【三十三】

「……陽性」
「……陽性って?」
「……」
 白い奇妙な物体を覗き込みながら、美奈子とフィリシアは顔を見合わせた。
「つまりその……」
「妊娠してるってこと」
 唐突にかけられた声に、洗面所に籠もっていた二人は飛び上がらんばかりに驚いた。惣平の家は父親が単身赴任をしていて、いまは母親もその赴任先に行っているから彼以外いないのだが、それでもこの状況では心臓に悪い。
「妊娠」
 茫然と繰り返す。相手は一人しかいない。いないが、この状況では喜んでいいのか悲しんでいいのかすらわからない。ただ惣平の言葉を繰り返し、小さな検査薬にもう一度視線を落とした。
「間違いってこと……」
「正確って聞いたことある。……病院行こっか、フィリシア」
「でも、だって……」
 続く言葉が見付からず、冷や汗のようなものが背筋を伝う。心音が耳鳴りをともなって激しくなっていく。
 検査薬を持つ指が小刻みに震えていた。
 どうしていいのか見当もつかない。意味を成さない言葉ばかりが胸の奥から湧いては消える。
「……飲み物用意したから少し休め。とにかく、な?」
 フィリシアが蒼白になっていく様子を見るに見かねて惣平が手招きをした。
 美奈子に検査薬を手渡しておぼつかない足取りで前を歩く惣平に続く。洗面所でまじまじと検査薬を見ていた美奈子が視界をかすめたが声をかける気力はなかった。
 言われるままソファーに腰掛け、用意されていたミルクティーを茫然と見つめる。
「フィリシア」
 暖かい手が肩に触れ、ビクリと背を伸ばして彼女はようやく正気に戻ったように視線を彷徨わせた。
「ごめん、平気だから」
「こういう時には強がらなくていい」
 震える声に淡々と惣平が返す。彼はそのままフィリシアの隣に腰掛けて背もたれに体重を乗せる。
 触れ合うほど近い場所に温もりがあることに安堵すると、まるでネジが緩んだかのようにホロリと涙が零れ落ちた。
「シア」
「ご、ごめん!」
「だから、強がったり謝ったりしなくていいって」
 溜め息混じりに返され、フィリシアはきつく握った自分の手を見る。
「私、こんなに弱くないの。いままで一人でちゃんと立てたのよ。なのに、なんで……」
「一人じゃないからだろ」
 即座に返され、言葉につまる。
 彼の言うとおり、確かにいまは一人ではない。けれど、だからよけいに不安になる。
 なぜ、と無意味に問いたくなる。
「どうして私、ここにいるんだろう。どうして一人なんだろう」
 一人ではないが、一人と大差ない。自分が選んだ道だというのに、後悔ばかりが膨らんで知らずに嗚咽がもれた。
 こんな弱い自分は知らない。
 どんな時でも毅然と顔をあげ、泣き言など一度として口にしなかった。それが舞姫と呼ばれた少女であり、彼女自身が作り出した彼女の姿そのものだった。
 しかし、その原形はすでにない。
 自分の身に起きたことすら把握できず、みっともなく泣き崩れ、混乱することしかできない。
 大切な変化を何ひとつ気付けずにいた。
「帰りたい?」
 静かな問いに、フィリシアは弾かれたように顔をあげて唇を噛んだ。美奈子にも何度か聞かれたその問いに、帰りたいと思いながらも答えられなかった。
 それでも今は、素直に頷ける。
 帰りたい、あの場所に。ひどく自分勝手だとわかっていても、それでも帰りたい。
 そして彼に会いたかった。
「私、本当に最低……」
「そんな事ない」
 嗚咽を殺すと涙だけが頬を濡らした。慰めるように惣平が軽く肩をたたくと余計に涙がこぼれる。言葉をかけるわけでもないのに気遣ってくれているのがわかると、自分にそんな資格がないとだと充分に自覚のあるフィリシアは自己嫌悪におちいった。
 それでも惣平は責めるでも同情するでもなく、じっとそばにいてくれた。
 静かに響く時計の音が一定のリズムで聞こえてくる。高ぶった感情がゆっくり治まって、ようやくそれがフィリシアの耳にも届くようになると、声を殺してひとしきり泣いた彼女は何度も深く息を吸い込んでカップを見つめている惣平に視線を向けた。
 言わなければならない事がある。
 自分の身に起きた変化と同じくらい大切な、伝えなければならない言葉がある。
 きっとこの状況なら美奈子の口から彼に伝えられることはないから、それを教えることができるのは自分だけだろうという確信があった。
「フィリシア?」
 惣平が視線に気付いて小首を傾げると、コクリと息をのんでフィリシアは口を開いた。
「あの検査薬、二個買ったの」
「え?」
「薬局でね、ミナが二個買ったの」
 まっすぐ惣平を見つめながらそう言って深く頷く。
 意味がのみこめない惣平は何度かフィリシアの言ったことを口の中で繰り返した。
 彼の顔色が変わる。血の気が引く、と言うのが正しい表現だろう。意味を察した瞬間、動揺がその顔に広がった。
 言葉を失ってフィリシアを凝視し、彼はゆっくりと視線を逸らす。
「惣平」
 口元を押さえた彼は、フィリシアの言葉を制すように片手をあげた。
 それから頭を抱えるように丸くなる。
「マジか」
 思わずもれたというような呻き声だった。最近、彼女の様子がおかしかったことを彼も知っていたのだろう。ガシガシ頭をかいてさらに深く頭を沈めながら、さらに盛大な呻き声をあげた。
「惣平……」
「大丈夫だってアイツ……どうするんだよ」
 ほとんど言葉にならないつぶやきだった。予期せぬ事件であることは彼の反応からして間違いない。
 わずかに上下に頭部を揺らし、
「あぁもう、いまさら言っても仕方ないけどっ」
 叫ぶと同時にバッと顔をあげて彼は頬をさすった。
「殴られるだろうなぁ。痛そう……やっぱ両頬かな……」
 今度は天井を睨んでいる。声をかけそびれて黙っていると、惣平は深く息を吸い込んでからフィリシアに視線を戻した。
「休学手続きってどうやるか知ってる?」
「え?」
「知らないよなぁ。二人いっぺんじゃ誤魔化せないし、調べるしかないよな」
 その言葉にフィリシアは目を見開いた。この歳で妊娠というのはよくある話しだった。少なくとも、フィリシアのいた世界ではそう珍しいことではない。だが、この世界では決してそうではないのだ。
 学校の噂話で、妊娠しただのおろしただのというのは何度か耳にした。それが理由で学校を辞める生徒もいた。
 惣平は今、本来なら一人ではとても決断をくだせないだろう難しい立場に立った彼らと同じ場所にいる。
 多くの者たちが選んだ道――。
 けれど惣平はその選択肢以外のものを選ぼうとしていた。
「産んでもいいの?」
 素直な驚きとともに惣平を見つめる。彼は至極真面目な顔で肩をすくめた。
「予定より早かったってだけの話。五年後とか、十年後だったら殴られなくてもすんだかも」
 溜め息とともに吐き出す。そして、その視線を廊下に向けた。
「ミーナー? 結果は?」
 ガタガタと廊下で音がした。彼女の手が見え、ついでちらりと顔を覗かせる。
「よ、陽性……」
 それだけ言って、その顔が引っ込んだ。重苦しい息をそっと吐き出してから惣平が苦笑する。
「学校どうする?」
「……」
「高校くらい出ておいたほうがいいだろ。休学にしとくぞ?」
 再びちらりと美奈子が顔を出した。
「ごめん」
「お前が謝る必要なんて……」
「あのさ、惣平」
「うん?」
「フィリシアの赤ちゃんも惣平が父親ってことにすると、詮索されなくていいと思わない?」
 美奈子の発言を聞いて、惣平が盛大にテーブルに突っ伏していた。

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