【三十九】

 この混乱の中、よくここまでの人員が集まったものだと感心する。見覚えのある顔をいくつも確認し、フィリシアはそれを集めた男に視線をやった。
 全身黒づくめの男は唯一口だけを露出させて笑っている。闇を溶かしたような黒衣は体に張り付き、本当に最小限と思われる箇所のみを守っている防具もそれに続いた。常軌を逸するその姿に、バルト兵たちはどこか気味悪そうに遠巻きにして彼を見ていた。
(まあ仕方ないけど。……気持ちはよくわかる)
 視界を完全に閉ざされながらも健常者と変わらず動き回る男は、器用というより奇妙に映る。さまざまな土地を渡り歩き、多くの人々とわずかながらも交流を持ってきた彼女ですら、彼は異質な部類に入った。
「タッカート」
「あ?」
「目立ちすぎ」
 兄でありアーサー付きの護衛でもあるシャドーは極力目立つことをせずにいたのに、タッカートはまるでその逆をいく。半ば呆れながらも男の元に向かうと、兵たちが明らかに警戒するそぶりを見せた。
 どうやら、タッカートはまだ仲間として認知されていないらしい。
「大丈夫よ」
 一声かけると空気が少しだけ和んだ。しかし、昨夜起きた侵略を耳にした兵士たちは、落ち着きなく町がある方角を見やる。自分たちが「死の谷」と呼ばれた場所に来ていることよりも、家族の安否が気がかりなのだろう。フィリシアは視線を走らせた。
 谷の片隅に小ぶりのテントが設置してある。タッカートの手配で設けられたその一角は今、作戦会議の真っ最中だった。
「今朝早く、バルト陥落の報がイリジアに届いた」
 ごく小さな声でタッカートが告げる。
「その少し前にバルトから駿馬が発った――騎乗していたのは少年だ」
 ふっとフィリシアはタッカートを見た。
「なにが言いたいの?」
 含むような物言いにフィリシアの表情がきつくなる。
「内通者がいなきゃいくら夜襲でもここまで手際よくはいかない。下手をするならバルトの中枢が根こそぎ潰されてた」
「……裏切り者がいるってこと?」
「ここのところ、バルトの警護が薄くなってなかったか? 不審な動きをした者はいなかったか? 国一つ傾けるってのは、言うほどやすいもんじゃない。時間と金と労力――加えて、人を動かすだけの理由が必要になる」
「言ってる意味がわからない」
 フィリシアは視線を逸らした。兵士の集まるこの場所から少し離れた位置に、バルト城から逃げ出してきた人々が配られたスープを手にしたまま疲れた顔をして座り込んでいる。もうすぐ日が暮れる。所々で野営の準備が始まっていた。
「そんな事はどうでもいいの。早く動かなきゃイリジアが来る」
 作戦会議は休息をとることなく朝から休みなく続いている。夜陰に紛れて動くのかと考えていたが、肩慣らしを続ける兵士たちに招集がかかる気配はなかった。緊張し苛立った兵士たちがときどき揉め事を起こしては、フィリシアが仲介に走り回っているような状態だ。
 刻々と不安が増した。
「言ったろ、徴兵令がでた。兵を集めるのに一日、装備を整えるのに一日――移動に、三日だ。焦るこたぁないさ。駿馬をったヤツも、それくらい把握してる」
「どういう意味?」
「先発でカタをつける予定が失敗した。イリジアからの後発隊は保険だがそれを使う必要ができる。なら、イリジアはどう考える? バルトがどう動くかを予想しないほどバカぞろいじゃあるまい」
「この五日が勝負ってこと?」
「ご明察。五日でカタをつけなきゃバルトは完全に包囲される。王城を取り戻し、援護が有効なのは五日間」
「一日は終わったわ」
「そ。残り四日間。偽の書簡をバルトと同盟結んでる国に出したが、諸国が動く前にバルトにも力があることを見せる必要がある。イリジアが根回ししてる可能性は充分考えられる。この国に守る価値がなければ、同盟国は手を貸すどころか牙をむくぜ?」
 道理だ。先急ぐよりも自由になる時間を有効に使い、もっとも被害の少ない方法で王城を取り戻し、後発隊が到着する前にこの国が手を貸すに値する国家であるのだと知らしめる必要がある。その手腕ごと、この国は評価されるだろう。
「それからな、舞姫様」
 低い声がいっそう低くなる。わずかな躊躇いのあと、タッカートは口を開いた。
「アーサー王子に関しては口に出さないほうがいい。あそこにいるのが真実誰≠ナあるか――それを決めるのは、本人じゃなくて周りなんだ。内々に隠してる王子が本人じゃないなんて知られれば、イリジアは本当に退けなくなる」
「え……?」
「駿馬を駆りイリジアに向かったのはアーサー王子≠セ。もう着いた頃だろう。あっちにはさらに速い馬がいるから、帰ってくるのは明日の昼。――囚われの王子にしては機敏だな」
 次々に告げられる言葉に思考がついていかない。呆然と言葉を失うフィリシアに気付いたのか、タッカートは微苦笑した。
「戦はオレの本業だ。情報収集は基本中の基本」
 手を天空へと伸ばすと甲高い鳥の鳴き声と羽ばたきが聞こえた。いくつもの視線が上空を見やり、そこに滑空する大型の鳥を発見した。
 減速もなく鳥はタッカートに向かって降下し、掲げられた手を大きな鉤爪で掴む。女子供の腕ならもげていたかもしれない。そう思うほどの速度であり鋭さだった。
 大きな丸い瞳で辺りを見渡してから、鳥はタッカートの耳にくちばしを寄せてもごもごと動かした。何度か瞬きを繰り返してタッカートが頷くまでくちばしを動かし、ご苦労だったなというねぎらいの言葉とともに喉を撫でられて瞳を細めた。
「イリジアへ戻れ」
 勢いをつけて鳥を大空へと放すと、谷を数度旋回し、やがて上昇していった。
「なに、あれ」
 世界にはさまざまな鳥がいる。しかし、あれほど見事な翼とそれを操るための体を持ったものは見たことがない。速いだろうことは、頭部から首、体の線を見ればひと目で知れた。
 それに、わずかに聞こえてきたのは、紛れもない人語である。
「昔、魔術師ってヤツがいて、キメラって物を作った。その中の失敗作さ」
「おとぎ話よ」
「どんな事実でも疑えば偽りだ。……王子がイリジアを出た。思った以上に動きが速いな」
「タッカート」
 なにを思って、その事実をエディウスではなく自分にだけ伝えるのかとフィリシアは困惑しながら男に視線を戻した。
 彼は少し笑って、口を開く。
「オレは耳がいい。余計な言葉も入ってくる」
 笑いは騒音のために苦笑に変わった。タッカートはフィリシアの隣に並び、歩くようにうながしながら言葉を続ける。
「王様の耳に入れないほうが賢明だろ。クカ常用者は、精神が不安定だから」
 いつその情報を手にしたのかと、フィリシアは表情を硬くした。男は常人ではない。視界を失ってなお、音と匂いで世界を知り、混乱の中でわずか一昼夜のうちに軍事に身をおくガイゼが驚くほどの兵を集めたのだ。
 男が持つ情報は機密と呼ばれる部類に属する。ガイゼが抱き込んでくれなければ王国は完全に崩壊していたに違いない。
「わかってる。……ありがとう」
「礼を言われることじゃない。あんたどうせ、誰がどう言ったって戻る気だろ? だったら情報は多いほうがいい。いざって時に動けなくなるわけにゃいかないからな。覚悟を決める分だけ時間がいる」
「あなたも必要だった?」
「……ああ。でも、まだ迷ってるかな」
 ポツリともらす。彼は視界を遮る布の上からそっと片手で顔を覆った。彼にも何かしらの過去があり、その過去を引きずりながらここに立っているのだろう。昼間、ガイゼに彼のことを少し聞いた。川で拾った時には死んでいるのかと思うほどむごたらしい有り様だったらしい。かろうじて急所ははずれていたものの、急激な体温変化と出血でいつ死んでもおかしくない状態だった。いっそ殺してやったほうが彼のためではないのかと迷ったという。
 その傷を彼に負わせたのがシャドー。
 兄弟同士で戦う理由が果たしてあったのだろうか。そう考え、エディウスとアーサーの顔が思い浮かんだ。心がすれ違えばすれ違った分だけ、向ける敵意はぴったりと重なっていく。たとえそれを望んでいなくとも。
「オレは真意を知りたいし真実を伝えたい。殺すのはそのあとだ」
「物騒ね。シャドーの話?」
「ああ。渡し損ねたものもある。だから、バルトに手を貸すのは親衛隊長に恩を返すだけじゃないってことだ」
 まるで言い訳をするように皮肉っぽく口を歪める。彼はテントに向かって行き、フィリシアもそれに従った。
「……舞姫様、シャドーに拘束されたとき妙なことなかった?」
 テントの前でタッカートは静かに問うた。
(妙?)
 問われた言葉を胸のうちで反芻してフィリシアは小首を傾げる。それこそ数度しか会っていない男の変化などいちいち関知していない。見事な身のこなしと武術の才、さらに冷静さを兼ね備える護衛であるという判断が精一杯だった。
「別に」
「そうか。まだ、戦えるんだな」
 淡々としたその一言は、意外なほど悲痛にも聞こえた。フィリシアはそんな男を盗み見て、それから小さく溜め息を落とす。
「変な奴だけど腕は確かね」
 素直な感想を述べると、タッカートは喉を鳴らすように低く笑った。彼はテントの前で足をとめ、それからフィリシアに顔を向けた。
「入る?」
「当然でしょ」
 長く続いた会議でいくつかの案は出ているだろう。分厚い布を脇によけると、タッカートはフィリシアに道を譲った。
 簡易のテントは子供の頃に雑技団で使っていたものとよく似ている。懐古心に囚われながらもフィリシアは中央に設置してある木製の古いテーブルを見た。
 バルト全域が描かれている地図が乗っている。そこには小石がいくつも置かれ、敵の位置を示していた。
「フィリシア?」
 婚約者の突然の登場に驚いたのか、エディウスが目を見開いていた。中には親衛隊総長であるガイゼ、総指揮官のマクシミリアン、外交官のポルトワール他、数名の男たちがむさくるしい顔を突き合わしていた。顔と名前はかろうじて一致しているが、個人的にはまったく知らないと言ってもいい面々である。
 彼らはテントに入ってきたフィリシアとタッカートを不躾に見た。
(どうせ女が、部外者が入ってくるなって言いたいんでしょ)
 本来なら出しゃばることではない。とくに妊娠五ヶ月というフィリシアは彼らの足を引っぱることしかできないと思われている。バルトの重鎮たちを無事に逃がすことができたのは、あくまでも運がよかったのだというのが彼らの意見だ。
(退けないの、絶対に。アーサーを止められるのは私だけだから)
 ひるみそうになるのをとっさにこらえ、フィリシアは舞姫と呼ばれた仕草そのままに軽い足取りでテントの中を突き進んだ。
「私も会議に加わるわ」
 ざわりと空気が乱れる。まっすぐにエディウスを見つめたまま、フィリシアは艶やかに笑んだ。
「私は未来の王妃よ。この国を守る義務がある。――違う?」
 動揺するエディウスから視線を逸らして室内を見渡す。驚きと反感が満ちたが、エディウスが強く否定しないために誰も意見する事ができずにいる。
 ただ、内情を知るタッカートだけが静かに顔を伏せた。

Back  Top  Next