【二十六】
目を開けると、すぐ近くに天井が見えた。低い――と、ぼんやり思う。息苦しいほどそばに、のしかかってくるようにそれがある。
フィリシアは体を起こし、あたりを見渡した。
小さな部屋。簡素というわけではなく、小さな空間にぎっしりと物がおかれている。整頓されているからさほど気にはならないが、一般家庭の押入れだってここまで狭くはないだろう。
小さなその部屋には小さなベッドとテーブルがある。柔らかな色調でまとめられたそこには、人が生活しているらしい独特の空気があった。
おそらくは、若い女性の部屋。
置かれている物から、フィリシアはそう判断する。
だが、さまざまな土地を渡り歩いてきた彼女の豊富な知識でさえ、その部屋は奇妙に映った。
ひどい違和感がある。
気絶する前に見た光景を思い出し、不安に駆られてベッドからおりた。
手元から金属音が生まれ、フィリシアはしっかりと握りしめられた手を開けて、そこにあった二つの鍵に視線を落とした。大きな鍵は歪んでしまった。その意味を考えないように小さく首をふって、彼女はそれを首にかけると奇妙な形の服の胸元へと滑らせた。
少しふらつく足で彼女は出入り口らしい小さなドアの前に立つ。丸い突起に小首を傾げ、それがノブなのだろうと当たりをつけるものの、どうやって開けていいのかわからない。
しばらくガチャガチャ触っていると、ひねることで開くのだと理解した。
「……変なドア」
どっと疲れて部屋から出ると、そこは狭く細い通路だった。さいわい窓に面しており、そこは驚くほど明るい。しかし、安堵の息をつくよりも先に、彼女は外の光景をよく確認しようとして窓ガラスに額をぶつけ、息をのんでガラスに恐る恐る両手をのばした。
ぎょっとする。
窓の外の光景にも、窓にはめられたガラスにも。
「な、なにこれ!? どこよ、ここ――!!」
べたべた触れると、窓ガラスにはくっきりと指紋が残る。それでようやく、彼女はそこに驚くほど透きとおったガラスがあることに気付く。大国と呼ばれるバルトの王城だって、ここまで卓越した技術を持ってはいない。こんな小さな建物に、惜しげもなく使われていることがひどく不自然だった。
そして何より、外の光景――。
不規則に建てられた小さな建造物の群れ。鮮やかでまとまりがなく、ごみごみとした物がぎっしりと敷き詰められるように視界を埋めている。
わずかに残った緑が白々しいほどだ。空は色を失ったようにぼんやりとし、それを見ているとふいに喉がきりきりと痛みだして眉をしかめた。
「どこ、ここ」
森の中にいたはずだ。
いや、正確には時空の狭間に。鍵を握りしめたまま、ただたゆとうように沈んでいった。
その次の光景を思い出し、フィリシアは意を決して短い廊下を進んで階段をおりた。階段も急で短く、どうにも歩きにくい。
何もかもが驚くほど小さい。
一階におりると、左右に短く通路が続いている。どちらもさほど距離がないのだが、どちらへ進んでいいのかもわからない。
考えるように立ち尽くすと、わずかに開いたドアから声が漏れてきた。
「ほら、世の中には同じ顔の人が三人いるって言うじゃない。あれ本当なんだね! ビックリした!」
よくとおる少女の声が弾むように語る。
「でもなんで庭にいたのかなぁ」
「警察とか、病院とか行かなくていいのかよ」
どこか責めるような響きのある声を聞いた瞬間、フィリシアは無意識に手を伸ばしてドアを開けていた。
驚いた顔が二つ、まっすぐフィリシアに向けられた。そのひとつは彼女のもので、もうひとつは降りしきる雨の中、別れたきりのアーサーのものだった。
「無事だったの……?」
安堵と混乱が押し寄せる。振り下ろされた剣は、確実に彼の命を絶ったとそう思っていた。彼女の脳裏には剣がその体に触れる寸前だけが残っていた。
けれど、彼は生きている。
よかったと素直にそう思い――しかし、ぬぐえない不安に笑顔が引きつるのを止められなかった。
「あんた、誰なんだ?」
不安を裏付けるように、ゆっくりとソファーから立ち上がった少年が問いかけた。その瞳は明らかにフィリシアを警戒している。王城で見つづけた、あの人懐っこく無邪気な輝きがない。
「アーサー?」
声が震えた。振り下ろされた剣を、アーサーは避けようとはしなかった。
そして、エディウスも無慈悲にそれを振り下ろし――そして、おそらくは振り切ったのだ。
彼がここにいるはずがない。いたとしても、動く事はないだろう。
フィリシアは茫然としたまま自らの体をきつく抱きしめた。
「私――アーサーを、置き去りに……」
そして、エディウスさえも置き去りにしたのだ。どこかで狂ってしまった歯車を正すための機会は、あの時以外なかったというのに。
フィリシアは、アーサーの手をどんなことをしてでも振り払い、エディウスの元に戻らなければならなかったのだ。しかし、恐怖と混乱で逃げること選んでしまった。
「どうしよう……」
過ちに気付き、全身が震えた。膝を折って自分の体を抱きしめても、震えはただひどくなる一方だった。
その震えが、ふと去っていく。驚いて顔を上げると、目の前に自分と同じ顔をした少女がひざまずき、両手をフィリシアの肩においていた。
じん、と胸になにかが
「落ちついて? ひとつずつ、ゆっくり話そ?」
噛み砕くように口にする。抱きしめて、あやすように背中をさすられ、こらえきれずにその肩に顔を埋めた。
ここがどこかわからない。彼女たちが誰なのかもわからない。
だが、なぜか信用できるという思いが胸の内にあった。
胸の内にあったからこそ、彼女は真の過ちを犯す。
「私は、フィリシア――フロリアム大陸で、踊り子だったの」
「それで……?」
フィリシアと同じ顔をした少女は、優しく問いかける。
その瞬間、引いてはならない引き金に、もうひとりの彼女≠フ指が触れた。