【四十一】

 木々の中に身を隠し、イリジア兵をやり過ごして大きく息を吐き出した。さすがに辛い。わずかに張る腹部に不安を覚えながらも、フィリシアは再び木に隠れるように移動した。
「しかし、まぁ」
 どこか呆れ気味な声が聞こえる。
「作戦会議に出席するから、オレはてっきり本陣に混じってくもんだと……」
「私の性格ならでしゃばって当然よ。静かにしてたらそっちのほうが不気味」
「……ああ、まーな」
 ガサリと頭上で枝が揺れた。タッカートは器用なことに、生い茂る枝の中から瞬時に安全な枝を選んで飛び移っているらしい。とても盲目の男の行動とは思えない、野生動物と言っても過言ではないほどの勘と機敏さだ。
 木がわずかに揺れ、動きが止まった。
 フィリシアも身を低くして息を詰めた。槍を手にした男があたりを警戒しながら森の中を歩いている姿が遠くに見える。さまざまな音が乱れる場所で、わずかなものすら聞き逃がさず反応できる研ぎ澄まされた聴覚は賞賛に値した。
「バカじゃねーの?」
 タッカートは小さくつぶやいてするりと降りてきた。
「持ってたの、槍だろ?」
「そう。……見えるの?」
「や、高い位置の枝が当たってたから。森だったら剣だろ、普通に考えたら」
「……バカね」
 確かに大立ち回りには向かない。どうせ城の外を見回ったついでに森も巡回しているに違いない。
 フィリシアは深い森を警戒して歩いていくイリジア兵を見送って溜め息をついた。朝から奇襲はないと思っているのがその警備の甘さからも知れる。
「夜襲に便乗しなかったのは正解ね」
「……なぁ、姫様」
「なに?」
「なんでオレがついてきてるのわかったんだ?」
 納得できないらしい口調で問われ、フィリシアは隣に立つ黒装束の男を見た。なにをいまさら、とは思ったが、身を潜めて気配を消すことに絶対の自信を持つ男にとっては不思議で仕方ないのだろう。
「……じゃあ、タッカートはどうして私に付いてきたの?」
「そりゃなんか様子がおかしかったから。歩き方もいつもと違ってたし、自分から町に来て、そのまま素直に帰るタマじゃないだろ?」
「そっくりそのまま返す。……もし本当にシャドーとの決着を望んでるなら、誰にも邪魔されない時を選ぶでしょ? イリジアの後発隊がつく前――バルト兵が攻め込む前、無傷の彼を捜すんじゃないかと思って」
 ぽかんと口が開いている。あまりに的外れな答えだったのか、それとも確信を突いていたのかはわからないが、フィリシアはかまわず続けた。
「だから、呼んだのよ」
 バルト兵の誰よりも確かな戦力になる男をあえて死地へと呼び寄せた。どれほど無謀な行動なのかその自覚は充分にあったが、もう後ろを振り向くのはやめた。
 これから進むのは望んだ未来ではないけれど、もしもほんの少し、彼女の過去が違っていたのならあるいは望んでいたかもしれないもの。
 救いたいのはたった一人で闇に抗おうとする少年。守りたいのは、闇に囚われたまま生き続けた男。
(グラルディー、私はどちらも見捨てる気はない)
 自分自身に言い聞かせるように、フィリシアは己の心の中に消すことのできない陰影を残す老婆に告げる。
 悲しげな顔は、この争いの決着には多くの犠牲が必要になると思ってのことだろう。だが、それを回避するにはたった一つだけ道がある。
 何度も襲ってくる迷いを振り切り、フィリシアは兵が周りにいないことを確認してさらに前進し、バルト城に近づいた。
「剣、持ってるだろ」
 音もなく移動した男は小さく問いかけてきた。
 怪訝に思って視線をやると、彼はバルト城に顔を向けたまま続けた。
「二本の剣じゃなくて、もう一本?」
「わかるの?」
「低いこもったような金属の音がする。……短剣?」
 フィリシアは目を見開いて足を止めた。
「あたりか。そんなの持って歩くより、長剣余分に二本持ってったほうが役に立つぞ」
「いいのよ、これは」
 再び歩き始め、服の上から隠していた短剣にそっと手をそえて小さく笑んだ。
(本当は返すべきだけど、これだけはもらっていくね、エディウス)
 彼から受け取ったドレスや宝石類は城内にたくさん置いてあるが、いま手元にあるのはたった一つだ。エディウスの瞳のように独特の藍で満たされた宝石をはめ込んだ短剣は、彼の手で作られた大切な贈り物だった。
 短剣から手を離し、フィリシアはその手を樹木へとそえる。
 外壁ぞいに巡回する兵の姿を見送り次の兵が姿を現すまでの時間を計ってタッカートに目配せする。それを空気の振動だけで感知したのか、彼はゆっくりと頷いた。
「内部は?」
「結構活発だな。考えることは同じだ、ここ数日中にバルトが攻めてくるとふんでるんだろ」
「近くに敵がいる?」
「ああ、ドアの前うろちょろしてる」
 こめかみに手をやってタッカートが返答する。便利な男だと感心しつつもフィリシアは小さく頷いて顔をやや上方へと向けた。
「じゃ、選択肢はないわね」
「ん?」
「行くわよ」
 驚く男をおいて彼女は足早に城に向かった。もう一度だけ近くに人がいないことを確認し、壁に手を伸ばして指をかけた。以前とは状況があまりにも違い、ひどく体が重いのだが、以前何度も登ったお蔭で要領はわかっている。
 記憶を探りながら王城の壁を登ると下から小さく溜め息が聞こえてきた。かろうじて足元を見ると、タッカートがその場にしゃがみ込んでいた。
「本当無茶苦茶。これが未来のバルト王妃だと思うと……」
 どうやら相当おかしいらしい。小刻みに肩を揺らしているのは、笑いをこらえている証拠である。
 確かに年頃の娘がすべきことではないが、この非常事態には致し方ないのだ。
(抜き身でも落としてやろうかしら)
 もう少し身軽なら剣を抜いているところだ。狙いをさだめても当たりはしないだろうが、あの不愉快な笑いを鎮める効果くらいはある。
 文句を言おうと思ったが、フィリシアはきつく口元を引き結んでそのまま石の壁を登ってバルコニーに手をかけた。
 意図せずその手を握られる。
 ぎょっとして顔をあげると、ついさっき下で笑っていたはずの男の姿があった。
「どうして……」
「壁登りは朝飯前。姫様背負って登れるほどの腕力はないけどな」
 ちょっとおどけるように口をゆがめてバルコニーから彼女の体を引き上げた。言葉以上にその力は強く、油断したフィリシアはほんの少し、息をのんだ。
 力任せに引き上げられ、フィリシアは難なくバルコニーに立つ。
 そしてタッカートの隣に並び、彼の目が見えないことに安堵しながらそっと右肩をさすった。
「……どうかしたか?」
「別に……ありがとう、助かった」
 手をどけて礼を言い、少し腕を動かして眉をしかめる。鋭い痛みのあと、刺すような痛みが続いた。
 手を握って開き、歩きながらその調子をみて瞳を細めた。
 剣を握れないわけではない。とっさに対処できなかった自分に呆れながらもバルコニーから室内に侵入した。
 広い室内には多くの血痕が残り、床や壁を染めていた。
「すげぇ血臭……これ、王様の部屋?」
「わかるの?」
「ちょっとクカの匂いが残ってる。しかし、相当斬ったな」
 感心しながら鼻をひくつかせてつぶやき、そしてドアのある方に顔を向けた。
「あっちが通路だな」
「なんでわかるのよ」
「風が流れてる。人はいないみたいだ」
 本当にいちいち感心してしまう。見える人間より万能ではないのかと疑うほど、タッカートは平然と歩く。ただ、動かないものの正確な位置などは瞬時にわからないらしく、時々奇妙なところで立ち止まったりもした。
 フィリシアは彼の前を歩き、廊下に出て赤絨毯を進む。すでにこの通路は使用されていないらしく、長い廊下は朝にもかかわらずやけに暗かった。遠くに見える明かりを目指し、慎重を期すために壁伝いに移動する。
 長い赤絨毯の通路が切れると、フィリシアはそこでいったん足を止めた。合流する通路に人がいないことを確認してから歩を進めた。
「敵は?」
「音が妙に反響して聞きにくい。……近くにはいないみたいだ」
 声をひそめた男にフィリシアは頷く。はじめて来た場所だ、早々把握できるとは思っていなかった。
「シャドーの居場所は?」
「ん……どこかな。音が多すぎる」
「アーサーは?」
「それこそわからん」
「そう」
 声が聞こえれば別だろうが、物音だけで判断しろと言うのが土台無理な話だろう。シャドーがアーサーの警護に当たっているならいっしょにいる事も考えられるが、この状況なら戦いのための準備をしている事も充分予想できる。
(この城が安全だと思い込んでくれてるなら、夜襲に備える可能性もあるわね)
 思い当たって顔をあげた。タッカートにこの行動力があるなら、兄である男も自主的に動くのではないか。
「二手に分かれるわよ」
「……二手って」
「私はアーサーを捜す。あなたはシャドーを捜して」
「危険だぞ」
「ここに来たんだから、覚悟は決めてる。もしアーサーを見つけても何もしないでね。私も、シャドーを見つけたら何もしない。弟がいることだけ伝えるから」
「……なに考えてるんだ?」
 探るような声音に苦笑した。
「つまらない事よ」
 そう誤魔化して顔を背ける。
「凱旋なさい」
「……あんたもな。命、無駄にするんじゃないぞ」
「わかってる」
 深く頷いて通路を少し行った先で左右にわかれた。緊張に息がつまる。背後に視線をやってすでに男の影がないことを確認し、隠し持っていた小さな容器の蓋を開けた。
「戦いを終わらせるには大将の首を取るしかないのよ、タッカート」
 けれどもし、それができないのであれば――。
 フィリシアは哀しげに笑って小さな容器に薬指を伸ばす。
 指先が紅く染まった。それを唇に乗せた直後、遠くから足音が響いてきた。
 警戒などしていないだろう緩慢な音に笑みを浮かべ、瞳を伏せてその手をゆるりと剣へとそえた。
 傷つくことなど恐れない。失うことが何より怖い。
 だから、戦うのだ。
 間近に重々しい音が聞こえた。同時に、柄を握りしめる。
 村娘と見間違うほど質素な服を身にまとい、フィリシアは小さく息を吸い込んだ。廊下の角を折れたイリジア兵は、味方だけがいるはずの城に少女が紛れ込んでいるというこの状況が瞬時にのみこめず茫然としたまま立ち尽くした。
 ゆるく、笑む。
 少女は舞姫と呼ばれた艶やかな笑顔を男へと向けた。

Back  Top  Next