【三十六】
色も音もない世界で腐臭だけが立ち込めていた。
少年はあたりを見渡す。一筋の光も見い出せないほどの闇を彷徨い、その一部がおかしな具合に揺れていることに気付いた。
「なんだ?」
口を開き、言葉を発する。まるで自分の声ではないような音が世界を震わせる。
闇の中に質感が生まれ、黒い塊となって音に反応してうごめく。得体の知れない塊に少年は瞬時に緊張したが、闇を凝視するうちに危険なものではないと判断した。
黒い塊はゆるりと動いた。
少年は目を見張る。
塊が、背の曲がった小さな老婆へと姿を変えたのである。
「誰?」
老婆は不思議な光を宿す瞳を細めた。慈悲とも哀れみとも映る表情を誤魔化すように、老婆はゆっくりと首をふった。
「お前、巻き込まれちまったのかい。運命は変えられなかったか。難儀だねぇ」
低くつぶやき、すっぽりと闇をかぶった老婆は瞳を伏せた。
「……誰だ?」
嫌な感じがする。不快というのではなく不安と表現したほうが的確なような感覚だ。たとえようもなく奇妙な感情に戸惑って、少年は大きくその身を震わせた。
「すべての時間と空間を仲立ちする者」
理解できない言葉を老婆が口にした瞬間、少年は幼なじみと同じ容姿を持つ少女の言葉を思い出していた。
「グラルディー」
鍵の持ち主。ただよう腐臭がきつくなる。少年は、その視界に白く揺れるものに気付いて視線を彷徨わせた。
彼から少し離れた位置に少女が立っていた。服装から幼なじみだと判断して声をかけたが、大きく左右に揺れるだけで返答がこない。
いつもは呆れるほどよくしゃべる女だった。話題が尽きないのかと感心したりもした。
そんな彼女が、顔を伏せたまま揺れ続けている。
腐臭がきつくなる。
背筋が冷えた。悪寒は全身に広がり言葉さえ奪う。
彼女に近づこうとしたが、そこに縫い付けられたかのようにその足はまったく動かない。
少年が見つめる先――少女が、ぴたりと動きをとめた。伏せた顔をゆっくりとあげていく。
「ミナ――!!」
腐臭の原因を知ると同時、少女の体から力が抜けた。悲鳴すらあがらなかった。崩れ落ちた体は、かろうじて彼女であるという判別しかできないほど食い荒らされ、腐敗していた。
世界が一転する。
闇が拓けたその先には深い森が広がっていた。清涼な空気はよどみ、吐き気すら覚える惨状が少年の目の前にあった。
膝をついた彼の思考は完全に停止していた。少女はほんの数日前までは確かに生きていた。見ず知らずの兄≠ノ凶刃を向けられるまでは、楽しげに笑い、ごくあたり前のように彼に語りかけていたのだ。
それが、なぜこんなことになったのか。
彼女が死ぬ必要がどこにあったのだろう。剣を向けられる理由など何ひとつ思い当たらない。恐怖で引きつるその顔が眼裏に焼きついて離れなかった。
庇うことすらできず、絶命の瞬間を目の当たりにした。そして拘束された数日間は、彼を絶望させるには充分な時間だった。
夢と過去が交錯する中、彼はようやく現実≠把握した。己に起こったこと、その本当の意味を。
「王子!!」
唐突に世界がかすむ。鋭い老人の声に、彼は閉じていた双眸を開けた。
「アーサー様!」
一瞬、なにを言われているのか理解できなかった。目の前に広がっていた深緑と澄んだ空は硬質で豪奢な牢獄に替わり、腐臭は流動を忘れた大気にすり替わる。彼は、覗き込むように身を乗り出した老人をぼんやりと見上げた。
「アーサー様」
「……大丈夫だ」
何度目かの呼びかけに、彼はようやくそれがいまの自分の名前≠ナあることを思い出す。少年が
「随分うなされておりました」
少年は失笑しか買わない豪華なベッドから身を起こし、彼の異変に誰よりも早く気付いた宮廷医師に一国の王子としての顔を向けた。
「状況は?」
グラスを手に取るとオルグが水差しに手を伸ばした。そそがれる液体を喉の奥に流し込むと、そこがヒリヒリと痛むのがわかる。
「フィリシア様が閉じ込めていた重鎮とともに逃げたようです。イリジア兵によれば、牢獄に閉じ込められていたバルト兵が――ダリスン・ベネットが逃がしたと……」
「始末しておけ」
「しかし」
「足を引っぱるような駒はいらない。オレが王子なら、オレに従え」
「……御意に」
「御触れは?」
「バルト城陥落の報はすでに。……指示通り、王子はイリジア軍に拘束され、王と舞姫は逃げおおせたことになっています」
「オルグ」
動揺を隠しきれない宮廷医師の瞳を少年はまっすぐ見つめた。王に殺された王子の代役――この立場をどう利用すれば、より思い通りに事が運ぶのか。
「国民がバルト王に反感を抱くためには何をしたら一番効果的だと思う?」
「アーサー様」
「お前は奴を失脚させたいんだろ?」
「エディウス様が治める国に未来はありません。――しかし」
「この国に王はいらない。お前の言葉を、オレはそう解釈したが」
この馬鹿げた役を演じ続けたその先に待つものがなんなのかなど、すでにどうでもよかった。守り人の鍵はすでに彼の手で壊されている。過去にどんな力を加えてもびくともしなかった鍵は、少年の憎しみとともに振り下ろされた剣により捻じ曲がり、力の源である血の石は砕けてその原形すら留めていない。
奇跡を起こした遺物はすでに機能する能力を失った。
元の世界に戻ることはできない。
――戻る必要すらない。
「イリジアに支配されるわけにはいきません」
「では、イリジア王の首も手に入れよう」
「アーサー様」
「出て行け。話は終わった」
「アーサー様!!」
「行け」
静かな命令にオルグは青ざめたまま深々と
「未来なんて、いらない」
ゆっくりとその手を伸ばす。
「何もいらない」
脳裏に刻み込まれたあの惨劇だけが、彼をこの世界に留まらせる理由だった。眠るたびに繰り返される悪夢は、いつも少しずつ形を変えて彼の記憶を鮮明に蘇らせる。
そして、それに比例するかのように幸せだった頃の記憶が薄れていく。
「美奈子」
なにかを掴もうとするその指先は、ただ虚しく空を掻いた。