【三十】

「お前は!」
「ごめん! だって、なんにもわからないのに一人にしたら可哀想でしょ?」
 帰宅するとすっかりくつろいでいた美奈子の姿があった。惣平は彼女の前に仁王立ちになって、烈火のごとく怒って彼女を睨みつける。
 彼女は散乱した雑誌を慌ててかき集め、ソファーに座りなおして上目遣いに惣平を見た。
「それにさ、惣平がいるなら大丈夫かなって」
「相談もなしでか!?」
「相談したら反対するでしょ」
「当たり前だ!!」
 怒鳴り声をあげると美奈子が肩をすくめた。そして、助けを求めるようにフィリシアを見つめる。
「惣平」
 怒りが治まらない彼の名を呼ぶと不機嫌そうに振り返った。
「すごく楽しかったの。だから、私もいっしょに怒られなきゃいけないと思うんだけど」
 フィリシアにとって、セーラー服を着ることも、学校に行くことも驚きの連続だった。見るもの聞くものすべてが珍しくて楽しい。
 バルトで起こったあのことを、ほんのひととき忘れられるほどに。
「だから……」
「もういい」
 ぴしゃりと言い放ち、惣平は自室に戻っていった。
「もー本当、短気なんだから」
「ミナが心配なんだと思う」
 むくれる美奈子にフィリシアは微苦笑した。美奈子は手にしていた雑誌をテーブルに置いてフィリシアと同じように苦笑する。
「学校、どうだった?」
「楽しかった。ミナの言ったとおりやったら、結構上手くいった」
「ヤバいことなかった?」
「うーん、ちょっと?」
「なにそれー」
 きゃらきゃらと笑う。まったく同じ顔をしているのに、黙っていれば鏡を見ているかと思うほどよく似ているのに、互いがまったく別の個体であると確認できる――それは、ひどく不思議な感覚だった。
「言葉はわかるから英語は完璧だよねー。惣平のお父さんがね、英字新聞読んでるんだけどさ、それも読めちゃうんだなぁ。なんか得した気分」
「英語?」
「アメリカの言葉。ドイツやフランス語もいけたから、海外旅行楽勝」
 上機嫌で美奈子が伸びをする。そして、ふっとフィリシアを見上げた。少し考えるように視線を逸らしたあと、再び美奈子がまっすぐフィリシアを見つめた。
「悪くないでしょ?」
「え?」
「ここって、そんなに悪くないでしょ?」
 含むような口調に、フィリシアはなにも返すことができない。美奈子は柔らかく笑みを浮かべる。
「皆をだます事になるかもしれないけど、ねぇ、ここもいい所でしょ?」
「ミナ」
「だからね、そんなに思いつめなくてもいいと思うの。なんかね、フィリシアが苦しそうにしてると、私も辛いんだ。自分が痛いみたいで」
 ただ驚いて、フィリシアは美奈子を見る。
 昨日出会ったばかりの少女は、押し殺した感情すら読み解いてゆっくりと頷いた。別の個体であるはずなのに、どこかで繋がっているような――。
「そりゃいつまでも逃げてるわけにはいかないかもだけど、今はゆっくりしてもいいと思うの。エディって人から、少し離れてね?」
「でも」
「取り返しがつかないことなら、もうどうしようもない。だから、次にできることを考えなきゃ。でも今は休む時だと思う」
 語尾は言い聞かせるような響きを宿している。知らずに力の入っていた肩がふと楽になったように感じて言葉を失う。
 まだここに来てたったの一日だ。
 だが、その一日がどれほど長かったかは言葉にできない。
「ミナ」
「時間が来たらこーゆうのは解決するんだよ。いっしょに考えてあげるから、今はゆっくり休も?」
 幼いころに両親と死別して以来、フィリシアは自分の進むべき道を自らの力で切り開いてきた。旅先で親しく言葉を交わす誰もが、名すらまともに知ることのない相手だった。
 けれど、目の前にいる少女は違う。
 他の誰とも違う気がする。
「……うん」
 フィリシアが頷くと、美奈子は瞬時に笑顔になる。まるで自分のことのように心配してくれる彼女の好意が心地よく、フィリシアも自然と笑顔になった。
「そうだ、文化祭の配役決まった?」
「……文化祭……」
 話を変えるように言われて、フィリシアは頷いた。クラスの女子が台本を書いて舞台をやるという話になっていて、その配役をホームルームで決めたのだ。
「森の妖精」
「やっぱなぁ。私、もうずっとバレエやってないって言ったのに」
 美奈子の言葉にフィリシアは目を見張った。聞き覚えのある単語だ。さまざまな土地を旅しても、一度として耳にすることのなかった言葉をまさかこんな所で聞くことになるとは思いもよらず、フィリシアは自分の耳を疑った。
「バレエ」
「そう。お母さんがやってて、私もやらされて……」
「こういうの?」
 記憶をたどりフィリシアが少し踊って見せると今度は美奈子が目を見張った。
「くるみ割り人形――!!」
 拍手とともに美奈子が叫んだ。
「すごい! どうして知ってるの!?」
「母親から……聞いて……」
「――ねぇフィリシア。フィリシアのお母さんって双子じゃなかった?」
 驚いて彼女を見ると、すっと立ちあがってフィリシアのあとを継ぐようにステップを踏む。軽やかなその動きは、母が何度も見せてくれたものととてもよく似ていた。
「お母さん、双子だったんだ。……私、フィリシアのこと他人だとは思えないの」
 ふわりと笑む。
「きっと、だからフィリシアはここに来たんだよ。一番安全なところに、ね?」
「バカ」
 真剣に語る美奈子の声に、つっけんどんな惣平の声が重なった。学ランから私服に着替えた彼は、まっすぐ冷蔵庫まで歩いていった。
「バカってなによ!」
「お前は難しいこと考えるな。ややこしくなる」
 ペットボトルを掴み出すとそのままキャップをはずして口をつける。
「うわ、ムカつく」
「オレとアーサーってヤツはどうなんだよ? 血なんか繋がってないぞ」
「だからぁ、それは、世の中には同じ顔をした人間が三人いて、惣平とアーサーが同じ顔で、もう一人もどこかにいるんだよ」
「はいはい」
 気のない返事をしてペットボトルを冷蔵庫に戻す。そんな彼に向かって、美奈子はいーっと歯をむき出して見せた。
「もういい、あんなヤツ。ねぇフィリシア、他になにが踊れる?」
「他は……」
「得意なのやって! 私もダンスなら得意なんだ!」
「……剣舞」
 一番得意と言うのなら、剣舞だ。師匠には軽はずみに見せるなと言われたが、今はあそことはあまりに違う場所にいる。隠す事もないだろうと軽く伝えると、美奈子の目が好奇心を剥き出しにして輝いていた。
「どんな!?」
「……実戦向きの」
「木刀あるよ! 木刀!!」
「二本いるの」
 ぱっと美奈子は立ち上がった。そして、廊下をかけていき、どこかで派手な音をたててから埃っぽくなって帰ってきた。
「惣平! 宮本武蔵借りるね!」
 作り物の、いかにも安っぽい二本の剣を高らかと上げている。
 惣平は溜め息をついた。
「二刀流は独眼流正宗。お前、少しは勉強しろよ」
「うん!」
 呆れられていることにも気付かず美奈子は大きく頷いてフィリシアに剣を手渡した。
 それは本物とくらべればずいぶんと軽い剣だった。剣身も作り物と一目でわかるほどお粗末なもの――形も、慣れ親しんだものとはずいぶん違う。
 だが、その形は確かに武器≠セ。柄をきつく握りしめた瞬間、空気から柔らかさが消えるのがわかった。
 凛と神経が張り詰める。
 体にしみこんだ剣舞は、戦慄するほど心地よい陶酔感を与えた。ここがどこなのかも忘れるほどだった。
 それは人に見せるためのものではない。時に人の命を奪う凶刃となりえるもの。
「綺麗」
 一連の剣舞が終わった後、茫然と見惚れていた惣平とは対照的に、美奈子は小さくつぶやいたあとコクリと唾を飲みこんで、軽く息を弾ませるフィリシアに向かって両手を差し出した。
「貸して――それ、私も踊れる」
「ミナ?」
「私、やっぱりフィリシアとは他人じゃない気がする」
 微笑みながらそう告げた瞬間、空気が変わる。見たものを忠実に再現する異能を持つ少女は、その表情さえまねて寸分の狂いなく舞ってみせた。
 唖然とするフィリシアに、天賦の才を持つもう一人の少女が鮮やかに微笑んだ。

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