【二十三】

 白くけぶる部屋を眺め、エディウスは視線を彷徨わせる。ひととき人を狂わせるはずの甘い香りは、なぜか一度も彼を慰めてはくれなかった。
 冴える意識に自嘲して、彼は窓辺へと歩み寄る。
 苛立ちと動揺を押し殺し、彼は澄んだ空をあおいだ。
 しばらくしたら、謁見の準備が整ったことを知らせるために臣下がこの部屋を訪れるだろう。久しぶり甘くけぶるこの場所を見て、彼らがどんな顔をするのか想像すると何故だか無性に楽しくなって笑いが込み上げた。
 気などれない。
 本当に狂えたなら、もっと早くにそうなっていた。
 雲を見つめて双眸をとじた。
 だが、そうとは知らない臣下たちは狂うまえに嫡子をもうけさせようとフィリシアとの婚姻を許した。相手が下賎者でも彼らが重要視するバルトの血は残る。それに、フィリシアは踊り子だが悪評が耳につく娘ではない。それどころか、渡り歩いた土地の人々はまるで妖精のようだったと褒めることすらあった。
 フィリシアを王妃に据え、あわよくば他国から側室を選び、そこに男児が生まれれば手段を選ばずそれを次期王に据えるために教育する。打算的ではあるが、彼らは長く王家に仕え、王族が頂点にたつこの国がいかに自分たちに住みよいかをよく理解している。
 王家の血を残すという最終的な目的が達成され、それがより正統であればいいのだ。
 だが。
 エディウスは壁に手をつき、無意識に爪をたてた。
 城の者がささやいていた。舞姫は自分の立場を棚に上げ、王と婚姻を結びながらも王子と密会を繰り返しているのだと。
 確かに、二人は歳も近い。話も合うだろうし、会話も弾んでいるように思う。
 中庭で肩を並べて話し込む姿は誰もが目撃し、一部ではその姿が微笑ましいとさえ言われていた。
 それが最近になって大きく変化した。
 フィリシアとアーサーが人目を忍んで会っていると言うのだ。
 踊り子はもともと売春を生業なりわいとしてさまざまな土地を渡り歩く。地位もなく、身分は卑しく、そしてその常識をなぞるようにフィリシアの身元もようとして知れない。そんな娘だから、より安定した地位を欲しがっているのではないかという危惧はどこからともなく生まれた。
 王に取り入ってはいるが、その裏では王子と通じているのではないかと、そう問いたのは誰だったか。
「そんな事はない。そんなはずはない」
 うめくようにつぶやいて、エディウスは顔を伏せる。
 フィリシアは実直な娘だ。私欲で婚姻を結ぶほどしたたかではない。
 ――そう、思いたい。
 奪った剣も、彼女が捨て身であればいつでも所在を告げる覚悟があった。
 けれど彼女は剣の所在を問う事もなく、いまだ城にいる。その理由が好意だけであると思いたい。
 最後の選択をゆだねられたこの状態でも、まだ城にとどまり続けていてくれるのだと信じたい。
 それなのに、王子の恋人という立場では飽き足らず、より高い地位を望み、王であるエディウスとの婚姻を選んだのではと噂する声が絶えない。
 その声は日増しに大きくなり、一部では真実として受け止められている。
「違う」
 うっすらと重なる残像に向けて、エディウスはようやく否定した。
「フィリシアがアーサーと通じているはずがない」
 エディウスは低くうめく。
 ようやく見つけた娘だ。ウェスタリアのかげを祓う、たったひとりの娘。手放せるわけがない――裏切るはずなどない。
 そう信じているのに、不意に重なってしまう。
 過去の自分と。
 そう考えた瞬間、父を裏切り、真相を知らずに彼を日々追い詰めていった鋭い言葉の数々が、まざまざと蘇った。
 人は、人を裏切るのだ。
 悪意ではなく好意だけでも、人は人を裏切ることができるのだ。
 甘い芳香をまき散らし、脳裏で女が楽しげに笑う。
「あなたも狂っているのよ」
 優しい笑みで、歌うように奈落の底へと引きずり込もうとする。腕に抱いた悪夢の結晶を誇らしげに見おろしながら。
「違う」
 エディウスが悪夢を振り払うように窓の外へと視線を泳がせると、脳裏にこびりつく女の影がわずかに薄らぐ。
 それに安堵した直後、エディウスは瞬きすら忘れて窓の下を凝視した。
「フィリシア……?」
 木々に隠れるように少女の姿がある。傍目からも落ち着きがなく、彼女が誰かを待っていることが知れた。
 エディウスは、動揺する心とは対象的に彼女の姿をひどく冷静に観察する己に気付く。窓の外を注視する間、思考という思考が停止していた。
 ほどなく、見知った少年が現れる。
 二人はなにかを話し合い、肩を寄せ合うようにして森の中へと消えていった。
 エディウスはその光景を目に焼き付けてから、それを振り払うように頭をふった。
「違う……」
 うめくように否定して、彼はその場に座り込んだ。
 日々ささやかれる言葉の数々で揺らいだりなどしない。甘い毒を吐き散らす女が狂っていると嘲笑しても、いまは確かに信じられるものがある。
 大切なものができた。
 初めて、守りたいと思った相手が――できた、はずだった。
 それなのに、心がこごる。
 あれはなにかの間違いだろう。噂される言葉がすべて真実であるはずがない。フィリシアは実直な娘で、アーサーもまた、実直な少年だ。
「でも、あなたは狂っているのよ」
 あざけりのようなものを浮かべ、優しくささやく女の声が木霊する。
「だから仕方がないでしょう、あなたが裏切られても。だって、あなたも裏切ったのだから」
 女の腕の中のものが不意に崩れ、それすら気にとめずに彼女は幸せそうに大きな腹をさすりながら言葉をつむぐ。
「ねえエディウス、いっしょに溺れましょう」
 幻の女が手をのばす。無垢な微笑を浮かべ、聖母のように穏やかな口調で。
「――狂いましょう」
 眼前が暗くなる。視界にとどまるすべての物から、色が失われていく。
 心が、凝る。
 狂気を誘う幻の手に、エディウスは己の手を差しのばした。

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