【三十一】

 夜中、何度も目を覚ます。
 繰り返されるのは終わることのない悪夢。エディウスが振り下ろした剣の先にアーサーの姿があり、夢はいつでもそこで終わる。悪夢にうなされ目を開けた瞬間、まるでその場に居合わせているかのような生々しさがフィリシアを苦しめた。
 流動する世界の中で、どんなに抗ってもそれはすでに過去の出来事になっている。しかし、まるでそうなることを拒むように夢は幾度となく蘇る。
 大きく息を吐き出すと、嘔吐感が込み上げてきてフィリシアは慌てて布団から抜け出した。
 体がだるい。吐き気のためなのか全身が震える。
 フィリシアは洗面所の電気をつけるや否や流しに顔を突っ込んだ。吐き気をこらえることもできず、胃液が喉の奥を焼く。
 涙がこぼれた。過去を受け入れることができず、しかし戻る勇気ももてず、同じ場所でうずくまっている自分がひどく醜いと思う。
 夢の続きがないことに安堵している自分に気付くたびに、自身を嫌悪してしまう。
「フィリシア……」
 そっと背にあたたかい物が触れる。振り返ると、辛そうに唇を噛む美奈子の姿があった。
「ごめん、起こしちゃって」
 慌てて蛇口をひねって口元をゆすぐと、やんわりと脇に押しやられた。
「ミナ?」
 どこか青白い顔が先刻のフィリシアと同じように洗面所に伏せる。唖然としながらも、フィリシアは美奈子の背をさすった。
「大丈夫!?」
 肩で大きく息をつき、美奈子が勢いよく流れる水を両手ですくって派手に顔を洗った。
「心配でついてきたら、つられた。恥ずかしいなぁ」
 照れ笑いする彼女にタオルを手渡すとごしごしと顔をふく。タオルで顔を覆ったまま大きく溜め息をつき、ふっと笑顔を見せた。
「平気?」
「うん、平気。フィリシアは?」
「……うん」
 お互いの顔を見合わせて苦笑し、自室には戻らずリビングに向かった。フィリシアに座るよう指示し、美奈子はヤカンをコンロにかける。
 時計を見るとすでに朝の六時だった。二度寝するには微妙な時間だと判断して、フィリシアは美奈子がお茶を淹れてくれるのをおとなしく待っていた。
「フィリシアさ……」
 ティーカップにお茶を淹れて美奈子が隣に腰をおろした。
「元の……世界に帰りたい?」
「……」
「私は、フィリシアにずっとここにいて欲しいと思ってる。でもフィリシアは帰りたい?」
 美奈子の顔を見ることができず、フィリシアは目の前に置かれたお茶に視線を落とした。
 単純に帰りたいかと問われれば、すぐにでも頷ける。だが、帰ったあと直面しなければならない現実を思うと、頷けない自分がいる。
 いつまでも逃げていてはいけないのに、帰る方法を探さなければならないのに、いまだに現実に怯える弱い自分がいる。
 情けないと思う。会いたい人に会うのが怖い。向けられる言葉と失ったものの重さを、まだ受け入れられないのがひどく苦しい。
「どうすればいいのか、わからないの……」
「……うん、そうだね。怖いよね、いろんなことが」
 ポツリと美奈子はそうこぼし、ティーカップに口をつけた。
 世界がゆっくりと動き出す。さまざまな音を産み落としながら世界が目を覚ます。肩を並べてそれを聞きながら、ほぼ同時に小さく息を吐き出した。
 鍵を直す術を見つけることから始めなければならない。老婆から受け取ったそれは、どんな力を持ってしてもびくともしなかった。
 まず、守り人の鍵を直してから――すべてはそれからだ。
 帰りたいと願いながらも悪夢を繰り返すたびに揺らぐ心。鍵を直すあいだに自分の弱さに決着をつけ、そして再びあの闇に立ち向かわなければならない。
 闇に直面しているのは、きっと自分だけではないだろう。二面性を持ち続けたエディウスを思い出してそう思う。
 いまは何より、一歩を踏み出す勇気が必要なのだ。
 ぐっと拳を握ると、美奈子の手がそれを包んだ。
「頑張れ」
 ふわりと笑顔を向けられる。
「うん、ありがとう」
 しっかりと頷くと、美奈子も頷いた。
「今日の文化祭、私、客席で見守ってるから!」
 きゅっと手を握りしめられ、フィリシアは茫然とした。握り合った手と美奈子を交互に見て間抜けな顔を傾ける。
「……え?」
 考え込んでいる間にどこかで会話が食い違ってしまったらしい。頑張れと応援される前になにか言われたようだが、まったく耳に入っていなかった。
 そんな事とは知らず、フィリシアの肯定を了解と受け取って美奈子は満面に笑みを浮かべて立ち上がり、軽やかにスキップして遠ざかっていく。
 フィリシアはその後ろ姿を引きつる顔で見送った。

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