【二十五】

「フィリシア!」
 雷鳴に負けじとアーサーはフィリシアの名を呼んだ。はじかれたように、彼女はアーサーが誘導するまま走り出した。
「あ、あれ、エディウス……!?」
 距離はあったが、彼の手に持たれていたのがなにか理解できないほど平和な生活をおくってきたわけではない。
 光を反射して存在を誇示したのは紛れもなく長剣だった。
 顔は確認できなかったが剣を持っていたのがエディウスであることは疑うまでもない。彼は、その体をまっすぐフィリシアたちに向けたまま剣を片手にあの場所に立ち尽くしていた。
 賓客が多く訪れた成婚の儀当日に、彼らを迎えるはずの主賓が森の中にいる――普段の彼ならそんなことはしない。普段なら、どんなに気が塞いでいても顔色ひとつ変えずに来賓をもてなすことに心を砕くだろう。
 大国の王には似合わない、彼はそんな人間だった。
 しかし、その予想を裏切って彼は長剣を手に森の中にいる。呆れるほど生真面目な彼からは想像できないその光景があまりにも不気味だった。
「どうして……」
 あそこにいるのだろう。
 なぜ、なにも言わずに――剣を、手に。
 ざわりと悪寒が駆け抜ける。手にした鍵が熱を帯びた気さえして、フィリシアはそれ以上の言葉をすべてのみこんだ。
 長い間捜し続けて。
 出会って、好きだと自覚して、一番近くにいる人だと思っていた。不安は確かにあったし、逃げ出したいと思ったことだってある。
 しかしこれほど絶望したことはない。
 純粋に怖いと思ったことはない。
「アーサー、離して」
 だが、離れるほうがなおいっそう不安を掻きたてた。
「私、あそこに戻らなきゃ」
「ダメだ」
 音楽にまみれてしまいそうなほど小さな声がフィリシアの耳に届いた。掴んだ手に痛いほど力が込められる。
「ダメだ、今は」
 耳馴染みのいい曲が優雅に流れる。絶え間なく、しじまを縫うように静寂を打ち破っていく。
 フィリシアはなんとか手を振り払おうと苦戦したが、彼の手は離れず、やがて森の中の小さな広場にたどり着いた。
 世界を覆うようにたれこめた暗雲から雫が零れ落ち、フィリシアの頬を軽く叩く。
 引きずられるように小さな広場の中央へ行くと、遠く離れていったはずの音楽が不意に耳元で高く響いた。
 ざわざわと悪寒が広がる。鍵を握った手に、とっさにきつく結ぶような力を入れる。無機質なはずの鍵は、今度は紛れもなく熱を帯びひどく熱く感じた。
 フィリシアは手を凝視し、導かれるよう数歩先の空間を見つめた。
 広場の一部が不自然に揺らめいている。透明でにごりなく、背後に広がる森を忠実に映し出しだす様子にフィリシアは目を見開いた。
 まるでそこに水の壁でもあるようだ。
 景色が小刻みにゆれ、歪んでいる。降り始めた雨があたり波紋のように広がっては消えていく空間のゆがみは、辺りをつつむ音楽に触発されて着々と大きくなる。
「――フィリシア」
 彼女と同じ光景を見つめ、アーサーの声が震えた。彼は背後とその異様な空間を何度も見比べている。
「これが、開くの」
 波打つ壁を目の当たりにし、フィリシアは手に包まれた鍵を見おろした。小さな鍵に埋め込まれた真紅の石が淡く光を帯びる。懐かしい曲とともに、高く細く鈴のような音が二つの鍵から響く。
 ――使い方は。
 自然と指が動いた。大きな鍵の握りには細い穴があいている。
「これが、時間をつかさどる鍵」
 その細い穴は鍵穴なのだ。差し込む鍵は、真紅の石をはめ込んだ対となる小さな鍵。
「これが空間をつかさどる鍵。……グラルディーの秘宝」
 すべての空間、すべての時間に等しく存在し、どこにも属することのない者。そう語った老婆が持つのは、人知を超えた神具――神話の時代にその栄光とともに失われなければならなかった神々の遺産。
 人が手にしてはならないはずのもの。だから彼女は、誰にも触れさせるなと言ったのではないのか。
 こんな小さな鍵に時代を狂わせる力が存在するからこそ、誰の目にも触れさせてはならないと、そう告げたのではないのか。
「フィリシア?」
 アーサーの声にはっとして、フィリシアは鍵を凝視した。
 真紅の石をはめ込んだ鍵は大きな鍵の握りに挿され、その鍵は歪みつづける空間の一部にめり込んでいた。
 時と時を、空間と空間を結ぶ秘宝。
 無意識に手が動いた。――開けようとしている。開かないはずの扉を。空間の歪みを。
「だめ」
 いま、ここを離れるわけにはいかない。
 あのまま彼を放り出してはいけない。
 そう感じて、フィリシアは己の手を止めようともう片手を伸ばした。
「フィリシア」
 雷鳴と少年の声が重なると同時、雨にしっとりと濡れた手が、鍵を握るフィリシアのそれと重なってゆっくりとひねった。
 あたりを包む懐かしい唄に誘われて、心臓が踊り狂う。
 不快な気配は手を通し全身へと広がって、硬い音とともに退いていった。
 眼前にあった森の一部に切り込みが現われ、その奥から闇が覗いて瞬く間に広がる。闇が繋がる先は、彼女をこれ以上不安にさせることはない。
 漠然とそれを感じると、背後にいたアーサーが手を離し彼女の背を押した。
 鍵を握ったまま、彼女の体だけがするりと移動した。驚いて背後を振り返ると、瞬時にアーサーとの間に薄い膜のようなものが現れていた。
「アーサー!」
 とっさに手を伸ばしたが、膜にさえぎられて彼に触れることさえできなかった。それどころか、フィリシアの声すら聞こえないように彼は瞳を伏せて踵を返した。
 フィリシアは息をのんだ。
 広場に取り残されたアーサーは、微動だにせず森を見つめていた。
 いや、森ではなく、生い茂る枝を掻き分けて進んでくる男を見つめていた。
 雨音が響く。それ以上に、懐かしい曲がうるさいほど鳴り響いた。心臓が踊り狂う。鍵を手放そうとしたが縫い付けられたように指は動かず、フィリシアは自由になるもう片方の震える手で見えない壁を何度も叩いた。
 しとしとと降りしきる雨の中を、剣片手にエディウスが歩みよる。
 茫洋とした表情。――寒気を覚えるほど、感情の読めない顔。
 剣を握ったその指が紙のように白かった。
「エディウス」
 ――どうして、と心に問いかけた。
 どうしてこんな事になったのだろう。対峙するのは、血をわけた家族なのに。フィリシアがずっと昔に無くした、なににもかえがたい繋がりがある二人なのに。
 ひらめく雷光の中、エディウスがだらりと垂れ下がった腕を持ち上げた。雨に濡れ、剣先が鈍く輝いている。
「逃げて」
 背中を向けつづけるアーサーに、フィリシアは懇願した。
「お願い。逃げて、アーサー」
 しかし、アーサーは身じろぎもしない。ただその場に立ち尽くし、その顔をエディウスに向け続けている。
 重苦しい空が光を宿す。
「やめて、エディウス」
 不意に腕に力が込められた。雨にぬれ、肌に張り付いた布越しに筋肉が動くのがわかった。
 剣が振り下ろされる直前、唄と雨音以外のものがフィリシアの耳に届いた。
 ――ごめん、父上。
 消え入りそうな声に、エディウスが一瞬目を見開いた。しかし、振り下ろされた剣先は止まることなくまっすぐに少年に向かった。
 悲鳴がもれた。
 剣が少年に触れる寸前、フィリシアの目の前でブツリと音をたてて世界が暗転した。
 フィリシアは崩れるようにうずくまり、肩を抱くようにして嗚咽をこらえた。唐突に自由になった手には、いまだにしっかりと鍵が握られている。不快感が和らいだ鍵に透明な雫が触れて弾けた。
 時をつかさどる大きな鍵が奇妙な形に歪んでいた。暗黒の中に身をおくにもかかわらずそのこと感じ取り、ねじ曲がった先端を握りしめて声を殺して泣き続けた。
 どうして。
 どうしてこんな事になったのだろう。
 穏やかなあの人が、なぜあそこまで変容したのか――。
 その原因が何一つフィリシアにはわからなかった。あの、振り下ろされた剣の行方以外は何一つ。
「アーサー……っ」
 殺すほど憎い相手ではなかったはずなのだ。彼は誰よりもエディウスの身を案じ、彼のために心を砕いていた。その彼を、エディウスが嫌っていたそぶりなど見せたことはない。
 それなのに。
 父と呼んだその人に、彼は凶刃を向けられた。
 その悲しみはどれほどのものだったのか。
 こらえていた嗚咽が指の間からもれた。泣き崩れ、悲しみに囚われて彼女は闇の中へと沈んでいく。
 やがて、闇の中に零れ落ちた雫が珠となり、延々と沈んでいこうとする彼女の周りに小さな光を集めた。
 光の珠が線を作り輪を成し、亀裂を生じさせる。闇の一部がパラパラと音をたてて崩れ、フィリシアの体をつつむと口を閉じるように集束した。
 眼裏が不意に明るくなったことに驚いて、フィリシアは双眸を開く。ずしりと体が重くなり、意識が遠のいていく。
 小さな緑が視界のはしで揺れた。とりどりの花をつけた、いっぱいの緑がそこにあった。
「――だれ?」
 警戒するような声が響く。大地に這うように倒れていることに気付き、フィリシアは体を起こそうとしたが失敗し、そのままその場に伏した。
「どうしたの!?」
 少女の声が問う。答えることもままならず、フィリシアは細くあえいで視線だけを動かした。
 淡く薄い青をたたえた空が見えた。さらに視線を動かして、彼女はかすむ目を凝らした。
 少女がひとり立っている。驚いたように立ち尽くす少女はフィリシアに数歩近づいて、慌てて背後の建物に顔を向けた。
惣平そうへい! 来て、早く――!!」
 よく通る彼女の声が切羽詰ったように誰かを呼んだ。
「早く! 私が倒れてる……!」

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