【四十二】

「適切な処置です」
 清潔な布で手をふきながら、城下町で小さく看板を掲げている医師は緊張するマーサに笑顔を向けた。安堵して深くお辞儀をしてから彼女は処置室に駆け込んだ。
「あれはあなたが?」
 処置室から出た医師はそう続けてガイゼを見た。服装はずいぶんみすぼらしいが、受ける印象はそれとは異なる。
 医師は軽く頭をさげ、周りに人がいないことを確認してから話しかけてきた。
「非常時ゆえ無礼な振る舞いをお許しください」
 驚くガイゼに医師は目じりを下げた。
「わたしも医師の端くれです。親衛隊長のお姿は遠目に拝見したことがある。お役に立てて光栄です」
「いや……あの二人は」
「安全になるまでこちらでかくまいます。とても前線に立てる状態ではない。――国王陛下は?」
「無事だ」
 短く返すと、医師は歓喜の声をあげた。それから両手を組んで額に当て、小さく何事かをつぶやいて顔をあげる。
「アーサー王子は捕らえられているという噂ですが……」
「ああ」
 そんな話になっているのか、とガイゼは動揺を隠して視線をそらした。
 タッカートから王子が内通者だという疑惑は聞いている。過去のさまざまな偶然を繋ぎ合わせれば、王子が内通者と仮定したほうが納得できる事象がいくつもあった。さらにタッカートが偽る利点も思い当たらず、ガイゼはこの話を全面的に信用した。
 むしろ否定するだけの根拠がなかったのだ。
 加えて、弟といわれ続けてきた少年の父親がエディウス本人であるという信じがたい話も聞いていた。
 その話が真実なら、アーサーはエディウスが十二歳の時にできた子供ということになる。あまりに馬鹿げた話しだ。だが、ウェスタリアが懐妊したときは不自然なほど間男となる影は見当たらず、王妃とともにいる時間が多かった過去から考えれば、エディウスから聞いた言葉はどんな流説よりも真実味を帯びていた。
 しかし、その歳の少年が望んでその関係を続けていたのだろうか――それとも、強要されてのことだったのか。
 そこまで考え、ガイゼは静かに息を吐き出した。
 問うことはできない疑問だが、エディウスが頑なに異性を拒み続けた理由がここにあるのなら、その答えは容易に想像できた。
 当時、事件を担当した官司たちは血眼になってアーサーの父親を捜し、まったく身に覚えのないガイゼに対しても窮追きゅうついを緩めることはなかった。幼かったエディウスはその渦中、誰にも助けを求められずにいたのだろう。
 罪の意識はどれだけ無垢な心を傷つけたのか、想像しただけで居たたまれなくなった。
 天真爛漫であった少年は、あの頃からひどく塞ぎ込むようになったのだ。
 それを見た者が彼の弱さを陰でなんと言っていたか――情報の一切が漏れてこなかったのは、弱さからではない。それはおそらく、強さであったのだろう。あの醜聞が公になっていたらと考えると、それだけでぞっとした。
 エディウスが持つ危うさがなんであるのかをようやく知ったガイゼは、ただ無言で拳を握りしめた。
 そして今、実の親子である二人が対立している。
 どんな経緯で至ったのか彼にはまったくわからない。ただ、このままではこの王国が完全に崩壊し、多くの人々がそれに巻き込まれて命を落としかねなかった。それは、なんとしてでも阻止せねばならない。
「どうかされましたか?」
 不安げに問われ、ガイゼは慌てて医師に向き直った。
「いや。……王子は必ず救出する。少し、話してもかまわないか?」
 視線を室内に向けると医師は深く頷いた。促されて室内に入ると、心配そうにマーサが二つのベッドを行き来していた。
 二人とも、まだ当分安静にしていなければならない傷だ。
「傷が癒えるまでここで大人しくしていろ」
「隊長」
 体を起こそうとするヒリックを制してガイゼは再び口を開いた。
「マーサ、すまないが二人についていてもらえるか?」
「は、はい」
 フィリシアと別れて不安を隠せないマーサは、それでも気丈に顔をあげて頷く。ここが安全な場所となるかはわからないが、セタの谷にいるよりは条件がいい。だからフィリシアもこうなることを望んだのだろう。
「オレは急ぎ谷へ戻る」
「隊長?」
「……少し、気になる事もあるからな。お前たちはゆっくり休め」
 親衛隊隊長はそう残して慌しく退室した。彼が出て行ったドアに目礼し、ヒリックは痛む体から力を抜いてゆっくりとベッドに沈めた。
 彼は隣のベッドに眠る仲間を見て、ドアを無言で見つめているマーサへ視線を移した。
 安全な場所に身を寄せているはずなのにその横顔がどこか青ざめているようで、ヒリックは傷を庇いながら体を起こす。
「ダメよ、寝てなきゃ!」
 慌てて駆け寄って強引にヒリックをベッドに寝かせつけ、マーサは溜め息をついた。
 手を離して再びドアを見る。
「ちょっと……お水、もらってきます」
 わずかに笑って部屋を飛び出し、マーサは階段を駆け下りた。胸騒ぎがする。ひどく嫌なその感覚は、フィリシアと別れてからずっと続いていた。
 戦いの前なのだから気が高ぶっているのだと、彼女は自分自身に言い聞かせた。しかし、胸騒ぎはいっこうに治まることなく絶えず不安をかきたてる。
 玄関を飛び出してガイゼの姿を捜したが、荷馬車の姿はすでになかった。
「フィリシア様」
 果実酒を買ってセタの谷へ帰ると言っていた。乱戦を予期して萎縮する兵士は多いから、酒の力で死への恐怖を克服させたり景気づけに酌み交わすことはよくある。そして実際そのためにフィリシアは酒を買いに行った。
 でも。
 マーサは息をのんで首をひねった。
 必死で記憶をたどり、何度も心の中で王城から町に続く道を確認する。酒の類は運搬の手間を考えて船着場に近い店で売られることが多い。旅の商人は帰り際に大量に買っていくので、これはバルトではごく常識の範疇である。
 そう、一般的なことだ。王城付近にどんなに酒場と宿が多くても、酒を卸す店がないことなど。
 マーサは愕然とする。
 混乱していて違和感の理由をとっさに思いつかなかった。まっすぐに向けられた笑顔はこの状況にあってなお怯えの欠片もなく穏やかでさえあった――その、理由を。
 果実酒を買うと言って向かった先には巨大な城が控えている。
 国の中心となる場所だ。いまは敵に占拠されたが、バルトを象徴する大切な拠点だ。
 騎乗した女主人は迷うことなく馬を駆った。単身で動くことさえ危険な状況で、平然と敵地へと向かった。
 ふらりと足が出る。
「ダメです、フィリシア様」
 なんの疑いもなかった。確信めいた思いだけが胸の中で膨らんだ。
 あの抱擁が今生の別れを意味するものだったのだ。きっとフィリシアはそのつもりでいたに違いない。迎えに来ると言ってくれたのは、おびえてばかりいた娘を安心させるための虚言だ。
 止めなくては。
 フィリシアはきっと王城に向かった。大切な人を命に関わるような場所に行かせるわけにはいかない。
 恐怖が麻痺していく。
 イリジア兵の目を盗みながらマーサは王城へと続く道を進んだ。もう足がすくむことはなく、視線はまっすぐに王城を見つめた。
 ふと入った路地裏に馬が一頭繋がれていた。
「お前……」
 足早に近づくと、近くには脱ぎ捨てられたフードがあった。確信は裏付けられ、揺るぎないものになって少女の心に広がった。
 王城に向かうために通りへ出る。すぐに肩を掴まれ、マーサは悲鳴を上げた。
 しかし、口は手で塞がれて強引に路地裏へと引きずり込まれた。殺されると直感して闇雲に暴れると、
「落ち着け」
 低くたしなめられ、彼女は慌てて閉じていた目を開いた。見知った顔が呆れたような表情で見おろしてきて、彼女は訳もわからず目を見開いた。
「ひ、ヒリック……」
 手当てを受けて寝ていたはずの男は、暴れるのをやめたマーサを解放して肩を落とした。
「どうしたの!? 寝てなきゃダメよ」
 傷が痛むのだろうと単純に考えて声をかけると、ヒリックはどこか疲れたように溜め息をついて口を開いた。
「フィリシア様もすごい方だが、侍女もそうだとは思わなかった」
「え?」
「こんなに目が離せない娘だとは」
「え……?」
「……君のことはフィリシア様から言い渡されてる。戦いが終わるまで守れと」
 淡々と言われ、洞窟でそんなことをフィリシアが言っていたことを思い出す。律儀な親衛隊隊員は、あのときの言葉を守ろうとしているのだ。
 マーサは慌ててかぶりをふった。
「大丈夫です。一人でも行けます」
「どこに行く気なんだ?」
「ど……どこだっていいでしょ? あなたは怪我人なんだから早くお医者様のところに戻ってください」
「君は?」
「私……?」
 うまい言い訳が見付からずに口ごもる。ヒリックは視線をはずして繋がれた馬を見た。
「これはフィリシア様の乗っていた馬だろう? どうしてここにいる?」
「見間違いです。こんなのどこにでもいる」
「……君はどうしてここにいる? 危険だとは思わないのか」
 ちらりと辺りを見やってからヒリックは声をひそめる。その動きにつられるように緊張してからマーサは取り澄まして笑ってみせた。
「知り合いの家が近いんです。だから、すこし様子を」
「……女は嘘ばかりつくな」
「嘘じゃありませんっ 私はそこに行くんです!」
「――お前はバカか」
 唐突に口調が変わる。聞き間違いかと顔を上げた瞬間、力かませに引き寄せられて抱きとめられた。
「そうですかって行かせたら、オレは何のためにここにいるんだ」
 言葉がそのまま体に響いてきて、マーサはとっさに反応できなかった。ただ訳もわからず抱きしめられ、しばらくして慌てて体をひねってその腕から逃れた。
 赤くなりながら彼女はヒリックを見つめて口を開閉させたが、言葉は出てこなかった。
「戻れ」
 静かな命令に、マーサは首をふった。
「敵陣に女一人が乗り込んでなんになる」
「そ、そんなこと、行ってみなきゃわからない」
 あえぐように返し、はっとして口を押さえた。
 真剣な視線を向けられてマーサはきゅっと口元を結ぶ。
 フィリシアは王城に向かったのだ。剣舞が優れ、戦いに慣れているというのはあとから知らされたが、それは彼女の過去でしかない。いまは一人ではないその体のまま、彼女は果敢にも立ち上がったのだ。
 心配で心配でたまらなかった。フィリシアの行方が知れた今、無事を祈り待つことなどできなかった。
「私は一人でだって、あそこに行きます」
「戦えもしないくせに」
 マーサの言葉を遮るようにヒリックは意見する。その的確な指摘に、彼女は反論できなかった。武器になるものもなく、ただフィリシアの安否だけを思ってここまで来てしまったのだ。王城に向かうなら武器がいる。武器を手にして、誰かを傷つけるためにそれを振りかざさなければならない。
「なんとでもなります」
 ようやくそう返すと、ヒリックの瞳が少し鋭くなった。
「死にたくなかったら戻るんだ。フィリシア様のご迷惑になる」
「な、なりません。戦えます、私だって!」
「戦うな」
「大丈夫です。あなたは戻ってください」
 きっぱりとそう返すと、ヒリックが溜め息をついた。
「女が危険なところに向かうのに、騎士は寝ていろって言うのか?」
「あなたは怪我人です」
「……お前になにかあると」
「フィリシア様には私から言います!」
「……そうじゃない」
 何度目かの溜め息をつき、ヒリックは腰にぶら下げた剣に手をやった。
「なにかあると、自分を一生許せそうにない」
 剣を引き抜いて王城を見上げた。彼は踵を返して歩き出し、ついて来い、とマーサに言葉をかけた。
 立ち尽くした彼女は慌てて彼のあとを追う。
 ちらりとそれを確認してヒリックの手が伸びてきた。発熱しているだろう手は、しかし驚くほど力強かった。
 手を引かれるまま歩き、マーサは王城を見上げた。
 あの城にフィリシアが向かっていると思うと気がいた。バルトの象徴となる大切な人にもしものことがあってはならないのだ。
 彼女は握られた手に力を込めた。

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