【二十七】

 井沢惣平はしかめっ面で氷室美奈子を見た。ソファーに深く腰掛ける彼女の足にすがるようにして、気味が悪いほどよく似た顔の少女が泣き疲れて眠っている。
「警察届けたほうがいい。どっかの病院から抜け出してきたんだ」
 断言する惣平に、美奈子は首を振って見事な黒髪をそっと指ですいた。
「病状が悪化したらどうするんだよ」
「本当に病人だと思う?」
「――病気だろ。頭がおかしいんだ。変なことばっか言って、おまけにオレが――死んでるって?」
「惣平が死んでるなんて言ってないじゃない」
「同じだよ。その女が今までいた所で、オレが殺されたんだろ? 誰が信じるか」
 吐き捨てると、美奈子の表情が曇る。
「私が泣いても、そう言うの?」
 弾かれたように惣平が美奈子を見る。言いかけた言葉をすんでで呑み込んでから、馬鹿馬鹿しい、と小さく舌打ちした。
 フィリシアと名乗る少女の話では、彼女自身は踊り子で、大国の王と婚姻を結んでいたという。そして、結婚式の当日に惣平と同じ顔をしたその国の王子が、兄である国王に殺された――。
「信じられるかよ。……オレの兄貴は、とっくに死んでるんだぜ?」
 交通事故で、惣平がまだ幼いときに命を落とした。そのときの光景を、彼はよく覚えていない。兄の顔すら、写真を見なければ思い出せなかった。
 その相手に殺されたと言うのだから、惣平にとってフィリシアの言ったことは耳を貸すのも馬鹿らしい話しだった。
 しかし、美奈子は熱心にフィリシアの話を聞いていた。聞き続け、なだめ、そうして現在に至る。
「ミナ、いい加減にしろよ。とにかく警察に――」
「そんな事したら、一生口きかない」
「ミナ!」
 駄々っ子のようにむくれる美奈子に惣平は苛立つ。これでは埒が明かないと判断した彼は電話機の元まで行って、受話器を持ちあげプッシュボタンを押そうと指を伸ばす。すると、唐突になにかに殴られたような衝撃が襲ってきた。
 とっさに振り返る。
 受話器は手から滑り落ち、硬質な音をたてて床に跳ねた。
 惣平は慌てて両手で耳を塞いでから、この衝撃が音によるものだと気付いた。
「ミナ!!」
 腹の底から揺るがせるような音が惣平の怒鳴り声でようやく終息する。
「近所迷惑だ、なに考えてるんだ!?」
「惣平こそ」
 リモコンをテレビからゆっくりと惣平に移動させ、美奈子は不機嫌な顔で続けた。
「惣平こそ、なに考えてるの? 不安でボロボロの女の子にどうしてそんな事できるの?」
「お前なぁ……」
 ガリガリと頭をかく。
「オレたちでどうにかできるわけないだろ? ――捜してる人だって、いるんじゃないのか? 警察届けて、捜索願いが出てないか調べてもらって、話はそれからだろ?」
「……いないよ」
 身じろぎするフィリシアを見おろして美奈子はつぶやく。
「いないと思う。ここには、きっと」
「お前、まさか信じてるのか?」
 呆れたような口調。
 美奈子は答えず、ゆっくりと体を起こしたフィリシアを見守り続ける。不思議そうに見上げてきた彼女は、はっとしたようにあたりを見渡して体をこわばらせた。
「お茶淹れようか? 喉渇いてない?」
 美奈子の問いに、戸惑うようにフィリシアは頷いた。美奈子はスカートにすがっていた手をはずさせて、フィリシアをソファーに座らせてからキッチンへと消えた。
 落ち着かない様子でそれを見送り、フィリシアはもう一度あたりを見渡してから惣平を凝視する。青ざめたまま唇を噛んで、次にテレビに視線を止めた。
 彼女はテレビをじっと見つめ、わずかに首を傾げてから惣平を見た。
「あの……」
 ぎこちなく口を開く。惣平が視線だけで問うと、彼女はテレビを指差した。
「あの中にいる人はなに? どうして同じような事を繰り返してるの?」
 惣平は眉をひそめる。金髪のキャスターが朗々と語る英語のあとに、少したどたどしく日本語が続く――テレビで流れているのは、同時通訳のニュース映像だ。
 同じことを繰り返して当然だろう。通訳とはそういうものだ。
 そこまで考え、惣平は違和感を覚えた。
「同じ……?」
 英語と日本語。内容は同じかもしれないが、単語がまったく違う。言葉の組み立て方もまるで違う。それが同じとはどういう意味なのか。
「……アメリカに住んだことがあるのか?」
「どこ?」
 彼の幼なじみと同じ顔を持つ少女は真剣な表情で惣平にそう聞き返す。それは、からかっているとか誤魔化しているとか、そんな雰囲気など一切感じられないほど生真面目なものだった。
 惣平は溜め息をつく。
 早く警察に連絡を入れ、彼女をなんとかして欲しい。
 ひどく不安になる。
 すぐにでも家から追い出したくなる。だが実際、非情に追い出せるかと聞かれれば素直に迷う。
 警察は彼女がどこの誰だかわかるまでは面倒を見てくれるに違いない。どこの誰ともわからなかった場合、それなりの施設へと送ってくれるだろう。
 それならそれで安心できる。自分たちにはどうしようもないのだと、そのことを自覚して割り切ればいいだけの話しだった。
 そうするのが一番いい。もしそれが嫌だというのなら、力づくでも追い出すまでだ。
 そう思う反面、なにも手を打たずにここから追い出せるかと問われれば、それはできないだろうと漠然と感じた。
 心細く見つめてくるその瞳は、幼なじみと瓜二つ。
 それを見てしまった今、不安だけを理由に突き放すことができなかった。
 惣平は歯噛みする。嫌な感じがする。以前にも経験がある――これは、そう、幼い自分の目の前で、兄が車にひき逃げされた時。
 彼は人を呼ぶことも、止血をすることも知らずに、ただその場に立ち尽くしていた。
 あの時と同じ。
 ひどく嫌な空気が満ちてくる。
 惣平は無言のまま拳を握った。
「あ、そうだ……」
 不意にフィリシアはつぶやいて、ゴソゴソとなにかを探る。惣平はちらりと彼女を見た。
「これがたぶん、そうなんだ」
 訳のわからないことを口にして、鎖に繋がれた二つの鍵を手に乗せる。そして、真剣な表情のまま鍵を触っていた。
「なにしてるの?」
 紅茶を淹れた美奈子が戻ってくる。ふわりと独特の香りが広がり、惣平の不安が小さく揺らいだ。
 フィリシアは鍵からはずした真紅の石を手のひらに乗せたまま顔をあげ、テーブルにお盆をおいた美奈子は、興味津々、それを覗き込む。
 まるで双子だな、と惣平は思った。
 生来の家族のように二人がなにかを話し合っている。
 美奈子はフィリシアの手の上から真紅の石をつまみ上げ、すぐに口の中に放りこんだ。
「な――!?」
 惣平は目をむく。
 美奈子は口の中で石を転がし、少し顔をゆがめるようにして手の上に吐き出した。
「本当だ、血の味がする」
「お前、なにやってるんだ!?」
「なにって、ほら、惣平も」
「馬鹿! 訳のわからないもの口に入れるな!」
「大丈夫だって、ほら!」
 美奈子は石を突き出すようにして惣平に迫ってくる。あからさまに嫌な顔をして、惣平は顔を背けた。
「なんなんだよ!」
「いいから! もう、男らしくないなぁ。怖がらないでよ」
「お前が警戒心なさす――……っ」
 怒鳴るために正面を向いて大きく開かれた口に、美奈子は真紅の石を投げ込んだ。目を大きく見開く惣平の口を両手でしっかり押さえると、彼はよろめいて背後の壁に背中をしたたか、打ち付ける。
 小さなうめきが聞こえてから、ようやく美奈子は惣平の口を押さえつけた手を放した。
「血の味がするよね?」
「馬鹿か! 変なもの突っ込むな!」
 石を吐き出し惣平は美奈子を睨んだが、それを軽く流して彼女は背後を振り返る。つられるように、惣平もその視線のさきを追った。
 声が聞こえる。
 二つの声。ひどく耳障りな、同じような内容を繰り返す異なる声。
「惣平、なにが聞こえる?」
 茫然とテレビを凝視する惣平に、美奈子は静かに問いかけた。
 ブラウン管に映る金髪の女が朗々と語る。それは彼がもっとも使い慣れ、聞き慣れているはずの言葉だった。
 そしてそれを、たどたどしく続ける声がある。
「ねぇ、なにが聞こえる? 私には両方日本語に聞こえるんだけど、惣平には誰が英語を喋ってるかわかる?」
 不快な味が、口腔いっぱいに広がって消えた。

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