【四十四】

 空を見上げ、太陽の位置を確認して溜め息をついた。
 フィリシアがガイゼとともに食料調達を兼ねて怪我人を運んでからずいぶんとたつ。ここに宮廷医師であるオルグがいてさえくれれば、断固として行かせなかっただろう――この状況に、エディウスは焦りと苛立ちを隠せなかった。
 この人数がいても医療に明るい者がいないというのは問題がある。オルグほどではないにせよ、もう少し医学を学んだ者がいたほうが戦況も有利に変わっていたかもしれない。
 そこまで考え、ふっと眉根を寄せた。
 オルグは長く王宮に仕え、そこに住まうことを許された者だ。外出などめったにしない老医師がこの場にいないということは、イリジア兵に拘束されている可能性が高い。あとで彼を目撃した者がいないか訊く必要がある。そして、同じように姿の見えないアーサーの所在も。
 国王の弟というその身分なら、人質としては充分価値がある。公開処刑の標的が変わっていなければいいが――。
 町へ行ったフィリシアがなにか情報を掴んでくるかもしれない。
 エディウスは塞ぎそうになりながらも思考をめぐらせる。
「早く帰ってきてくれ」
 うめくように、彼はつぶやいた。フィリシアが目の前から消えたことは初めてではなく、一度は永遠の別れを覚悟した相手だ。
 だが、じっと待つことさえも苦痛な――これほど不安に感じたことは今までになかった。
 ただ町に行っただけだとわかっているのに、視線は彷徨い、町への道筋を何度も確認する。
 彼は婚約者の名を小さく呼んだ。
 いくら窮地に慣れているという主張が真実であったとしても、敵が制圧した場所に彼女が行くのを許可した自分の判断力のなさを、彼はいまさらながらに後悔していた。
 彼女は身重なのだ。戦地から遠ざかることができる状況でありながら、程近い場所に、ましてや自ら危険を買ってでる必要はない。
「気に病まれる必要はありません」
 臣下の一人はエディウスの心情を察して意見する。
「フィリシア様はこんな状況に慣れておいでです。上手く立ち回ってくださるでしょう」
「国王陛下は戦いに備えてお休みに……」
 近づいてきたもう一人も、そう口にした。
 彼らは一応、フィリシアを王妃として迎え入れることを了承している。だが、戦渦に巻き込まれて死んだとしても、決して嘆いたりはしないだろう。
 王は、少なくとも王妃を迎え入れることができる――その事実が確認できたのだから、彼女の存在は多少なりとも有益だったのだと判断され終わるに違いない。彼女の図太さをそれなりに評価していた者たちは、そうやって過去に終止符を打つのだ。
 エディウスは辺りを見渡した。
 巨大な運河だったセタの谷の一角にはまるで集落のように人が集まり、近くには古代樹と呼ばれる化石の木がある。難を逃れたバルトの民は、ある者は安堵して空を見上げ、ある者は始まったばかりの戦争に怯え、またある者は戦いに備えて剣を磨いていた。
 エディウスは臣下たちの言葉を聞き流してその中をゆるりと移動した。
 なんとなく馬を世話している兵士を眺め再び空を見上げる。
 太陽はずいぶん高くなった。もうそろそろ、フィリシアたちが戻ってきてもいい頃だった。
 彼は小さく溜め息をついて落ち着きなく歩き出す。谷の途中まで迎えに行こうかと考えながら視線を移動さる途中で、大きな岩戸に目を止めた。
「あれは……」
 光を失った男が作った物。原理はわからないが、あの仕掛けだけでかなりの技術を持っていると判断できた。作戦会議の際、多くの戦術を提案してガイゼを驚嘆させたのは記憶に新しい。
 その戦術は有効なのか、そして本当にイリジアをくだして城を取り戻すことができるのか。
 この戦いに負けるわけにはいかないことは、エディウス自身が一番よくわかっている。そして、司令塔となる者が誰かに頼ってばかりでは戦況を悪化させかねないこともわかっている。しかし、今まで学んできた知識がいかにうわべだけの役に立たないものだったかを、エディウスはこの窮地にようやく自覚することになった。
 多くの命をあずかる立場なのだ。その命令一つで戦況は二転三転するだろう。平和な国で安穏と暮らしてきた彼は、自分が戦場でとっさに正しい判断をくだせるかどうかの危惧を抱く。
 目は自然と闇色の男の姿を捜していた。
 状況の変化でどう判断してどう動くべきか、被害が最小限ですむような策はないか、もう一度話し合いたくて彼の視線はタッカートの姿を求めて彷徨う。
 しかし、いるはずの男の姿が見当たらない。
 シャドーとは違い、タッカートは人目も気にせず歩き回り、その奇異な様相で目立っていた。見つけられないはずはない。
 それに、タッカートはなにかを心配するようにエディウスのそばについていた。監視されているのか護衛されているのかは微妙なところだったが、お蔭でよく彼を目にしていた。
 その、必ずそばにいたはずの男が今はいないのだ。
「いつからだ?」
 エディウスは記憶の糸をたぐり寄せる。
 昨日の夜は確かにいた。深夜におよぶ作戦会議に、彼はフィリシアとともに同席していたのだ。
 いつから、と心の中で再度問いかけた直後、彼の体は言葉にできないほどの畏怖に震え近くにいた兵士の剣を奪い取っていた。
 驚くその顔すら視界に入らなかった。
 ざわめきも耳に入らず、エディウスは高ぶる士気に触発されていななく馬に駆け寄った。ベルトに剣を固定して手綱を握り、あぶみに足をかけて大地を蹴り上げる。
「陛下!?」
 駆け寄る臣下の声を振り切って、エディウスは馬の脇腹を鐙で叩いた。
 ざわめきがどよめきに変わる。その中に大地を蹴るひづめの音が混じった。
「――フィリシア」
 シャドーとまともに戦えるのなら、タッカートの実力はおそらくバルトの兵をはるかに凌いでいるだろう。
 その彼が姿を消し、そして、同じく戦いに秀でた舞姫の姿もない。
 まさかとは思う。間違いであれば、思い過ごしてあればと切に思う。
 けれどそれ以上に強く、彼女ならば戦って己の道を切り開くことを望むだろうという確信があった。
 寝所で彼女は、エディウスを逃がすために戦地にとどまることを選んだ女なのだ。
「どうして気付かなかった……!」
 混乱するバルトの民を残し、馬は荒々しく大地を蹴った。一刻の猶予もない。いままでのフィリシアの行動を考えれば、まず間違いなく彼女はバルト城に向かっている。食料も怪我人の搬送も、堂々とセタの谷を抜け出すための口実だったのだろう。
 出かける間際の彼女は、ひどく静かな目をしていた。
 別れの言葉さえなかったが、彼女の心はあの時すでに決まっていたに違いない。
 エディウスは手綱を軽く引く。馬は右にそれ、土煙をあげながら急な坂道を駆け上がっていった。
 激しく揺れる鞍上あんじょうで馬を急き立てて坂道を登りきると、遠くから馬車が近づいてくるのが見えた。エディウスは目を凝らし、荷馬車を操るのがガイゼであることを確認する。
「陛下……!?」
 驚く彼に、
「フィリシアは?」
 速度を落として怒鳴るように短く問うた。
「果実酒を買うと別れたきりで……それよりも、お話したいことが――」
 エディウスはガイゼがすべてを告げる前に鐙を持ち上げた。もう迷うことはなかった。武器はあったのか、戦える体なのかという疑問はすぐに消えた。おそらく彼女は、死すら覚悟してこの戦いに挑んでいる。
 静かな瞳は、剣舞の時に見せた清廉な光を宿していた。行くことを許したのは、その瞳に魅せられたゆえの過ちであったのかもしれない。
 馬はいななき、息をのむガイゼをおいて森の中に突進していった。
「国王!?」
「ガイゼ、お前は兵を整えろ。――私は先に行く」
 はたして言葉は届いただろうか。
 背後を確認することもなく、彼は森へと吸い込まれていった。

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