【二十二】

 溜め息が大気に溶ける。
 城下は気楽なことに成婚の儀の準備を始めたらしい。御触れが出るのも時間の問題だと判断し、王妃が踊り子である事実は多少論議をよんだにとどまった。
 反対する国民が大挙して押しかけてくることを予想していたフィリシアは、城内の者以上に国民が楽観的であることを知らされ、肩を落として森の中を歩いていた。
「どうしよう……」
 臣下たちに詰め寄っても、最近は歯切れの悪い返答ばかりが来る。
 もちろん、直談判を心に決めて毎夜のようにエディウスのもとに訪れてもいる。しかし、蜜月よろしく甘いばかりの時間を過ごしてしまう日々である。
 フィリシアは、自分自身の弱さに呆れ、心底失望した。
 ただ単に、踊り子が王妃になったと嘲笑されるだけでは済まされないかもしれない。
 唇を噛みしめ、フィリシアは首からさげた鍵に視線を落とす。
 以前よりいっそう不快な何かをまとったその鍵は、普段は人目に付かないところに隠して持ち歩かないようにしていた。
 だがここ数日を機に、手元になければたまらなく不安になった。
 鍵をそっと胸元に隠し、フィリシアは何度目かの溜め息をつく。
 この国を出ればいい。それだけの話だ。
 そうすれば不安も消えるし、鍵も元に戻るに違いない。
 それはわかっているのに、そんな簡単なことができない。
「……グラルディー」
 生きる道を示してくれた老婆は、そんな名を持っていた。フィリシアは彼女と出会った森を心に描きながら、助けを求めるように呼びかけて密林を彷徨う。
 捜している人が、エディウスであればいいと思った。
 別人なら再び旅に出なければいけないから、彼がそうであればいいと思った。
 けれど、いまは別人であればどんなに良かったかと、そう思う。
 言葉を交わすたびに、肌を重ねるたびに、疑問が確信に変わっていく。
 ずっと捜していた人。
 助けられると、おろかにもそう思ってしまった人。
 夜は穏やかに彼女を受け入れるその人は、まるで小波さざなみさえ忘れた湖面を思わせるほど静かな瞳をしていた。
 それが。
 その瞳が、なにかの拍子に背筋が冷えるようなものに変わる。
 フィリシアはそれを思い出し、立ち止まった。
 逢瀬の際にそれを聞いても、彼はまるで身に覚えがないようにただ不思議そうな顔をするばかりだった。
 本当に気付いていないのか、それとも――。
「フィリシア?」
 立ち止まり、茫然と頭上を見上げていたフィリシアは馴染んだ声に目を見開く。
 前触れもなくかけられた言葉に驚いたのか、不安だった心にその声があたたかく聞こえたのか、不意に瞳から熱いものがあふれてきた。
「え? え!? ど、どうしたの……っ」
 涙が頬を伝う。
 好きな人といっしょにいて、これから幸せになれるかもしれないと安堵することさえできない。その現実が、哀しかった。
「フィリシア」
 気遣うような声とともに、彼女より少し背の高い少年が木々を掻き分けて近づいてきた。
 少し考えるように間をあけて、彼はそっとフィリシアの手をとって導くように歩き始めた。
 嗚咽を殺し、フィリシアは素直にアーサーに従う。
 父と母を亡くしたあの日以来、辛いと思って泣いたことはない。
 なにがあっても歯を食いしばり、毅然と前だけを睨みすえるようにして生きてきた。楽しいことばかりではなかったその生活を支えてきたのは、未来に出会えるはずの人への好奇心と希望に満ちた純粋な想いだった。
 ただ言葉だけを頼りに、いるかどうかもわからない人を捜していたあの頃のほうが、今よりもずっと幸せであったに違いない。
 捜さなければよかった。
 出会わなければよかった。
「他の人だったら……」
 よかったのに、と続けようとしたが、それはうまく言葉にはならなかった。
 アーサーはフィリシアを小さな広場に案内する。息苦しいほど木々が生い茂るその森にあるには不自然なほどの空間。
 その中央にフィリシアを導いて、上着を脱いでそこに座るよう指示した。
 反発することも忘れて腰をおろしたフィリシアは、そのまま顔を覆って肩を震わせた。
 アーサーは隣に腰をおろし、木々に囲まれた小さな空を見上げる。刻々と形を変えながら流される雲をどれほど見送ったのか――。
「ごめん」
 小さな声が、彼の耳に届いた。
 なにも答えることなく彼はごろりと横になり、少しだけ遠くなった空を変わらず見つめ続けた。
「私、ここにいないほうがいい。きっと、いちゃ駄目なんだと思う」
 ぽつりぽつりと言葉にすると、居たたまれなくなって涙がこぼれる。
 好きな人の腕の中で目覚める朝がどれほど幸せなのかを知ってしまった。他のなにを犠牲にしても、それだけは失いたくないと切望する心がある。
 不安を掻き立てる鍵を手にしながら、フィリシアはどうする事もできずに過ぎていく時間とともに後悔をつのらせていく。
 気丈に振る舞ってきた彼女にも脆い部分がある。
 露呈されたその脆さがいたずらに不安を肥大化させた。グラルディーの言葉は破局だけを示唆するものではないとわかってはいるが、同時に彼女はフィリシアに選択肢を与えてもいた。
 その選択肢の中に、エディウスの命が入っているとしたら――。
 震えが止まらなかった。
 多くの命と、たった一人の命を計りにかける自分の姿が容易に想像できた。そして、迷いなく非情な答えを選ぶ姿はさらに想像しやすかった。
 間違えるなと、老婆に言われているにもかかわらず。
「……兄上の様子がおかしい」
 虚空を見つめ、アーサーは胸のうちを言葉にした。ふっと息をつめ、思考を無理やり中断させてフィリシアはようやく彼を見おろす。
「どこが、なのか、何がなのかは……わからないけど」
 アーサーは軽く体を起こしてまっすぐフィリシアに視線を合わせた。
「別人に見えるときがある。でも、それはフィリシアのせいじゃない……たぶん」
 息をのむフィリシアにむけ、アーサーがどこか自虐的に笑った。
「たぶん、オレのせい」
 苦しそうにつぶやいて視線を落とした。
「どうして生まれてきたのかな。苦しめたかったわけじゃないのにね」
 そっと手をのばして涙をぬぐい、アーサーは細く息を吐いた。普段は皆を困らせることばかりする王子は、少女の頬を柔らかく包み込んでささやいた。
「婚礼の儀は五日後に決まった。――前例がないほど唐突な慶事だ」
「五日……」
「相談ならいつでも乗る。……逃げるなら手を貸す。答えは今じゃなくていい。時間はあまりないけど、よく考えて。……いいね?」

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