おりればいいの? 人いない?」
 緊張して壁に張り付き、階段を覗き込んでから進む。鼓動がいっこうに落ち着かないのは、手を引かれるままついてくる少年の反応が把握できないのと、敵との遭遇の確率を考えたせいである。
 じわりと手に汗をかく。
「血が」
 小さな声に足を止めると、彼は真剣な表情で見つめ返してきた。
「服に血がついてる」
「……うん。お、男に襲われて、それで、剣で」
「戦ったのか?」
「フィリシアに剣舞教えてもらったでしょ? だからムサシが使えるの」
 記憶をたどって言葉にし、二本の剣を指でさすと彼の表情が少し動く。
「二刀流は独眼流正宗だって」
「もーどっちでもいいじゃん! うまく使えなくて危なかったんだから!」
 そう言いながら再び歩き出す。わざと道を間違えそのたびに指摘され、焦ったふりと怯えるふりを続け、彼が望んだであろう懐かしい少女を再現し続ける。
 握りしめる手に力が込められる。
(混乱して。疑って、悩んで――あなたの目の前にいるのが誰≠ネのか、考えて)
 歩き続ける迷路の先にきっと出口があるはずだ。
 それがたとえ正しくない答えだとしても、もうほかに、彼を救う手立てなど考えつかなかった。
 彼が望み続けたものを知っている。
 それを得ることによって、彼の悲しみは和らぐはずだ。彼を突き動かした原因を取り除き憎悪という動力を奪えば、彼はこの戦いを継続していく意味を見失う。
 そして、アーサーという主軸を失えば、この巨大な歯車は回らない。
(バルトが攻め込む前にすべてのカタをつけなきゃ。なにもかも終わらせて、それで――)
 アーサーという名の少年はこの国から姿を消すのだ。
 もし戦いが終わらなかったとしても、暗躍していた少年が消えれば戦況は確実に変わる。その混乱に乗じて攻め入れば、不利なばかりのこの戦いにも光明がさすに違いない。
 焼けるように痛む胸に苦く笑いながら、少女は少年の手を引いて歩き続けた。
「惣平、私たち家に帰れる?」
 小さく問いかけると握った手がぴくりと揺れた。
「……わからない」
「そっか……でも、いっしょなら何とかなるよね?」
 笑顔を向けると、彼は初めて笑みを返してきた。
「ああ、そうだな。……ミナ?」
 そのまま歩き出すとようやく名を呼ばれ、少女は胸の痛みを押し殺してごく自然に振り返る。
「無事だったのか?」
 途切れがちに尋ねられて怒ったように笑った。
「無事じゃないよ、怖かったんだから!」
「……いままでどこにいたんだ?」
「塔の上。必死で逃げてきたから場所なんて訊かないでよ? 大声出したら殺すってずっと脅されてたの」
 とっさに嘘を並べて彼に伝える。少し驚いたような彼をちらりと見て、彼女は言葉を続けた。
「物音がして、鎧着た男が剣を持って入ってきて、――油断、してたみたいだから」
「怪我は?」
「ない」
 心臓が張り裂けそうなほど胸の奥で暴れている。それを決して悟られまいと、彼女はきつく双眸を閉じてから深く息を吸い込んだ。
 伝えられない謝罪の言葉と自責の念に足が重くなる。だが、立ち止まらないと決めた今、目の前に広がる道を歩かねばならない。
 少女は迷いを振り切るように再び息を吸い込んで口を開いた。
「もう離さないでね」
 懐かしい少女の面影をたどりながら告げると、彼は瞳を細めてから深く頷く。
「ああ、もう二度と」
 返ってきた言葉に全身の力が抜けた。
 これでいい、と何度も自分に言い聞かせる。過去に起きた悲劇そのままに、一人の少女と一人の少年がこの国から姿を消せば、一年の歳月を経てようやくすべてが元通りになるのだ。
 ふっと胸の奥に優しく笑う男の影がかすめる。この城を出れば、会うことなどできないだろうその男の影に、彼女は胸中でそっと言葉をかけた。
(――だから忘れてね、エディウス)

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