【四十三】

 軽く血を払って剣を鞘に戻し、背後に聞こえるうめき声を振り払うように階段を駆けおりた。
 広い城内をいまだに把握していないことが悔やまれる。焦りを感じながらもフィリシアはアーサーの部屋を探した。一度も彼の部屋の前を通ったことがない事実から、フィリシアとエディウスの部屋からは離れた場所にあることがわかる。謁見の間からも離れていると考えるべきだろう。
 上か下か、と考え、直感で上だと判断する。
 しかし、エディウスの部屋から直に行ける登り階段は監視用の物見台に続いていた。どうあってもいったん下りて別の通路に出る必要がある。
 ダンスを踊るように心拍が激しくなる。
 それを抑えるため深呼吸を繰り返し、壁に背をあずけて通路に気配がないことを確認する。タッカートのように身軽なら物見台から下り、屋根伝いに移動して敵との接触を極力避けることもできるだろうが、さすがにそこまでの運動神経はない。フィリシアは地道にアーサーを捜すしかなかった。
 お互いの目的のために積極的に協力し合うことも考えはしたが、これから取る行動を考えるととてもそんな気にはなれずに彼とは別れた。
 フィリシアはコツリと後頭部を壁に当てて一瞬だけ双眸を閉じる。
 すぐに開けて、通路に出た。数歩進んだところで話し声を耳にし、彼女は音もなく柱の影に身を寄せた。
 足音は二つ。無論やれない人数ではないが、戦いの最中に別の誰かに勘付かれないとも限らない。アーサーに会うまではなるべくいざこざは避けたい。
 息を殺してフィリシアは近づく足音に耳をそばだてた。
 壁に反響して聞きづらかった声は、足音が近づくにつれて明瞭になった。
「地下庫の……」
「牢屋か?」
「いや、その近くだ。火薬が見つかったらしい」
「……武器を持たないわけじゃない、か」
「当然だろ。いくらなんでもそこまでおめでたくない」
「どうするんだ?」
「使えるかどうか確認してる。ここ二、三日が勝負だ。バルトが攻めてくるぞ」
「戦えるのかねぇ」
「このまま引き下がる腑抜けじゃあるまい。来るなら森からだろうな。夜半から明け方」
「焼き払うか」
「森を? ああ、それもいいかもな。あの密林じゃこっちも苦労する」
 イリジア兵が動くのにあわせて柱の影を移動し、フィリシアは忙しなく考察する。夜陰にまぎれて奇襲するのは道理で、前面の見晴らしがよければ背後から攻撃を仕掛けるのも道理だ。
 それを考慮して危険を回避するため事前に手を打つのは当然の戦術だろう。
 城の周りの木が伐採されれば、森を焼き払う計画なのだと判断したほうがいい。そうなれば、バルトはいよいよ不利になる。
 森を焼き払わせるわけにはいかない。どこから攻めるにせよ、隠れ蓑となる場所は必要なのだ。
 それに――。
 フィリシアは双眸を閉じた。
 森にはあの二人の墓がある。いたずらに巻き込まれてしまった者たちの墓が、人知れず作られていた。
 おそらく、二度と行くことはできないだろう場所。
 目頭が熱くなるのを感じながらフィリシアは細く息を吐き出した。いまは感傷に浸っている場合ではないと己を叱咤して静かに柱から離れる。
 兵士たちが王の寝所へつづく階段を上がるなら阻止する必要がある。異変に気付かれ声をあげられては、自分どころかタッカートまで危険にさらすことになる。
 剣の柄に両手をかけ、フィリシアは廊下を進む男たちの動向を見守った。二人は階段には目もくれずに長い廊下を突き進み、角を折れて姿を消した。
 声とともに足音が小さくなり、フィリシアは安堵して剣から手を離す。踊り子という立場で世を渡った間に戦いには充分慣れていた。命を賭けることなくただ剣を打ち交わすような者たちとは、直面してきた修羅場の数が違う。
 戦えばよほどの手練てだれでなければ勝つ自信はある。
 しかし、悲鳴や肉を断つ感触はいつになっても慣れることはなく、回避できるのなら戦いたくないのが本心である。
 返り血もあまり好ましくない。
 フィリシアはちらりと服を見た。
 赤く転々と散るのは血痕だった。これからのことを思えば、できればどこかで落としたいのだが、切迫した状況ではそんなゆとりもなかった。
「早いとこアーサーを見つけなきゃ」
 火薬を出されたり、森を焼き払われる前に決着をつけたい。再び壁伝いに移動し、フィリシアはいくつかの階段を上り、渡り廊下を移動した。あまりの広さにうんざりしてしまうが、その広さが功を奏してイリジア兵をやり過ごせているのも事実である。
 同じような場所を何度も通り、その途中で足を止めて隣を見ると、窓が大きく外に向かって開かれていた。
 窓からは森が見える。
「あ……」
 違和感を覚えてとっさに駆け寄り、そこから見える景色を確認した。
「ここだ」
 一室に閉じ込められた城の者と一度森に逃れ、そして再び立ち戻ったとき、懐かしい顔の少年が冷ややかな笑みとともにフィリシアを見下ろしていた場所。
 アーサーの部屋の近くなのかもしれない。
 そう思うと一瞬だけ足がすくんだ――その直後、背後でなにかの気配を感じ、フィリシアはとっさに剣を引き抜いて振り返った。
 金属音と布が裂ける音が同時に耳に届く。体を斜にし、フィリシアは流れるように空を切る剣先を見た。
 手首を返す。フィリシアの持つ剣にあたり、襲いくる剣先がわずかにずれた。
 腹部に触れる直前、凶器は肉ではなく別のものをかすりそれを凪いだ。
 小さくフィリシアの口から驚きの声が漏れた。
 裂けた布の間から細やかな装飾がほどこされた銀細工が空中に放り出される。命を守る武器である二振りの剣を捨てて手を伸ばしたい衝動に駆られながら、フィリシアは寸ででこらえて剣をかまえた。
 光をいっぱい受け、大きな弧を描いた短剣が窓に吸い込まれたのが視界のはしに映る。
 剣の柄をきつく握って体勢を整え、フィリシアは鋭い黒瞳を前方に向けた。
「元気そうじゃない」
 皮肉をこめてフィリシアは黒装束の男に言葉を投げる。対峙する男――シャドーは投擲用の武器ではなく中剣を腕にそうように構えてフィリシアを見つめる。
「愚かな人だ」
「――お互い様」
 ぴんと空気が張り詰める。シャドーの体には傷らしいものが一切なく、そこからフィリシアはタッカートよりも先に会ってしまったのだと推察した。
 フィリシアは心の中で舌打ちをしてシャドーとの間合いを計る。長剣二本なら、その長さのぶんだけフィリシアにがある。しかし、武術の才は相手がはるかに凌いでいる。なにより、あえて中剣を手にしているなら、それが彼にとってもっとも使いやすい武器と言うことに違いない。
 つくづく嫌な相手だ。
 じりじりと歩を運ぶシャドーにあわせ、フィリシアはそれとは正反対の動きをとる。神経が高ぶっているわりに胸中は恐ろしく冷静で、わずかな動きさえ見逃さないよう男を観察していた。
 彼はアーサーを守るためにここにいる。彼にとってフィリシアは、忠誠を誓った主人に危害を加えようとする敵なのだ。
 逸れた剣先がはじめに狙っていたのは間違いなく心臓だった。
 彼はすでに、手加減をする気はない。
「……シャドー」
 緊迫した空気の中、フィリシアは重い沈黙を破って口を開いた。
「タッカートがここにいるの」
 男の表情は動かない。眉一つ動かさず、呼吸一つ乱さない。
 フィリシアは続けた。
「あなたが殺し損ねたが弟が、この城にいるのよ」
「――何?」
 生まれたのは小さな動揺。剣先がわずかに揺れた。それを見逃すことなく、フィリシアは再度口を開いた。
「タッカート! シャドーはここよ!」
 戦える。勝機はある。
 彼は、弟が死んでいると思い込んでいた。
 それならば、その驚きはいかほどのものか――間近に一例を見たフィリシアは口元を歪めた。
 どれほど戦にけていても、冷静さを欠けば判断を誤る。それは時として大きな誤算となり活路となる。
「タッカート」
 フィリシアがその名を繰り返した瞬間、シャドーは反転して剣を構えなおした。金属がぶつかる高い音が廊下に響く。
「よぉ、久しぶり」
 にっと、白く浮かび上がった口だけが笑う。
「お前は……」
 王子の影としての冷徹な一面しか見たことのないフィリシアは、彼が驚倒していると察した。揺れる肩、とっさに引かれた足、戦いを想定していたその体が無防備になる。
 フィリシアは踵を返した。
「あと、頼んだわよ」
 短く残して駆け出すと、
「待て!」
「おっと、あんたの相手はオレだろ?」
 背後でそんな会話が聞こえた。緊迫した空気が肌を刺すが、振り返らずにその場から離れた。
(シャドーがいた。じゃあアーサーの部屋は)
 すぐ、そこだ。
 彼の焦りがそれを裏付ける。フィリシアは点々と観葉植物がおかれた廊下に瞳を細めた。緑が多いこの国には、鉢植えを家の中に入れる習慣はない。
(惣平)
 懐かしい名前。胸の中で繰り返すと、そこがジンと痺れるように痛んだ。
 長く続く廊下の途中で、ひときわ大きなドアが目に付いた。目印など何もないのに、フィリシアは確信をもって立ち止まった。
 息が切れる。
 剣を鞘に戻し、フィリシアは大きく息を吸い込んで冷たいドアノブに手をかけた。

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