【二十八】

 パジャマと呼ばれる部屋着から服に着替えたフィリシアは、ソファーに腰掛けて所在無げにあたりを見渡した。
 自分が倒れていたのはこの家の庭で、自分と同じ顔をした少女が美奈子という名で、アーサーと同じ顔をした少年が惣平という名であることを知った。
 そして今、自分がいた場所とこことの違いを美奈子から伝えられた。
「……なんか、全然……知らない世界みたい……」
 知らない土地、という些細な違いではない。フィリシアの話を真剣に聞いていた美奈子は、ときどきひどく驚いた表情をしていたが――美奈子の話を聞いたフィリシアも、やはり同じ表情をせざるを得なかった。
 時折、空には巨大な鳥が羽ばたくことなくまっすぐに飛ぶ。
 それが飛行機と呼ばれる乗り物であると聞いたとき、それ以上の問いが出ないほど混乱した。外で走る奇妙な形の乗り物は車だとか、船は鉄で造られているとか、まるで魔法が息づく世界のようだった。
 元の場所に帰りたい。そこになにが待っていようとも帰らなければならないのだと思うのだが、それは彼女が考えているほど簡単なことではないのかもしれない。
 再び胸元に隠した鍵を服の上からそっと押さえ、フィリシアは溜め息をついた。
 歪んでしまった鍵で、あの空間が開くのかどうか――。
 開いたとして、果たして戻れるかどうか。戻ってあの光景を直視できるかどうか。
 背筋がぞっと冷えた。
 エディウスの手にしていた剣はすでに血で染まっている。そう確信できる自分に嫌悪すら覚えた。
 唇を噛みしめると、そっとあたたかいものが肩に触れた。
「食事にしよう。もうお昼すぎちゃったけど」
 背後から覗き込むように美奈子が声をかける。同じ顔をした少女――不思議なことに、体型すらとてもよく似ている。彼女から借りた服は、どれもフィリシアにぴったりだった。
 フィリシアは頷いて立ちあがり、食事の並べられているテーブルに向かう。
 文句を言いながらも手伝っていた惣平は、どこか不機嫌そうな顔ですでに食卓についていた。
 気まずいとは思うのだが、他に行くあてがないフィリシアは美奈子に言われるまま腰掛けた。
 そして、ふと顔を玄関に向ける。
 軽い音が聞こえた。
「チャイムだ!」
「チャイム?」
「玄関! お父さんたち帰ってきたんだ」
 美奈子はとっさに時計を見る。つられて見上げた丸い掛け時計は、太い短針が二と三の間、長針が六を少しばかりすぎていた。
「お前、夕方に帰ってくるって言わなかったか!?」
「そうだけど、フィリシア……!」
 慌てて美奈子は立ちあがってフィリシアに手をのばす。玄関のほうから金属音が響いてドアの開く音が続いた。
「どっか、隠れる場所っ」
 腕を引かれ立ち上がったフィリシアは、開いたままのドアを見て硬直した。
「疲れたから先帰ってきちゃった。なぁに、今頃ご飯? あら、惣平君、いらっしゃ……」
 苦笑した女の声がそこで途切れる。肩をもむようにして立ちつくす女は、目を大きく見開いていた。
 見知ったその顔が一瞬で崩れる。
 驚いたように問いかける声は、あまりに懐かしい記憶を揺さぶり起こした。
「――お母さん」
 ずっと昔に目の前で死んだのだ。生きているはずがない。テントといっしょに炎に包まれた母を父の遺体とともに埋めたのは、彼女がまだ九歳になったばかりの時だった。
 だから本人のはずはない。
 そうわかっているのに、こらえきれずに涙がこぼれた。
 悲しいのか嬉しいのか、どう表現していいのかもわからない思いが胸の奥からあふれてくる。
「フィリシア」
 美奈子は掴んでいた手を放して軽くあやすように背中を叩く。泣いてばかりいる。そんな場合ではないとわかっているのに、それでも止めることのできないものが頬を熱く濡らしている。
「ミナ、その子……」
 戸惑うように近づいてきた女に、フィリシアは慌てて顔を向けた。
「ごめんなさい、母に……死んだ母に、よく似ていたから……」
 そう弁解する最中も涙が頬を伝った。とっさに顔を伏せると、かたりと間近で小さな音がした。
「その子、ミナとよく似てるよね」
 ゆっくりと立ちあがって惣平が女を見る。
「オレも初めて見たときビックリした。交換留学生なんだ。ミナ、言ってなかったのか?」
 ちらりと視線を向けると、美奈子が少しだけ緊張したように惣平と視線を合わせてから女を――母親を見た。
「あ、ゴメン」
「家にホームステイする予定で……」
「ダメ!」
 母親に向けていた顔を、美奈子は慌てて惣平に戻した。
「惣平の家、今、おじさんもおばさんもいないじゃない! 絶対ダメ――!!」
「……なんだよ、その言い方」
「絶対ダメ! お母さん! 惣平がやらしいコト考えてる!!」
「お前……」
 呆れて返す言葉を失う惣平を睨んで、美奈子はフィリシアを引き寄せながら母親を見た。
「お母さんも反対だよね!? 二人きりなんて!!」
「……そう……ねぇ」
 困ったように小首を傾げる母に、美奈子はそうだろうというように大きく頷いた。
「もしフィリシアになんかあったら大変でしょ? これでも惣平、男なんだから」
 ようやく涙のとまりかけた瞳を向けると、惣平の顔は思い切り引きつっていた。かなり怒っていると判断できる表情だが、彼はなにも言わずに口を閉ざしている。
「ね! 二人きりなんて絶対ダメだよね!」
「ええ、まぁ……」
「じゃあ、家に来てもらっていい?」
 ぽんっと飛び出した美奈子の問いに唖然とした。話の展開についていけないフィリシアは、美奈子の横顔をただ凝視することしかできない。
「私がちゃんといろいろ教えるから、ねぇ、お母さん!」
「……でも、ミナ……学校のほうでもそんな事しちゃ……」
「大丈夫! お隣さんだし、ばれないようにちゃんとするし! 惣平が襲ったら大変でしょ」
 迷っている彼女に美奈子は真剣な顔を向けている。
「二人っきりなんて心配だよ! もし何かあったらどうするの!?」
「それは……」
「惣平なら大丈夫だと思うけど、もしもって事があるし。若気の至りってやつ! ね!?」
 母はひとつ溜め息を落とす。
「……お父さんに相談するわ」
「うん!」
 少し困ったように告げる母に美奈子は元気よく頷いた。彼女はそのまま着替えのために自室に向かい、残された三人は再び席に着く。
 そして一瞬の沈黙のあと、がつりとテーブルの下で小さく何かがぶつかる音が聞こえた。
「いったぁ……!」
 美奈子が顔を伏せてうめいた。
「なによ!」
 テーブルの下に手をのばして、しきりと足をさすっている。
「お前、もうちょっとまともなこと言えないのか? 誰が襲うって?」
「惣平が、フィリシアを」
 再び小さな音がして、美奈子が悲鳴をあげる。
「だいたいお前、こっちで引き受けてどうする気だよ。オレの家のほうが人がいなくていいだろ。交換留学生なら学校行かないわけにはいかないんだし。……ちゃんと考えてるのか?」
「あ」
 美奈子は小さく声を発した。
「そっか。じゃ、フィリシア明日からいっしょに学校行こっか」
「……そーいう意味じゃないんだけど。パニックだろ、同じ顔が二人いたら。どうやって誤魔化すんだよ」
「生き別れの妹が帰ってきたって。ね?」
 涙でぬれた頬を優しく拭きながら、美奈子はフィリシアに笑顔を向ける。それですこし、楽になった気がした。
「学校が簡単にだまされるか。ってゆーか、入学手続きどうするんだよ。どっかで時間潰すにしたって補導されたらまずいだろ。もっとよく考えろ」
 溜め息交じりにスプーンを手にする。乱暴に皿の上のものをすくって口の中に突っ込むと、それを見ていた美奈子が目を瞬いた。
「チャーハン、美味しい?」
「まぁまぁ」
「……惣平、協力してくれるんだ?」
「……仕方ないだろ、普通じゃないことは確かなんだから。帰るまでだよ」
 低くそう答えて彼は食事を続けた。
 その姿を見つめてから、フィリシアが美奈子に問いかけるような視線を向けると、彼女はかすかに微笑して頷いた。
 不思議な気分だ。
 容姿は同じなのに、中身がまったく同じというわけではない。
 それに――。
「恋人同士なの?」
 はっきりと確信したわけではないが、言葉を交わしているうちに二人の間にただよう親密な空気に気付き、ふと湧いた疑問をフィリシアは素直に口にした。
 ぴたりと惣平の手が止まる。
「うん、そう。高校入ってから付き合いだしたんだよね? って、痛!」
 再び足を蹴られたらしい。美奈子は涙目で惣平を睨み、睨まれた彼はスプーンを口に運ぶ。
「そう……なんだ……」
 わからない事がたくさんある。けれど理解したものもいくつかあった。
 ここは自分のいた場所とあまりに違うこと。
 そして、自分の居場所はここには存在しないこと。
 異端≠ネのだと思う。それは、この世界にできた小さな歪みなのだろう。破綻をもたらすほどではないが、正常とは言いがたいもの。
 フィリシアはそっと胸元に触れる。
 鍵は、再び不快な空気をまとい始めていた。

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