【二十四】

 絶えることのない音楽。
 明るい笑い声。
 早朝どころか前夜から夜通し歌い、踊るその一日は、祝辞が挨拶となって国中を染めた。
 バルト王、成婚の儀――当日。
 大気に濃密な土の香りが混じり雨の気配を運んできたが、そんな雲行きをよそに、多少の問題を抱えつつも国を挙げての盛大な祭りが始まった。
 しかし、その主役となる少女は早朝から青ざめたまま、いっこうに笑顔を見せようとはしなかった。
 舞姫と呼ばれ、多くの偉人たちの目にとまった少女だが、さすがにこの時ばかりは緊張しているのだろう。
 誰もがそう思い、疑うことはなかった。
 バルトは大国だ。フロリアム大陸有数と言ってもいい。いくら舞姫ともてはやされても、所詮は平民出の娘――いずれは王妃として相応しい女性になってもらわなければならないが、いまは緊張するその姿が初々しく誰の目からも好感が持てた。
 一時は城内でささやかれたアーサーとの噂もこの祝儀に掻き消された。
 フィリシアは淡い色を基調としたドレスの裾を見つめる。午後の儀式で誓いをたてれば、彼女はバルト国王妃として国民の前に出なければならない。
「フィリシア様?」
 不意に声をかけられ、フィリシアはビクリと体を震わせた。
「ご気分でも?」
 気遣う侍女にうまい言い訳すら出てこなかった。それをどうとったのか、侍女たちは顔を見合わせて苦笑した。
「大聖堂での誓いのあとはパレードがあるだけで、他国の使者の方も祝辞は明日からと伺っております。そんなに緊張されなくても……朝食は食べられそうですか?」
「無理、かも」
 朝食は成婚の儀に駆けつけた使者も交えての物になると事前に聞いていたフィリシアは、ただ短くそう答えて押し黙った。
 食後は、休憩をはさみ婚礼衣装に身を包んで大聖堂まで移動、儀式が終わればそのまま城下をまわる大々的なパレードとなる。
 生涯でただ一度の大舞台は、ひどく気鬱な作業に思えた。
 フィリシアはもれそうになる溜め息をのみこんで、小さくノックされたドアを見た。
 入室を許可すると、ひょこりとアーサーが顔を出して清々しく微笑む。そして、驚いた視線に迎えられ、少しだけ困ったような表情になった。
「皆、さがって。少し休みたいの」
 フィリシアがそう告げると、侍女たちはなにか言いたげにしながらも退室していった。
 入れ違いに入ってきたアーサーが、椅子に腰掛けてフィリシアを見つめる。
 ひどく気まずい空気を感じながらも、彼女は豪奢な棚の引き出しの奥をそっと探って手に触れたものを強く握りしめた。
「……それは?」
 ジャラリと音をたてる鎖に、アーサーが不思議そうな声を発する。手に広がる不快な感触に、彼女は苦く笑って二つの鍵をアーサーに突き出した。
「守り人の鍵」
 大きさも形状も異なる二つの鍵。グラルディーと名乗る老婆から受け取った、誰の目にも触れさせてはいけない禍禍しい物。
 アーサーは目を見張り、言葉を失って鍵を凝視した。
 やがて頷いて、手をのばす。
「貸して、フィリシア」
 息をのむようにしてフィリシアはアーサーを見た。
 彼は硬い表情を意図して緩めながら口を開く。
「それが不安なんだろ? 始末してくるから」
「違う……これがなくなったら、私……っ」
 怖い、と言葉に出さずに叫んでいた。きつく鍵を握りしめ、引き寄せる。投げ捨てたいほどおぞましいと思うのに、手にすれば寒気を覚えながらも安堵する。どう使うかもわからない鍵は、反する感情を彼女の胸の奥に植えつけた。
 鍵を受け取ろうとしたアーサーは、そのままフィリシアの腕を掴んだ。
「とにかく、大聖堂に移動するまでにはまだ時間がある。それをどうにかして――そのあと、どうするかを決めよう」
「……どうするか?」
「成婚の儀、延期にしたほうがいい。土壇場では難しいだろうけど、花嫁がいなくなればそうせざるを得ない」
「アーサー」
「大丈夫、まかせて。悪いようにはしないから」
 フィリシアの手を引いたままアーサーはドアへ行き、広い廊下に人がいないことを確認すると一番近い通用口に向かって歩き始めた。
 廊下を慎重に進みながら、人がいれば立ち止まってそれをやり過ごし、やがてたどり着いたドアに鍵を差し込む。
「ここはあんまり使用しない通用口だったから、あらかじめ施錠するように言っておいたんだ。人の出入りができないから警備兵もいらないだろって、提案しておいた」
 小さな鍵を鍵穴に差し込んで、アーサーはノブをひねる。すんなり開いたドアに吐息をついて、彼はドアの外を確認してから再び歩き出した。
 ふと、フィリシアが立ち止まる。
 背筋を這うような悪寒に一瞬身をすくめ、彼女はあたりを見渡してからアーサーに視線を戻した。
「どうしたの?」
「な、なんでもない。……どうしてここまでしてくれるの?」
 悪寒をふり払いフィリシアが緊張して問いかけると、アーサーは苦笑を彼女に向けた。
「……償いたいからかな」
 淡々とした口調には、感情らしいものが見えない。彼はバルト王城の背後に広がる森に分け入りながら言葉を続けた。
「誰かが言ってた。兄上はね、真面目すぎる。汚れることを嫌い、堅実で国民を第一に考える明主だけど、あまりに臆病すぎる。……どうしてだろうって、なにひとつ不自由なく暮らしてきて、どうしてあんなに頑ななんだろうって、不思議がってた」
 アーサーは足を止めた。
「あの潔癖さは王たる器じゃない。エディウス王は明主だが暗主――国を滅ぼす暴君と大差ない。なにかの拍子に簡単に崩れ去る、ここはまるで薄い氷の上に建つ牙城のようだって……そう、言ってたんだ。それはね、その原因を作ったのはね、たぶんオレなんだと思う」
「そんな事は……」
 ふわりと悲しげに少年は笑んだ。
「兄上は一度も、オレに笑顔を向けたことがないんだよ。いつも顔がこわばる。そういうのって、わかるんだよね。だから後悔して欲しくなくて、幸せになって欲しくて頑張ったつもりだったんだけど――ダメだったみたい」
 細く流れる音楽に気付き、アーサーは顔をあげた。フィリシアもつられてあたりを見渡す。
 耳に馴染んだその曲は、名もないまま人々に愛され続ける優しい唄だった。大陸に住む者なら一度は必ず耳にする曲は、途切れることなく続いていた。
「ああ、宮廷に旅の音楽家が来てるんだった。今日は一日中絶えないんだろうな」
 アーサーはどこか他人事のようにつぶやく。
「ねえ、どうするの? 私がいなくなったら」
「いま考えてる」
 即座にアーサーは返して、そして表情を凍らせた。視線がフィリシアを通り越し、その背後へとそそがれる。
 ざわりと鳥肌が立った。
 再び訪れた悪寒にフィリシアが振り向こうとすると、アーサーは強引に彼女の手を引いて走り出した。
「アーサー!?」
「走って!」
 理由を問いかけるよりも先に首をひねった。
 ひどく嫌な気配がする。それは、まるで掌中の鍵と同じような、例えようもない不快さとどこか似ていた。
 見つめる先に、男が立っている。
 伏せがちな顔からは表情が読み取れない。厚い雲が太陽を遮り、男の長い頭髪はくすんだ鈍色に見えた。
 森の中に立ち尽くす男の手には、何か長いものが握られていた。
 光が辺りを包み影が大地に焼きつく瞬間、男の手に握られたものはそれ以上の光を宿して小刻みに揺れた。
 耳をつんざくような雷鳴が響く。大地がわずかに揺れた。

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