【三十七】

 部屋着のようなドレスを着替える途中、フィリシアは怪訝そうに眉を寄せた。セタの谷は、伝承では一昼夜にして干上がったと伝えられ、バルトの人間ならば呪いを恐れて近付かないような僻地だ。
 そこを逃げ場所として選ぶのはいい判断だが、着替えがあるのはどうも腑に落ちない。
「これは?」
 腹部がゆったりとした作りのドレスは露出をひかえたものだが仕立て自体は悪くない。未来の王妃が着るにしては質素だが、淑女が着るにふさわしい上品なものと言ってもいいだろう。
「タッカートが用意したものです。気が利くというか……どうしてフィリシア様にぴったりの服が用意できたんだろう」
 最後は独り言のように続き、マーサは小首を傾げた。
「タッカート」
 繰り返すと、闇色の装束をまとった男が思い浮かんだ。アーサーを守るためにその陰に潜む男――その彼の、弟だと言う。
「本当に信用できるの?」
「ガイゼ様に命を助けられたそうで、忠義のために尽くすらしいです」
「……やっぱり馬鹿の物好きってことね」
「フィリシア様」
「戦況は不利、イリジアはバルトと違い戦力がある。それを使わないほど人が良いはずないでしょ。バルト城の背後にはイリジア兵がいる」
 それは同時に、バルト城に残ったアーサーの後ろ盾がイリジアであることの裏づけでもある。アーサー王子はイリジアの第三王女が生んだ子だ。それを彼が知っているのなら、利用しない手はない。
「イリジア……」
 マーサは小さく繰り返してうつむいた。彼女にとっては協定を結んだ親善国に違いない。寝耳に水のこの状況はにわかに信じがたいものだが、彼女は王城で、フィリシアとともにイリジアが攻め込む光景を見ていた。
「バルトの王はエディウス様です」
 震える声にフィリシアは瞳を伏せた。王が国を統治しなければ王国は成り立たない。王を失えば国はしるべを失って混乱し、いずれは衰退する。
 あるいは、他者によって支配されるか。
「イリジアを追い出して王城を取り戻す。それがバルト王がやらなければいけないこと……血なまぐさい話ね」
 ドレスの裾を整えるマーサを見つめながらフィリシアはそうこぼした。戯れに他国を侵略するほどイリジア王は愚かではない。争いを好む王でもなく、現イリジア王が国を統治してから戦争が起こったこともなかった。
 その王が剣を手にしたのだ。
「誠実な王であると……そう、噂には聞いていたのに」
 唇をきつく噛んでドレスを握る。すぐに、慌てたように手を離してわずかな皺を伸ばした。重い息を吐き出し立ち上がって、マーサは隠すようにスカートのベルトに固定していた短剣を差し出した。
「お返しします。とても心強かったです」
 小刻みに震える手は未来への不安のためか――本来なら無理にでも武器を持たせるべきだろうが、マーサは一介の侍女でしかない。戦うための剣など持っていていいはずがない。
 だが、身を守るための武器はいる。
 フィリシアは差し出された優美な剣に伸ばしかけた手を止める。
(血は、見て欲しくない)
 剣を持てば戦う意思があると判断される可能性は高い。しかし、持たねば抵抗することすらできないのだ。
「フィリシア様?」
 大切そうに剣を両手で持ち、マーサはフィリシアを見た。主人がなぜ剣を受け取ってくれないのかをいぶかしむように。
 イリジアは統率の取れた兵だ。少なくとも、速やかに王城を陥落させるために送り込まれた兵はそれなりの能力と良識を持ち合わせていたに違いない。
 狭い一室とはいえ、そこに押し込められた人々に怪我がなかったことがその裏づけになる。だが同時に、バルトの民がいくら従順だったとしても、なんの用意もなしにあそこまでの事ができるとは思えないのも事実。
「周到に用意して一気にしとめるつもりが失敗した。――焦るわね、イリジアは」
 戦況が長引けば、イリジアは多くの兵を導入するだろう。そのすべてにあれほどの統率があるとは思えなかった。
「マーサ、その剣は……」
 まだ持っていなさい、と言葉を続ける途中で遠くから呼び声がして、フィリシアは口をつぐむ。闇の中に淡いランプの灯が小さく揺れている。
「ヒリック!」
 小石の転がった洞窟内は視界が悪く、時折ランプが大きく揺れた。
「失礼します――そちらに行っても?」
「ええ、平気」
 かしこまった声にフィリシアは表情を緩めた。ヒリックの姿はすぐにフィリシアたちのそばに置かれていたランプの光に照らされた。
 王直属の兵らしい、実に優雅な動作でひざまずく。
「よくご無事で」
「……あなたもね。怪我は?」
「大事なく」
「もう一人は?」
「一命を取り留めました。彼女が……マーサの手厚い看護のお蔭です」
 笑みを浮かべた若い兵士の言葉を受けて、侍女の頬が見る見る赤くなっていく。その様子を眺め、フィリシアは小さく笑った。
「いろいろと面倒をみてもらったようね」
「――いえ。面倒をかけたのは……」
「ヒリック」
 鋭く名を呼ばれ、彼は顔をあげる。フィリシアはマーサから剣を受け取ってベルトに固定し、目立たないように上着で隠しながら言葉を続けた。
「この子を守ってくれる? 武器を持っていないの」
「……え?」
 茫然としたように言葉を失って、彼は慌てたように、しかし、と言葉を濁した。
「戦乱が終わるまで。――そう長くないわ」
「フィリシア様?」
 見上げる男に笑みを返し、フィリシアはマーサの腕を軽く引っぱった。
「彼ならいいんじゃない? 応援する」
「フィリシア様――!? わ、私は、そんな……っ」
 真っ赤になるマーサの背中を軽く叩き、フィリシアは歩き出した。さすがに会話が聞こえたらしいヒリックが小さく咳払いをして先導する。
 歩きにくい足元に転ばないよう気をつけながら、フィリシアはヒリックの背を見つめた。
「自分は王直属の親衛隊隊員です。王になにかがあれば身を挺すのが務めで、人を幸せにすることなど……」
「女のためには戦えないの?」
「そうでは……!」
 振り返りかけた男の背をフィリシアは軽く押した。
「幸せにしてあげてなんて言ってない。……守ってあげて。いまは、それだけでいい。どうせその傷じゃ前線では役に立たないわ」
 ちらりと足元を見て意見すると歩調が乱れた。慌てたように踏み出した足は、やはりどこか頼りなく見えた。
 出血が多かったのだろう。本当ならまだ安静にしていなければならない傷だ。
 わずかに漂ってきた血臭にそう判断する。
かないません、あなたには」
 小さく溜め息を落とす。たどり着いた先の巨大な岩に手をかけて、彼は振り返った。
「なにをしでかすか心配で寝ていられませんでした。――どうかしている。こんな時なのに」
「そういうもんでしょ。恋愛なんて」
 微笑すると苦笑を返された。岩を押す彼の手がランプの光で浮かび上がる。さほど力を入れているようには見えなかったが、岩同士が低くこすれる音が聞こえた直後、ゆっくりと押し開かれていった。
 戦況は圧倒的に不利だ。逃げ延びたのはエディウスと親衛隊隊長であるガイゼ、それに城の一室に閉じ込められていた重鎮や住み込みで働いている女たち。戦力になろうはずもない。
 フィリシアは深く息を吸い込んだ。
(この状況で戦わなきゃいけない。戦って、そして――)
 開かれた石の扉の隙間から白いものが視界に飛び込み、フィリシアはふと上を見た。
 セタの谷は断崖絶壁に囲まれている。鋭い岩肌は垂直と言っても過言ではなく、そこには木はおろか草すら生えていない。死を連想させるその光景に、あまりに似つかわしくない――いや、あまりにふさわしい物があった。
 空に根を張るように広がった枝は、遠目からも普通のものではないことがわかった。白みがかった石で作られた巨大な樹は古代樹≠ニ呼ばれる。全長がどれほどあるかなどはわからないが、人の手によって作ることはまず不可能、しかし自然にできたものとも思えない奇妙な造形物だ。
「大きい……」
 葉を一枚もつけていない大樹を唖然と見上げていると、どこからともなく歓声のようなものが聞こえてきた。それは瞬く間に大きくなる。
 空をあおいでいたフィリシアの視線は、側枝をたどって亜主枝に移り、さらに主枝をたどって異様なほどの太さを誇る主幹に達した。
「フィリシア様、聞こえますか?」
 ヒリックが脇により、石の扉が大きく開く。主幹を見つめていたフィリシアはその瞳を大きく見開いた。
「どう……して……?」
「神は、我々の味方のようです」
 ヒリックの声が歓声に掻き消される。視界を埋め尽くしていたのは無機質な岩肌ではなく、舞姫の無事を喜ぶ男たちの姿――。
 バルト兵の姿だった。

Back  Top  Next