【三十五】

 夢が途切れた直後、フィリシアは双眸を開いていた。
 覚醒というにふさわしい目覚めに、大きく息を吐き出して気だるい体を起こす。
「フィリシア様!」
 馴染みの声に呼ばれて隣を見ると、細く揺れる蝋燭の炎に照らされ、両目にいっぱい涙をためた侍女の姿がぼんやりと浮かんでいた。彼女の背後にはむき出しの岩が緩やかな曲線を描いて連なり、吸い込まれるように暗闇と同化している。
 遠くで水音が反響した。
「マーサ……よかった、無事だったのね」
「はい! フィリシア様もよくご無事で……」
 感極まったマーサはしゃくりあげながら大きく息を吸い込む。身を案じてくれていた侍女にわずかに笑って見せてから、フィリシアはようやく肩の力を抜いた。
 血で汚れた服は脱がされ、肌触りのいいゆったりとしたものに替えられていた。眠っているあいだに清められた体からべたつくような感触が消えている。
「ここは?」
「セタの谷です。ここはその、洞窟の隠れ家みたいな場所で」
「……セタ……私……」
「森で気を失って、ここに運ばれたんです。身の回りのことは私が。……随分うなされてましたが大丈夫ですか?」
「大丈夫」
 顔を覆って、フィリシアは答える。
「エディウスを……呼んでくれない?」
「はい!」
 安堵したように頷いて立ち上がったその背を横目で見てフィリシアは唇を噛んだ。すべての記憶が繋がった――そっと腹部に手をそえて、小さく肩を震わせた。
 この記憶が正しいのなら、与えられた言葉が偽りでないのなら、導き出される答えはひとつしかない。
 思い出して欲しいと願い与えられた多くの言葉は、このためにあったのだ。
 遠くから足音が聞こえた。近づいてくる音に耳をすませ、彼女は何度も深呼吸を繰り返す。
「フィリシア」
 懐かしい声が木霊する。泣きたい気分で彼を見上げ、フィリシアは双眸を閉じた。
「訊きたいことがあるの」
 拳を握ってさらに深く息を吸う。コケの匂いが染み付いている空気は、湿っているのにひやりとしていて心地よかった。
 覚悟を決めるように瞳を開ける。
 フィリシアは視線を合わせるように座ったエディウスを見つめた。緊迫する精神に呼応して鼓動がはね上がる。
「私を殺した時に、アーサーはそばにいた?」
 突然の質問に驚いたように目を見張り、やや間をあけ、それでもエディウスはしっかりと頷いた。フィリシアは震える体を両腕で抱きしめて声を絞り出した。
「二人とも……おかしな服を……着ていなかった?」
 ふと、エディウスが柳眉を寄せた。
「なぜ知っている?」
 ざっと鳥肌がたつ。
 己を守り人と表現した老婆がなにを守っているかなどわからない。だが、それでもフィリシアは瞬時に過去を理解した。
 二つある鍵。
 空間と空間を、時間と時間を繋げるための秘宝。
 壊れていたのは時間をつかさどる鍵――狂ったのは、時間軸。では、エディウスに殺されたのは。
「……ミナ……っ」
 両親すら間違えてしまうほど寸分の狂いもなく似た容姿を持った少女。近しい存在であった彼女は、もうひとつの世界で誰よりも親身にフィリシアのことを心配してくれた。
「お前が死んだあと、アーサーの様子がおかしくなって……しばらく……」
 過去を思い出しているかのようにどこか遠い目でエディウスは続けた。
「しばらく、城の一室に幽閉された。十日ほどだったか……もう平気だとオルグが言うから外に出して……どうしてもと頼むから、森へ、行かせたらしい」
 フィリシアはエディウスの顔を見つめたまま絶句した。十日ぶりに森へ入った――彼がたどったその道を、フィリシアは容易に思い描くことができた。
 空を侵食するかのように木々に埋め尽くされた森がバルト城の背後にある。悪戯に不安を掻きたてるばかりのその森の一部には、気味が悪いほど不自然な空間がぽっかりと口を開けていた。
 悲劇を体現した現場に彼が再び訪れたのは十日後。そこで彼を待っていたのはなんだったのか。
 アーサーではないと、別人だと主張していたその彼が、過去を捨てて真実を捻じ曲げようとした理由がそこにあったのだ。
「惣平――……」
 それ以上の言葉が出なかった。
 美奈子の墓標を作ったのは彼だ。誰にも知られないように決して忘れないように、その石に彼女の名を刻み付けたのも、それも彼なのだ。
 どんな思いで別人に成りすまし、笑顔を見せ続けたのだろう。
 いびつな笑みが胸に刺さる。いままでに一度も目にしたことのないあの表情こそが彼の本心だったのだとようやく悟った。
「どうして、こんな……」
 こんな事になったのか。
(私が、引いたんだ)
 引いてはならない引き金を。手を貸したのはアーサーだったが、その原因を作ったのは紛れもなく彼女自身だった。
 鍵に関する真相を何ひとつ他人に語るべきではなかった。
 使い方を知らないからと安心して、簡単に鍵を美奈子に手渡すべきではなかった。鍵の変化を敏感に感じ取っていた彼女が、自分と同じようにそれの使い方をおぼろげに理解していそうなことくらい想像できない事項ではない。
 それなのに、使い方を間違えてしまった。
 過去に与えられた警告に耳を傾けることを忘れていた。
 そして、優しい人たちを巻き込んで取り返しのつかない事態を招いてしまったのだ。
 フィリシアは両手で口を覆った。もれそうになる嗚咽を必死でこらえたが、涙だけは止めることができなかった。
 惣平、と心の中で懐かしいその名を呼んだ。
 恨んではいないと言ってくれた。けれど、許す術も持っていないのだと教えられた。大切な恋人と、ようやく受け入れることを決めた小さな命を奪われて、それでも彼はひどく苦しそうにそう言ってくれたのだ。
「フィリシア……?」
 不思議そうにエディウスが見つめてくる。実の息子と己の婚約者に凶刃を向けたとは思えないその男は、ひどく頼りなくそこにいる。
 心に闇をかかえる彼は恐る恐るフィリシアに手をのばしてきた。指先で涙をたどり、そっと髪に触れる。優しい仕草に胸が痛んだ。
 彼はなにも知らない。
 自分が手にかけた相手が誰であるか、おそらく正確に理解してはいないだろう。
 フィリシアは涙に濡れた双眸を閉じる。
 ならば。
(――罪を償うべきは誰であるか)
 解く。
 すでに答えの出ている問いを彼女は静かに胸の中で言葉にする。優しく触れてくる指先から逃げるように体をひねり、わずかな動揺のあとエディウスの手が離れていくのを哀しみとともに全身で感じ取る。
 だが、ぬくぬくと守られているわけにはいかない。
 ようやくたどり着いた真実にフィリシアは唇を強く噛みしめた。
 自己を主張するように繰り返される小さな胎動に目を伏せる。すぐ目の前に父親がいる。過去にたった一人、心から望んだ相手だった。
 真実を語れば、彼は戸惑いながらも歓喜するだろう。
 フィリシアの中には、大国と呼ばれ続けるバルトの王位継承権を持つ命が眠っている。伝えれば今までどおりに動くことは不可能になるに違いない。
 王城にいる「王子」と真っ向から話すことができるのは「フィリシア」なのだ。強くそう思い、どんな理由であれここを離れるわけにはいかないと自分に言い聞かせる。
(それに、エディウスはときどき正気をなくす。本当のことを知れば……)
 どうなるのか、想像もできなかった。
 過去に剣を向けられたことがある。理由もわからないまま逃げ惑い、大切なものを代償に生き残った。
 問いたいことはたくさんある。
 なのに、穏やかな空気をまとう今の彼を失うことを恐れ、言葉を呑み込んでしまった。
「お願いがあるの」
 一番口にしたかった言葉を胸の奥に押し込む。
 真実は告げない。
 誤った選択だと知りながらも、フィリシアは次に自分ができることを考える。
 真実を知り、彼女と同じように口を閉ざす少年がいる。意図してすべてをあざむき、破滅を呼び寄せようとする者が。
 少しずつ確実に狂っていった歯車は、すでに取り返しがつかないほどの速度で回っている。惣平は――アーサーは、王城でその狂った歯車をあえて回し続けている。
「エディウス」
 真実は告げない。
 彼はこの国の未来であり光なのだ。これ以上、闇の側面を持つ必要はない。
(全部、私が引き受ける。だから、お願い――)
 まっすぐエディウスの瞳を見つめて、フィリシアは迷いなく口を開く。
「アーサーを止めるわ。手伝ってくれる?」
 唐突な言葉に驚くエディウスに偽りの笑顔を向ける。大切な命を守るように腹部を包んでいた手をどけて立ち上がった。
(今度は私を見捨ててね、エディウス)

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