【三十四】
妊娠が発覚して、しかしなかなか両親には言えず、三人は微妙な空気のまま溜め息をついた。
美奈子が悩んでいるとなんとなく他人事とは思えない。しかも話しの展開から、フィリシアの子供も惣平が父親ということにするらしい。
下校した姿のまま井沢宅に上がりこんだフィリシアは、今日一日彼の家で時間をつぶしていた美奈子を目の前にしていっしょに考え込んでいた。
「……留学生ってのも訂正しないと。うーん、私と間違えたことにしとこうか? 若気の至り!」
「ミナ……」
それではあまりにも惣平が気の毒なのだが、当の本人はすっかりこの話題に首を突っ込むことを放棄していた。
「オレは原形とどめてればどうでもいい」
明後日の方向を見ながら頬をさすっている。
「家出少女ってことにして……あ、警察に訊かれたら困るよね。どうしよう……」
腕を組んでうなっている。その彼女が、不意にフィリシアに視線をやった。そしてまじまじと見つめ、胸元を指差す。
「ね、鍵持ってる?」
驚いて彼女を見ると、困ったような表情で首を傾げた。
「なんか最近、すごく嫌な感じがするの。……持ってて大丈夫?」
確認する声は緊張しているのか妙に硬い。フィリシアは肌身離さず持ち歩いている二つの鍵を取り出して、美奈子に手渡した。
「……わかるの?」
「なんとなく。初めて見たときはそうでもなかったけど、最近すごく……気持ちが悪いっていうか……」
「つわりじゃないのか?」
鍵を両手でくるむ美奈子にボソリと意見して惣平が歩き出した。
「そうじゃないよ。全然違うし! ね?」
「……うん。つわり、なんか楽になった気がする」
「え、フィリシアも――!? 私もなんだ! ってゆーか、四ヶ月でおさまるもんなの?」
「個人差だろ。いい加減病院行けよ、お前ら。殴られる覚悟はできた」
そう言いながらも、ドアの前で立ち止まっていまだに頬をさすっている。その姿に苦笑すると、彼は廊下を出てキッチンに向かった。
「なに食いたい?」
遠ざかる問いに美奈子がぴょこんと背筋を伸ばす。
「美味しいもの! 美味しいもの食べたい!!」
「手伝うわ」
フィリシアが立ち上がると美奈子も立ち上がった。しかし、さほど広くないキッチンに三人立つのはどう考えても効率が悪いので、フィリシアは彼女を制して一人で惣平のもとに向かう。
そして、微妙な表情でキッチンに立つ彼の姿を発見した。
「どうしたの?」
「……いや、なんか変な感じだなと思って」
困ったように言って苦笑する。
「これから大変なのわかってるけど……こういうのも……悪くないかなって」
「ミナのこと?」
「うん。本当にいるのかって感じだけど、腹とか全然目立ってないし。でも……」
「嬉しいんだ?」
彼はしばらく間をあけて、虚空を睨みすえてから複雑な表情を崩した。
「たぶん」
小首を傾げるように苦笑している。言葉を濁して彷徨わせる瞳がやけに優しく、その姿が微笑ましくてフィリシアも頷いた。
「凄いよなぁ。本当、ちゃんといるんだよな」
フィリシアは、独り言のようにつぶやく彼が妊娠発覚後に必死で平静を装ってきたことを知っている。一人のときは溜め息ばかりを繰り返す彼は、しかし美奈子の前では平然とした顔で冗談さえ言ってみせた。
そして今、その落差が埋まりつつある。
彼は彼なりに、ゆっくりとこの状況を受け入れようとしていた。
「いきなり二児の父ってゆーのも、まあ悪くないかな。出世払いで金借りなきゃ」
惣平はそう口にしてからキッチンを見渡し、廊下に向かって歩き出した。
「ちょっと待ってて。エプロン持ってくる」
隣が家なのだからいったん帰ればいいのだが、ついいつも居心地のいい惣平の家に直行してしまう。美奈子も昔からそういったことが多かったようで、夜中まで娘が帰ってこなくても両親はさして心配するそぶりを見せなかった。
家が近いということもあるし、惣平を子供の頃から知っているという事もあるからだろう。
だがやはり、娘が妊娠していると知ったらさぞ荒れそうで、その後を思うと惣平が不憫でならない。その一幕に自分も加わるという未来を描いてフィリシアは微苦笑した。
日に日に募るのは、帰りたいという思いと、ここで穏やかに暮らしたいと思う、相反するもの。
「エディウス」
会いたい。バルトに戻るには、鍵を使って時間と空間を繋げ、それを開くことが必要だ。そう、鍵を使って――。
ドクリと心臓が跳ねた。いつも服の上から確認できていたそれが、なぜか今は指に触れない。手の平で鎖がないこと確かめると、フィリシアは瞬時に振り返った。
決して手放してはいけない鍵をうかつにも美奈子に預けたままだった。
「ミナ……!」
廊下に飛び出すとリビングの入り口に立っている惣平の横顔が目に入った。不快な気配が広がる。それがなんであるかを判断するよりも早く、フィリシアは彼のもとに近付いた。
「惣平」
「来るな!」
鋭い言葉にフィリシアは身をすくませる。
「ミナ、やめろ!」
彼がリビングに足を踏み入れた瞬間、不快な空気がさらに大きく広がるのがわかった。制止の言葉を振り切るようにリビングに駆け寄って、そしてフィリシアはその場に立ち尽くした。
扉が見える。
半透明ではあるが確かな闇を孕んだ扉。それはフィリシアが開けた扉と似て非なる物。
「エディに会いたいんでしょ?」
ふわりと美奈子が微笑む。閉め切っているはずの部屋には生暖かい風が吹き荒れていた。
「やめろ!」
惣平の手が美奈子の腕を掴んだ。その瞬間、鍵を持つ彼女の指先が動くのが見えた。
「壊れてるの! お願い、開けないで……!!」
手をのばしてリビングに足を踏み入れた――その、はずだった。
「え……?」
眼前にあった景色が一瞬で闇に呑まれる。すでに慣れ親しんだあたたかく小さな部屋も、すぐそばにいた惣平と美奈子の姿も、すべての音とともにフィリシアの前から消えていた。
「なに?」
闇が広がる。自分の声すら木霊しない無限に広がり続ける暗黒にフィリシアは目を見開いた。光のない空間でなぜか自分の姿だけは確認することができ、その事実に安堵するよりも恐怖した。
「ミナ……惣平……どこ……?」
足元が不確かであることはすぐにわかった。ここは以前迷い込んだ場所と同じなのだろう。だが、あの時よりもずっと不気味な空気が満ちていた。
「ミナ! 惣平――!!」
声を張り上げて、しかしまるでその場で掻き消されているかのような感覚に鳥肌がたった。己を抱きしめ、フィリシアは目を凝らす。
二人はすぐ近くにいたのだ。だから、きっと遠くにはいっていない。
そう、思おうとした。
けれど上手くいかなかった。
「ミナ……っ」
不安が込み上げる。繋がった先はどこだろう。時をつかさどるはずの鍵は壊れていたというのに。
うつむいたその先に、闇よりなお深き闇が映った。フィリシアは慌てて顔をあげ目を見開く。光源がないにもかかわらず、それはひどく鮮明だった。
闇の一部が切り取られ、さらに濃度を増したような奇妙な光景。
フィリシアが手をのばすと、冷たい感触が伝わり闇が四散した。
「守り人の……鍵……」
微かな重みが手の平に広がる。フィリシアは優美な鍵を握りしめて闇を見渡した。
「グラルディー!」
鍵を託した老婆の名をフィリシアは叫ぶ。何度も叫び、叫ぶたびに少しずつ増していく絶望に嗚咽をもらした。
「助けて」
美奈子と惣平は関係ない。ただ旅の途中に温かい食事と体を休めるための場所を提供してくれただけの人たちなのだ。
彼らには、平和に暮らし、幸せな家庭を築いていく未来が――フィリシアが望んでも、決して手に入らない生活が約束されているはずだった。
「関係ないの、巻き込まないで……!」
手にした鍵はさらにねじれていた。強引に開かれた扉はいったいどこに繋がったのか、すでにフィリシアには想像もつかなかった。
「お願い、戻して……っ」
その声に呼応し、不気味な空気をまとう空間が急速に変化する。フィリシアは退色するように濃度を変える闇を追いかけようとしたが、体が思うようにが動かなかった。
不意に痛みが全身を襲う。なにが起こったのかもわからず双眸を閉じると、さらに痛みが増えた。
唸り声が聞こえた。
それが自分の口からもれたものだと気付いた瞬間、彼女は四方から襲ってくる衝撃に丸くなって腹部を守った。
鈍い音が後頭部から響く。
目を開ける。闇は消え、白い世界が広がっていた。
彼女は再び目を閉じ、全身が重くなったことに気付いてうっすらと目を開けた。
濃密な土の匂いが鼻腔をふさぐ。青々とした草が風に揺れた。
がさりと、不意に空間が不快な音をたてた。
かすむ視界を凝らして、彼女は深緑の中に人影を発見する。
銀の髪がゆるやかに風に流れ、紺碧の瞳はまっすぐ彼女を捉えて困惑する。
「誰……?」
会いたいと願い続けた人が目の前にいる。しかし彼女はその事実に気付くことすらなく、かすれた声で彼にそう問いかけた。
過去に起こった悲劇は、そして現在へと繋がる。
更なる悲劇を呼び寄せるために――。