【四十五】

 ドッと血流が増した。それが自分の物であるか対峙した男のものであるのか、もうすでに彼には判断できなかった。
 かつてないほど張り詰めた空気は、一分のすきすら見せてはならないと彼に伝えてきた。視界が塞がれている現状は、いまの彼には幸運だったのかもしれない。剣の柄を握る男の動き、その力の加減すら手に取るようにわかった。
 音と風――においだけが世界を満たしている。
「生きて、いたのか」
 押し殺した声音は悔しいくらい平静な表情で告げられたものだろう。昔から変わらない。彼は決して己の弱さを人には見せない男だった。だが、過去に知ることのできなかった機微がいまは克明に伝わってくる。
 速くなる鼓動は、自分の物なのか彼のものなのか。
 タッカートはにやりと口元を歪めた。
「裏切り者が生きていて残念だったな、シャドー。もう一回殺しとく?」
「……」
「でも忘れるなよ? ここにお前がいるってことは、お前も一族を裏切ったってことだ」
 戻れるはずなどないだろう、とタッカートは心の中で続ける。周到な男は、おそらく一族には自分が死んだと見せかけてここにとどまっているに違いない。一族を裏切れば、昔の彼と同じように裏切り者を狩るための刺客がここへ訪れる。
 シャドーの腕前は一族の中でも群を抜いていた。真実を知れば、死を覚悟しここにおもむく狩人は一人や二人ではないに違いない。
「答えないのか? オレの翼は速い。お前が望めば、すぐにでも狩人を呼んでやるよ」
 伝令鳥と呼ばれる人語を操るキメラはイリジアにいたが、タッカートはシャドーを挑発するように笑ってみせた。動揺が戦意に変わるのがわかる。誰にもくみせず任務だけこなしてきた男は、どうやらここへ来て己の居場所をようやく見つけたらしい。
 永遠に見ることなどできない偽りの王子――狂ったまま回り続けるすべての歯車の、その鍵を握る少年が、シャドーをここへ留まらせる理由となっている。
「わかんねーな。この国を滅ぼしたいのか?」
「――違う」
「英雄にでもなる気かよ? 内乱の首謀者に手を貸して、これが一族の耳に届いたらどうなるかは考えなかったのか?」
「オレはあの時死んだ。王子が手を伸ばさねば、自害するつもりだった」
「……殊勝なこって」
 タッカートは剣を構えなおした。
「足抜けした娘と弟の弔いでもする気だったの?」
「……ああ」
 低い男の声と同時にタッカートは床を蹴っていた。
 高い金属音が廊下に反響し、火花が鮮やかに散って消えた。かみ合った刃が不快な音を小さく立てると、互いが瞬時に後方へと跳んだ。
「ふざけるなよ。リュエンが抜けた理由も知らずに、勝手なことばっか言いやがって。テメーはいつもそうだろう! なにも知ろうとしない……!」
「ああ、その通りだ」
 淡々とした声にタッカートは剣先を向け、そのまま空を凪ぐ。それは難なく受け流された。
 澄んだ音をたてて風を切るシャドーの剣には迷いがない。あの時もそうだったと、タッカートは次々に蘇る過去に苛立ちを覚えながら剣をふった。
 リュエンはシャドーに懸想けそうしていた。相談を受けたときは、本当にはらわたが煮えくり返るかと思うほど腹を立てた。
 兄には持病があると彼女に伝えた。長くはない、幸せにはなれないからあきらめろと何度も忠告した。
 だが、彼女はあきらめなかった。
 あきらめなかったどころか、たどり着いてはならない真実に手を伸ばし、一族から命を狙われる結果を引き寄せてしまった。
 おさの手から盗み出したものを握りしめ、リュエンは里から逃げ出した。そのあとを追い、首を持ち帰れと命令されたのはタッカート自身だった。
 できるはずがない。
 誰の命令だろうとも、それだけは従えない。彼は命令を受けた直後にリュエンを追って里を出、追尾されていることも知らずに彼女の痕跡をたどった。
「テメーは騙されてたんだよ」
 剣をたたきつけてタッカートは怒鳴っていた。剣を受けながらわずかに動揺するシャドーの気配を全身全霊で感じながら、一歩後退してそのまま目の前の男に向かって跳んだ。
 シャドーの実力は一族の中でも群を抜き――そして同時に、危険視されていた。獣はどんなに飼い慣らされても野生を完全に捨て去ることはできない。やがて彼らは獣を縛るための鎖を用意することを考えついた。それは強く頑丈で、易々とは断ち切ることなどできないものだった。
「毎日手渡された薬がなんだったか知ってるか? あれが毒だったなんて思わなかっただろう!?」
 シャドーはタッカートの剣を受けることなく大きく後方へ跳んだ。
「なんだと……?」
「リュエンはそれを知ってたんだよ! だから毒を盗み出した」
 命懸けの選択だった。薬事に明るかった彼女は解毒薬を作るために里を抜け、そして真実を知らない愚かな男の手にかかって命を落とした。
 お笑い種だった。
 タッカートが最後に見た光景は、リュエンが好いた男に殺される場面だった。苦痛に歪んだ顔は、しかしどこか幸せそうにも見えた。
 シャドーがアーサーに手を貸すのは、おそらく少年の境遇を自分と重ねてのことだろう。
 くだらないとつくづくタッカートは思う。
 自分の立場をそれと重ね、兄を殺そうとする弟に手を貸す男。
 バルト王の死によって彼自身もきっとなにかに区切りをつける気に違いない。
 くだらない。
 本当は――。
 タッカートは剣を振り下ろした。視覚など必要ない。風もにおいも光も何もかも、とうの昔に手放してもいいと思っていた。
 深い怪我を負って濁流に飲まれたとき、そのまま死んでいてもよかったのだ。だが、タッカートの意思に反してガイゼに救出され一命をとりとめた。
 彼は悪運の強さに嘆きながら、リュエンから託されたものにすがって生きることを選んだ。
 そのお蔭で再び兄の所在を知ることになった彼は、リュエンの望みを叶えるために苦労して方々を歩き、必要なものを集めて回った。
 殺したくて戦っているのではない。
 そう、本当は殺したいわけではない。ただ方法がわからなかった。
 死ぬ方法が――それ以上に、目的を失ったあと生きていく方法が。
 手首をひねって弾かれた剣先を再びシャドーに向ける。よけられたと判断する前に蹴りを入れた。鈍くなにかに当たるのを感じ、反動を利用して体をひねる。
 呻き声が耳に届き、タッカートは小さく笑った。
「手加減するなよ。いまさら同情なんて真っ平だ」
「……本当なのか……!?」
「嘘言っても仕方ないだろ? 少しずつ体に蓄積されてたから、体調どんどん悪くなってたろ?」
「違う」
 鋭くシャドーが遮った。
「リュエンが足抜けした理由だ」
「……幸せそうに笑ってた、それが答えだ」
 息を呑む音を耳にしながらタッカートは再び床を蹴る。早く決着けりをつけないと、イリジア兵に気付かれてしまう。
 タッカートは剣を凪いだ。
 当然のように受け止められた剣はいつもなら次の攻撃に備えて瞬時に引くのだが、タッカートはあえてそれを彼に向けて突き出していた。
 鈍い音が鼓膜を揺らす。
 どっと胸が鳴った。
 焼けるような熱が痛みだと知るのに少し時間がかかった。息を吸うのも辛くなり、呼吸が途端に浅くなった。
 剣が指から滑り落ちて床で幾度か跳ねて高い音が廊下に反響する。
 ああ、とタッカートは胸の奥でささやいた。
 やっと終わる。
 永遠に続く闇はすでに見慣れて≠オまったが、真の闇と向き合うのはこれが初めてかもしれない。
 自覚したら不覚にも全身の力が抜けた。かしいだ体を立て直すこともできず、タッカートは膝を折った。
「なぜ避けなかった……?」
 驚愕する声は頭上から響き、崩れそうになる体は寸での所で何かに受け止められて床に伏すことを免れる。
 避けようと思えば、確かに避けられなかったわけではない。
 だが、もう結果の見えた争いを続けることに飽きていた。
 リュエンを手がけたのと同じ手で死ぬことが最後の望みだったと言えば彼は一生苦悩することだろう。
 タッカートは喉の奥で低く笑うにとどめて震える指先で黒衣を探った。
 彼女に託されたものは未来の指針となった。彼女から聞いていた材料を手探りで集め、彼はこの時のために隠し持っていた。
「なぁ、ここがお前の生きる場所か……?」
 人を殺すために生きた一族がいる。それは別段珍しい話ではなく、戦争があればおのずと必要とされる職種だった。
 多くの戦術を駆使し体術にすぐれたその一族は、その情報を外部に漏らすことをなにより恐れていた。
 兄はその中でも最強の戦士だった。戦うために生まれたのだとささやかれた男だった。
 しかし、人を殺すのが日常の世界から抜け出して、兄は人を守るために生きていた。偽りの王子の影となり、その少年を警護し続けていた。
「王子を守りたいのか?」
 喉の奥が嫌な音を立てる。それすらかまわず問うと、彼はわずかに沈黙してから肯定した。
 少年を誰と重ねているかなどすでに確認する必要もなく、タッカートは手に触れたものを黒衣から引き抜いて静かに伸ばされた手に渡した。
「解毒剤」
 タッカートの短い言葉に、彼の体が大きく揺れる。
「殺したいんじゃない。……たぶん、違うんだ」
 苦悩して絶望したさきに見えるのは、怒りではなく虚無なのだ。己の心に決着をつけたあとには一点の光すら残されないだろう。
「その先には、何もないんだ。だから、アーサー王子は」
「……死を望んでいるのか?」
「国王を殺したら、自分も死ぬ気だ。――それとも、オレと同じように」
 エディウスの手にかかって死ぬことを望んでいるか。すべてを巻き込んだ復讐劇は、少年の中に潜む闇とともに収束していくだろう。
 大国を意図して破滅へと向かわせたのなら、まず間違いなく少年は未来を望んでいないのだとタッカートは感じていた。
「行け」
 声が上手く言葉にならない。タッカートは解毒剤を兄に押し付けてもう一度同じ言葉を繰り返した。
ひづめの音が聞こえる。森の、奥」
「……蹄……?」
「ああ、馬が一騎……ダメだ、バルト軍が動いて……」
「しゃべるな、もういい」
 低い声に小さく笑みを返してタッカートは音のするほうに首を倒した。
「止めろ。バルトが来たら、争いに……国が、壊れる」
 見ず知らずの男をかくまう呑気な親衛隊長がいる、ここは血臭の似合わない平穏な土地だ。
 それに彼には恩義がある。自らの死を選択するための機会を与えてくれた、命をすだけの理由がある。
「頼む」
「わかった。もうしゃべるな」
「……最後に、聞いてくれるか?」
 沈黙した兄の手を取り、彼が握る剣先を自分の喉に当てた。
 息が上手くできない。それがひどく苦しくて、たまらなかった。
 絶句する男に口元を歪めて見せる。
 最後に目にしたのがリュエンの笑顔でよかったと思った。その笑顔を思い浮かべながら死んでいけるなら、それは幸福というものなのだろう。
 闇は、不思議と恐ろしくなかった。

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