【四十】

 バルト城は前方に町が、後方に森がひかえている。そして、城壁を持ち合わせない造りに加えて南に大扉、東西と北にひとまわり小さな扉があり、さらに多くの通用口が設けられているがゆえに常に警固が手薄になる。
 すべての人々を等しく受け入れるこの国ならではの風習は、イリジアにとって大きな勝機であり、同時に最大の難点となるに違いない。
「外を固めれば内側がもろくなる。内側を固めれば、外側がもろくなる。王と婚約者を取り逃がしたツケ、予想以上に高くついたようね」
 バルト城がイリジアに占拠され、国民たちはひどく混乱した。町の要所要所にイリジア兵が武装して立ち、昼夜を問わず監視し続ける。無意味に剣を抜くことはなかったが、その威圧感にバルト国民は萎縮せざるを得なかった。
 馬を引きながら、フィリシアは目深にかぶったフードを持ち上げて町中をキョロキョロと見渡す。
 イリジアがバルト城を占拠した三日目の朝。
「フィ……」
「ガイゼ、ほらそこ」
 突然名を呼ばれ、ガイゼはつられるようにフィリシアが指差した方角を見た。
「あそこの干し肉おいしそう。隣のパン屋にもよりましょ」
「はい」
 ガイゼは馬車を誘導する。いつもは露店や買い付けの商人でごった返している大通りは、バルト陥落の報せから閑散としたままで、馬車と馬が並んで歩いても通行人に煙たがられることさえなかった。
 人々は家に引きこもり、不安にあえいでいる事だろう。
 王は無事だ。国が滅びたわけではなく、国の中枢をささえる血脈はまた途絶えてはいない。王が無事ならばその血を頼って人々が集まり国の復興が始まるだろう――しかし現状、バルトは非常に絶妙な均衡のもとにある。大国であるという事実からも、ただ一方的に侵略されるわけにはいかない。
「町にこれだけ人員をいてるなら、谷にいる人間だけで王城に攻め込めば勝ち目はある。……城の内部情報、集められないかしら」
「フィリシア様」
「どうしたの?」
「め、目立ってませんか?」
 緊張したように小声で話しかけられ、フィリシアは呆れたようにガイゼに視線をよこす。
「こそこそしてたほうが目立つじゃない。あなたも堂々としてなさい」
 そう言ってから、今度は緊張して馬車の手綱を握るマーサを見上げた。彼女はガイゼ以上に動きがぎこちなく、誰の目から見ても充分に不自然だった。
 その姿に溜め息がもれたが、敵兵がうろついている中を若い娘が出歩いているのだ。この態度のほうが自然のようにも思う。
 大通りをずかずか横切っていると、剣を片手にイリジア兵が近づいてきた。
 後発隊が到着するまでの間、彼らはこの状況を維持しなければならない。バルトの兵が姿を消している今、不穏な動きをする者は排除の対象になっている。
「おい、貴様」
 剣先はガイゼに向いていた。馬を引くフィリシアと、馬車の上で怯えているマーサよりは手強いと踏んだのだろう。的確な判断だといえる。
「なによ」
 足を止めて口を開いたのはフィリシアだった。
「あんたたちが来たせいで、食料が来なくて困ってるのよ」
「なんだと?」
「知ってるでしょ? 成婚の儀があるって言うから、宿に客がぎっしりなのよ。それなのにあんたたちのせいで食料が届かないの。しかも、ウチの住み込みに怪我までさせて――お蔭でこれからお医者様のとこにも寄らなきゃいけないんだから」
「あ?」
 ガイゼがぎょっとし、イリジア兵は怪訝な表情で馬車の荷台を覗き込む。そこには、質素な服を着たひどく顔色の悪い男が二人寝かされている。
 それが王の寝所を守っていたバルト兵とも知らず、男は眉をしかめて震えながら手綱を握りしめてうつむくマーサを見上げた。
「ああ、……悪かったな。抵抗する者は斬れとの仰せだから」
「アーサー王子の母君はイリジア出身でしょ。あまり手荒にして欲しくないわ。聡明なイリジア王の名が堕ちるわよ」
「小娘に言われるまでもない」
 剣を鞘に収めながらイリジア兵は舌打ちした。それからフィリシアを見つめて鼻で小さく笑った。
「ずいぶん肝のすわった娘だな」
「亭主が役に立たないの。困った人でしょ」
「そりゃ困った男だ」
 くっと肩を揺らして笑う。張り詰めた空気が瞬時に崩れた。
「宿屋か?」
「一階は酒場。今度いらっしゃい。いい果実酒が手に入ったの」
「ああ、よらせてもらおう」
 軽く手をあげてイリジア兵が去っていくのをフィリシアは愛想よく見送る。予想以上に兵士の質がいい――無闇に占拠した国の人間に危害を加えないよう厳命されているのだろう。捕虜となった者の末路など所詮知れているが、いまのままならその最悪の道だけは進まずにすみそうだ。
「皮肉ね」
 小さくフィリシアはつぶやく。
 イリジア王にとってバルトは娘の心を引き裂いた国で、アーサーさえ戻ればこの国に義理立てする必要などない。ならば、滅ぼそうとする王国に温情をかけ続けているのは、陰で糸を引くあの少年自身ではないのか。
 確信はない。
 だが、過去の彼を知るフィリシアにはそう思えてならない。
「フィリシア様」
 店の前で物色していると、ガイゼが控えめに言葉をかけてきた。フィリシアはそれに生返事をしながら干し肉の塊に手を伸ばす。
 思考の波が視界を奪う直前、ガイゼが再び口を開いた。
「ずいぶん……」
「慣れてる?」
「え……いえ、あの」
「あの手合いは慣れてる。私は踊り子よ。酒場にはもっと手の付けられない奴がいっぱいいた――言葉が通じるだけ助かるわ。それに、ああいった連中は気が張ってるの。苛立たせるか楽にしてやるかの選択しかない」
「……はぁ」
「……酒場、行かないの?」
「すみません」
 ガイゼは忠勤で必ず城の中にいたが、たまには羽を伸ばしに行くだろう思っていた。しかしフィリシアの予想は見事にはずれてしまったらしい。
(堅物ね)
 呆れを通り越してしまう。小さく笑いながらフィリシアは干し肉を選んで店主に料金を払った。セタの谷で食べられる物は木の実や薄いスープしかなく、とてもこれから激戦に向かわねばならない兵士に出せる物ではなかった。
 町に行くと言ったらさすがに反対されたが、情報収集と食料の確保は必須でもある。親衛隊隊長であるガイゼを付けさせしぶしぶ買い出しを許したのは、エディウスが彼を信用してのことに違いない。
 王の次に守らねばならないのは王妃だ。その重責に、ガイゼの顔は真剣そのもの――あえてだらしない服を着た彼は、見ようによっては敵国の侵入に緊張し、女主人を必死に守ろうと付き添う下働きの男だ。
 マーサも可哀想なくらい怯えてこの状況をうまく演出してくれている。お蔭でわずらわしい事もなさそうだ。
 隣のパン屋での買い物もすませ、連なる軒を移動しながら次々と食料を買い込む。間違っても持久戦に持ち込んではならないのだが、食料が足りないのでは話にならない。
 一通り満足するだけ馬車に積むと、フィリシアは馬の手綱を引いた。
「果実酒を買ってくるから、ガイゼはお医者様のところによって先に帰ってて。マーサ、ちゃんとヒリックについててあげなさい」
「フィリシア様」
 驚いたような顔の侍女に優しい顔を向ける。
「落ち着いたら迎えに来るから、そんな顔しないの」
「でも、私もお傍に……!」
「充分やってくれた。だから少し休みなさい」
 くしゃりと顔を歪ませたマーサに頷いてみせる。主従の関係にとどまらず、気安い友と呼べる娘をようやく安全な場所にあずけることができるかと思うとそれだけで嬉しかった。これで、強引に町に来た一番の目的が果たせる。
 身を乗り出すマーサに近づき、不安定な場所からの抱擁を受け取って彼女から離れた。
「それじゃガイゼ、よろしくね? 谷で会いましょう」
 あぶみに足をかけて軽く地面を蹴る。さすがに体が重く感じてしまうが、それでも動けないというほどではなかった。
「フィリシア様」
 不安げなその顔に頷いてから鐙で馬の脇腹を軽く叩くと、小さないななきとともに馬が駆け出した。
 途中で会ったイリジア兵には自分から声をかけた。いかにも接客慣れした風を装い、酒を買って怯える客の機嫌をとらねばならないと愚痴を交えながら嘘をついた。
 多少は警戒されるものの、いい酒が入ったからおごるといえば悪い顔はしなかった。
 しばらく馬を走らせ、人の気配が途切れたところで素早く脇道に入る。馬からおりてそっと腹部をさすってから顔をあげ、どっしりと構える巨大な城との距離を目算する。もう少し近づきたかったが、あまり近すぎても怪しまれてしまうだろう。
「仕方ない」
 そうつぶやいてフードつきのマントに手をかけた。乾いた音をたてるマントを脱ぎ捨て、その両手をさらに深く背中に回す。指先に触れた硬い感触を掴み、するりと引き抜いた。
 目立つことを避けてさほど大きな物は用意できなかったが、コツさえつかめばまったく問題はないだろう。
 軽く空を斬って、それをそのままベルトに固定した。
 二振りの剣。
 戦うための道具。
「タッカート」
 凛とした声を響かせるとどこからともなく影が舞い降りた。まるで闇の結晶のようなそれが音もなく低くした上体を起こす。
 張り詰めた空気を肌に感じながら、少女は伏せ気味だった顔をゆっくりとあげる。
 眼前にそびえる城は山のように巨大だった。それをまっすぐに睨みすえ、彼女は力強く足を踏み出した。
「行くわよ」

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